退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「エネルギー満載の画家と『上等な喜劇』で観たい女優」について

2021-03-31 02:59:21 | Weblog
くもり。だったはず。

ようやく美術館で「横尾忠則 原郷から幻郷へ、そして現況へ」を観る。

圧倒的な「赤の魅力」よ。
「異次元」を思わせる描きぶりにふむふむ。

問答無用に「何か」を感じさせる世界がここに。
しばし酔うのみ。

残念なことに「ペンギンマニア」の彼女も上司もかの画家を知らず。
なるほど「文化不毛の地」ゆえ。

「現物の迫力」をあらためて。
「従来の作品にマスクをはめた姿」もたくさん。

ただしカタログの内容は微妙。
とりわけ「解説」が味気なく。

曽利文彦「ICHI」(’08)を観る。

綾瀬はるかが観たかっただけ。
内容はというとさして面白くはなく。

「瞽女=盲目の旅芸人」という存在がかつてあったことを覚えておこう。
篠田正浩「はなれ瞽女おりん 」(’77)も知っておきたいもの。

見た目のままで「僕の彼女はサイボーグ」(’08)。
同様に「おっぱいバレー」(’09)も。

なるほど「男子の着眼点」の貧しさが伺える過去。
実は「喜劇向き」だというのに。

彼女が何とも「不思議な雰囲気」を醸し出す存在であることを忘れずに。
「義母と娘のブルース」は未見なので詳細は不明。

そして「原発事故」以降の「福島」を伝えていることも。
広島出身ということで何となくわかった気になったり。

「勝手な妄想」は別にして。
このところ顔が変わりつつある長澤まさみと比べると彼女の方が「魅力的」。

「上等な喜劇」の中で彼女を観たいところ。
関係各位にお願いしたい。
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「『確定申告』をめぐるあれこれと『語学はセンスであること』あるいは『郊外』を描いた映画」について

2021-03-30 02:33:11 | Weblog
晴れ。おだやか。

確定申告がらみで区役所へ。

「時間がかかりますよ」と言われたのを信じてあれこれと時間を潰したものの。
結局向こうがこちらを認識していない結果に。

役所の「営業時間」が終わる頃にようやく存在を認められ。
「人の劣化」が身に沁みたと言えばいいのか。

昼間の公園でウグイスに似た鳥が椿の蜜を吸う姿を確認できたり。
久方ぶりの休日に映画を観に行くつもりだったのだが。

自分と同様に「忘れ去られた存在」になったオッサンは「ダメな役人」を罵り。
壁を蹴って帰っていった次第。

その後スマホをいじりまくり。

どうにか確定申告は出来た模様。
それにしてもわが国の「IT環境」は貧しいと言うよりなく。

さんざん待たされる間に斎藤兆史「英語達人列伝」を読む。

「母国語」があっての「外国語」だということをあらためて。
「センス」と「努力」が基本であるのは当然で。

「早期教育」になど意味はなく。
そこまで英語にコミットしなかった身としてはそういうものかと。

廣木隆一「ここは退屈迎えに来て」(’18)を観る。

橋本愛を観たくて。
門脇麦や柳ゆり菜、内田理央や岸井ゆきのがそれぞれに好ましく。

「まなみ先生」の瀧内公美が印象に残る。
彼女はすでに相当に評価されている模様。

どこまでも続く「無機質な風景」がいかにも。
「神童」成田凌がやがて「普通の人」になることも覚えておこう。

「なっちゃん」片山友希の姿にも納得。
「チンポ」渡辺大知の「愛情ぶり」がなかなか。

彼女たちを見守る村上淳と「愛人作り」に励むマキタ・スポーツよ。
「どうしようもない『郊外の現実』」がここに。

ゲーセンに「青春」があるのだからいやはや。
「現在の貧しさ」の中にある「物語」を味わおう。

音楽にフジ・ファブリック。
「乾いた土地」にふさわしい曲の数々。
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「『自分』を生きる人の『歴史』と奇妙な映画あるいはunder controlされるわれわれ」について

