退