2021-03-29 02:31:53 | Weblog
雨。風強く終日降る。

小林よしのり「ゴーマニズム戦歴」を読む。

かの漫画家が自らの過去をまとめた内容。
それはたぶん「成長の歴史」だと思ってよさそう。

一番のポイントは「何か違う」と思ったらその「場所」を離れること。
「他者によって明らかになる自分の姿」がここに。

こうした「切磋琢磨」があってこその「自分」。
自らへの疑問も抱かないままの「自分」とは大いに違うことを確認しよう。

「わたしはこう思う」というのは結構。
ただしそれが「うんこ」ではないのだと証明できないとどうにも。

もちろんそれはどこまでいっても実は「不可能なこと」だったり。
とはいえ「身銭を切った結果」がないとどうにも。

「天皇」を「特別な存在」だと思うのは結局「宗教」だろう。
個人的にはそれに与しないけれど。

いかにも「ショボい人々の群れ」が目立つ現在。
やはり「簡単に『救われる存在』であってはいけない」という「倫理」を是非とも。

何より「救われる=自分の思い通り」だということに過ぎず。
おそらく「自立の意味」はそこをどう処理するかにあるのだと思われるのだが如何。

ジーク・アール&クリス・コードウェル「プロスペクト」(’19)を観る。

「無理筋の仕事」を続ける父親に付き合った娘は彼を失い。
それは宇宙空間のことで父親を「殺した」男と「脱出」を目指すのだがというお話。

「森とそこに漂うもの」の描写が「基本」。
面白いかと言われると微妙。

敢えて「解釈」するなら「生物学上の父親」より「そうでない父親」をということか。
いわゆる「家族」とは異なる関係に「意味」があるのだと。

「家柄」とか「血筋」とかを問答無用に優先するより。
「好ましい情報=遺伝子」だと思ってそれを「再生産する」方がマシかも。

かくも「劣化」したわが国に「有効なワクチン」がないものか。
NHKが「五輪の聖火」を運ぶ人々をドラマチックに放送していたり。

「現実」はそんなところにはないというのに。
福島の駅周辺のみが除染されただけで。

「幻想の共同体」を作り出すののが「メディア」であることをあらためて。
「under control」されているのはわれわれではないのか。
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「『死の描写』にふむふむと思う古典小説と最先端の科学を利用できないわが国あるいは『過去の文化』について

2021-03-28 04:19:06 | Weblog
晴れ。後くもりだという予想はそうでもなく。

プルースト「ゲルマントのほうへ Ⅱ」読了。

要するに「われわれは『いい加減な存在』」だということを描いた模様。
「祖母の死」のリアルさにふむふむ。

個人的に言えば父方の祖母と父親の死を思い出す。
家に帰ったり病院に行ったら「そのようなこと」になっていて。

入院している時に「こんなことはやっていられん」と父親が怒った日よ。
当時の自分は「仕方ないじゃん」といった内容の言葉を言い。

その後喉が渇いたと訴えるので氷の欠片を与えたら咳き込み。
もっとあれこれ話すべきだったかと今さら。

「叶わないこと」が「未来」を生み出すことについてあらためて。
どのような相手であろうと「お話」する用意をしているつもりではあるのだがなかなか。

マル激を観る。

今回は「ワクチンの事実」について。
西川伸一という実にわかりやすい説明をしてくれる人を知る。

「最先端の科学」がわが国にある一方それが「現実」に働きかけないことなど。
「基礎科学」を疎かにするゆえ「対応」が頓珍漢になる「現実」。

「劣化」がまたもやここに。
科学的知見を活かせないのは「われわれの識見の狭さ」だということを忘れずに。

マキノ正博「弥次喜多道中記」(’38)を観る。

片岡千恵蔵と杉狂児の主演。
「鼠小僧次郎吉」に「遠山金四郎」を加えた内容。

当時は「オペレッタ」というジャンルがあったことを知っておこう。
「オペラ」には至らない「ミュージカル」という理解でOK。

物語の「基本」は「人情」だったり。
現在で言えば「君の言うことは重々わかる」という設定。

香川良介や志村喬が脇を固める「贅沢」
ディック・ミネも登場。

「浪花節」の洗練された形とでも言えばいいのか。
こういう「文化」が過去にあったことを知っておきたいもの。
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「自然が生み出す美しい色の鳥たちと『知られざる傑作』あるいは『貴族という存在』を教えてくれる小説と好ましい人物の『引退』」について

2021-03-27 01:33:32 | Weblog
晴れ。風強く駐輪場では「ドミノ倒し」など。

昨日はいつもの寝落ち。
監修・上田恵介 解説・大橋弘一「日本の美しい色の鳥」を見て読む。

赤・青・橙・黄・綠・白・茶・灰色・黒。
あるいは伝統色・極彩色・輝く色など。

自然が生み出すさまざまな色彩の美しさよ。
詳細は敢えて書かないので本書まで。

オーソン・ウェルズ「オーソン・ウェルズ IN ストレンジャー」(’46)を観る。

元ナチの将校が南米でなくアメリカの田舎町に身を隠すというのがポイント。
今まで観た中で「いちばんカッコいいオーソン・ウェルズ」。

「スター・トレック」シリーズのライカー、ジョナサン・フレイクスに似た感じ。
もちろん「ヒゲありバージョン」ということでよろしく。

彼を追い詰めるのがエドワード・G・ロビンソン。
正体を知らず彼と結婚する判事の娘にロレッタ・ヤング。

実によくできたミステリーで教会の時計台の使い方がうまい。
本作を紹介した文章を知らなかったのが不思議なほど。

主人公と何度もチェッカーをする店のオヤジのビリー・ポッター。
幼い頃から娘に仕えてきたメイドのサラ、マーサ・ウェントワースも味わい深く。

「ヒヤヒヤの具合」はヒッチコックを思わせ。
未見の向きは是非。

以上が昨日の分で。

プルースト「ゲルマントのほうへ Ⅱ」を半分くらい読む。
「貴族という存在」の特徴を知る。

わざと「農家風のアクセントで話す」という倒錯ぶりにふむふむ。
それぞれのキャラクターの書き分けぶりが愉しく。

いつもの「人間観察の鋭さ」も十分に味わえ。
これまた明日読了予定。

それとは別に。

仕事場で唯一年上だった人が職場を去ることに。
今日が最後のお勤めだった次第。

手紙でも書いて渡そうかと思ったものの。
普段の自分を思えばそれも「大げさすぎる」ようで実行には至らず。

ズボンを引っ張り上げるクセに「少年時代」を思わせる人で。
なぜ彼が「信仰の道」に入ったかは聞けずじまいに。

教会にはバーベキューをしに一度行ったことがあり。
もっとも仕事場ではそうした話は全くせず。

「のんびり出来そうですか」と聞いたら「孫の世話で忙しくて」と。
なぜ彼が今になって仕事を辞める気になったかも謎のまま。

おだやかな物腰と声が素敵な人で。
今後も元気で楽しく暮らしていただきたいと思うことしきり。
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「記録はあるが伝記のない作品と渋い監督の作品」について

2021-03-25 02:46:43 | Weblog
晴れ。コート要らずのあたたかさ。

「女性電信手の歴史」読了。

本作より「マ・カイリー」と呼ばれた女性の伝記を読んだ方がよかったかも。
ここには「記録」はあるが「人生」がなく。

もっとも「新たなテクノロジー」がもたらされた後の女子のあり方についてはふむふむ。
例えばわが国では「バスガールあるいはタイピスト」を思い出してもよさそう。

それにしても「男子の偏見」たるや。
時代を問わずあれこれあること夥しい。

「労働争議=ストライキ」が結局は「資本の力」に負ける姿も。
当時の彼女たちより低賃金で働く人々がいるのだからどうしようもなく。

現在で言えば「人件費の安い国に工場ができること」を思えばわかりやすい。
そこに「好ましい未来」はあるのかと言えばないと言うよりなく。

アンソニー・マン「ララミーから来た男」(’55)を観る。

「テクニカラー」が穏やかに美しい。
「シネマスコープの魅力」はPC画面ゆえ判断できず。

弟を殺された男がその「復讐」のために「商人」に身をやつして「現場」へ。
ジェームズ・スチュアート主演。

アーサー・ケネディのヴィックはいかにもな「上昇志向」。
血のつながりはないものの彼を実の息子以上に可愛がる父にドナルド・クリスプ。

彼は「國民の創生」(’15)「散り行く花」(’19)のD・W・グリフィス作品からのベテラン。
その他にもいろいろあるがジョン・フォード「わが谷は綠なりき」(’41)でアカデミー賞など。

「悲喜交々の物語」が印象に残る内容。
映像としては冒頭の手綱越しのショットがなかなか。

「取っ組み合い」が馬の下をくぐる「工夫」などもあり。
ちょいと「ミステリー風味」もあったりして。

敢えて文句を言うならヒロインのキャシー・オドネルの魅力が微妙なことか。
クリス・ボルトの「怪優」ジャック・イーラムの「味わい」を忘れずに。

デイブのアレックス・ニコルの「哀しさ」も同様。
ケイトのアリーン・マクマホンとチャーリーのウォーレス・フォードの「脇役」が何とも。

同じ監督の作品では「ウィンチェスター銃'73」(’50)を是非。
あるいは「ランド・ラン」にふむふむと思う「シマロン」(’60)などいかが。
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「時代を問わず『同じこと』あるいは戦中の『プロパガンダ映画』とバブル当時の日米摩擦を描いた同じタイトルの映画」について

2021-03-24 03:41:52 | Weblog
晴れ。夜の冷えは緩む。

トーマス・C・ジェブセン「女性電信手の歴史」を途中まで読む。

副題に「ジェンダーと時代を超えて」。
「電信」が始まった19世紀初頭からしばらくして女性電信士が登場し。

「実力」がありながら男子たちから敬遠されるその姿は今も同じか。
もちろん「同一労働同一賃金」が果たされることも少なく。

彼女たちが当時の「道徳」からして「放埓」だと見做されることも。
要は「最新技術」がもたらす「男子の妄想」ゆえ。

本書の前半は区切りが短すぎてむしろ読みにくく。
「個々の事実」に拘るあまり「全体像」が掴みにくい内容。

とりあえず明日読了予定。
どのような「結末」になっているのかはお楽しみ。

レン・エンライト「ガン・ホー」(’43)を観る。

真珠湾攻撃の後のマキン島襲撃を描いた作品。
さまざまな理由で本作戦に参加したがる兵士たちという形式でキャストが紹介され。

ソーワルド大佐のランドルフ・スコットは「Xメン」のパトリック・スチュアートを思わせ。
若き日のロバート・ミッチャムがいかにもな「荒くれ者」。

「陸戦」かと思いきや意外にも潜水艦が登場。
爆雷に脅えるちょいとそれっぽい描写もあったり。

「ジャップ」は強敵で仲間たちが次々に死んで。
タイトルの「ガン・ホー」は中国語の「工合」が元で「調和ある戦い」のこと。

爆破シーンの迫力は相当なもの。
ラストには「プロパガンダ映画」らしく「演説」があったりもする。

ちなみに同じタイトルの作品もあり。
ロン・ハワード監督の86年の作品で主演はマイケル・キートン。

こちらは当時の「日米摩擦」を喜劇的に描いた内容。
山村聡が出ていたりして。

「日産」が「アッサン」に。
「日本人の異様な勤勉さ」がアメリカ人にもたらす困惑ぶりなど。

もっともこちらは「ハッピーエンド」で。
ただしいずれの作品も「日本人」がほぼ「日本人キャストでない」あたりの「インチキ」は同じ。

「よくわからない存在」として「そういうこと」になるのかどうか。
やはりある種の「差別意識」があるように思われるのだが如何。
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「幻想の日本と好ましい青春映画」について

2021-03-23 02:20:02 | Weblog
晴れ。まだ夜は冷える。

フォーンクルック幹治「ネイティヴが感動する英語にない日本語」を読む。

「わが国の失われた良さ」をバイリンガルが発見するといった内容。
ただし著者は敢えて言えば「幻想の日本」を見ているような。

これもある種の「オリエンタリズム」か。
当然のことながら「日本語にない英語」もあるから。

誰もが「I」で誰もが「you」の世界のよさもあるもの。
一方的に褒めても仕方がないと思った次第。

このあたりの「事情」については片岡義男を読むべき。
「日本語の外へ」をおすすめしておく。

カイル・ニューマン「ベアリー・リーサル」(’15)を観る。

幼い頃から「暗殺者」として育てられた女子が「普通の生活」を求めるお話。
彼女がいろいろなドラマを観てそれが「現実」だと思う姿は健気で。

メーガンのヘイリー・スタインフェルドの「微妙な魅力」よ。
リズのダグ・キャメロンはわが国では福地桃子の趣き。

ジェシカ・アルバとサミュエル・L・ジャクソンが脇を支えて。
「好ましい青春映画」になった次第。

タイトルは「あやうく死にかけて」といったところか。
若者を「応援する母親」と「管理する父親」の姿を覚えておこう。

一時は「学園のスター」に恋するものの「大切な人」をつかむ主人公の姿を忘れずに。
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「好ましい俳優が綴る『歴史』と『感情を伴わないアクション』のみの映画のつまならさ」について

2021-03-22 03:13:09 | Weblog
雨のちくもり。このところ風が強い。

ジョージ・タケイ「<敵>と呼ばれても」を読む。

著者の名前でピンと来ないのだとすれば「スタートレック」を観ていないからだろう。
日系アメリカ人の「歴史」を描いた「アメコミ」。

「パールハーバー」の後に彼ら彼女らが味わった「苦痛」たるや。
かの国が「沸騰しやすい」のは昔から。

問答無用に収容所に入れられるのだからいやはや。
「アメリカ人であることの証明」のために召集された部隊は「激戦地」で戦うことに。

「見た目で判断される酷さ」があった「歴史」を忘れずに。
「〇〇人」というステレオタイプによる判断がもたらした悲劇よ。

それでも後に大統領が「謝罪」をするだけマシだけれど。
9・11の後には「似たようなこと」が繰り返され。

つくづくわれわれは「愚か」だと思わされる次第。
それでも著者の父は「民主主義のよさ」を説いていたことを思おう。

そういう「民度」があったからこそ「民主主義」は機能する。
舌を噛んで死にたくなるような「現在の貧しさ」をあらためて。

チャド・スタエルスキ「ジョン・ウィック パラベラム」(’19)を観る。

主演のキアヌ・リーヴス、ハル・ベリー、ローレンス・フィッシュバーン、
イアン・マクシェーン、ランス・レディック、アンジェリカ・ヒューストンの「豪華」。

ただし「単調なアクションと銃撃戦」しか描かれないのでは感情移入も何もなく。
唯一の「収穫」は「渡辺謙」を思わせるマーク・ダカスコスのみ。

タイトルの「パラベラム」はラテン語で「戦争の準備」を意味する模様。
それにしても「感情の動き」にあまりに鈍感な描写に驚くのみ。

「既定のルール」を破るとしたらそこに「意味」があるはず。
そのあたりを「前作を観ているはずだからわかるでしょう」ではダメで。

監督は「アクション」にしか興味がなかったのか。
そこに「物語の魅力」を加えるつもりがなかったように思えるのが残念。

いろんな「戦い」のシチュエーションが出てくるのは結構。
とはいえ「敵が主人公を簡単に殺せるはず」なのにそうならないのには「理由」が要る。

例えば小林旭の映画だったら彼が「魅力的なスター」だったから。
これまた残念ながら現在のキアヌ・リーヴスにそれほどの「価値」はなく。

「スピード」(’94)や「マトリックス」(’99)の頃ならまだしも。
本作のシリーズはアクションや銃撃戦の速さと「敵が死ぬまで撃ちまくる徹底ぶり」が取り柄で。

さらにはいたずらに「傷を負う主人公の姿」が。
この種の「男優たちの思い込み」はいい加減にしないとどうにも。

「自意識の壁」を意識することのないままそれが伝わるわけもなく。
「目を覚ませ」と言いたくなるだけ。
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「やはり凄い作家と結局は『民度』であることあるいは『どうしようもない貧困』を生き延びる女子」について

2021-03-21 02:13:55 | Weblog
晴れのちくもり。夜になってちょいと降る。

小林信彦「アイドル女優に乾杯!」を再読。

「あまちゃん」から7年経った現在。
さらに現実は「劣化」を続けている次第。

先日観た「消えた中隊」(’54)はすでに本書で接していたのか。
「さよなら溪谷」(’13)も思い出し。

3・11があっという間に「過去」にされる姿も。
「異議申し立て」がかくも「ないこと」にされる「現実」たるや。

マル激を観る。

今回は「官僚の劣化」が実は「政治家の劣化」であることについて。
かつて「前者」を慮ったあまりに「後者」に「権力を集中させた」愚かさなど。

「それなりの政治家」がいればこそ機能する「制度」なのに。
そのことを忘れて「ウンコ政治家」にそれを任せてしまった結果が「現在」。

「ウンコ政治家=安倍あるいは菅」だったりするのだけれど。
「ダメな人」はあらゆるものを「ダメにすること」をあらためて。

もっともわが国の「民度」を思えば政治家や官僚のせいだけにするわけにもいかず。
ある種の「制度」が「成立する前提」をわかっていないとどうにも。

結局のところ「ウンコ」なのは「国民」だったりすることを忘れずに。
われわれがもっと「賢い存在」になるよりないのだということ。

ロリ・ペティ「早熟のアイオワ」(’08)を観る。

売春もクスリもやるどうしようもない母親の元で「育つ」三姉妹の姿がここに。
ジェニファー・ローレンスの「長女ぶり」が何とも素敵で。

おそらくわが国でもこうした「現実」があるはず。
彼女が「生き延びる姿」を覚えておきたいもの。

ラストで妹ふたりに「Get in the car, bitches」と言うのが何とも。
彼女が「詩」を頼りにする描写にふむふむ。

「母親の情夫によるレイプ」がここでも登場。
「恋愛幻想」から否応なく「目覚めさせられる姿」を忘れずに。

主人公がバスケットボールの「名選手」であるのが「救い」。
そんな「能力」も持たない貧困にあえぐ女子たちの「現実」を思いたいもの。

マーヴィン・ゲイ&タミー・ティレル「ain't no mountain high enough」を。
彼女の部屋には「ジミ・ヘンドリックス」のポスターもあり。

本作では「白人vs黒人」などという「対立」もない描写が好ましく。
無意味に「敵」を造り出す「愚」を思い出そう。
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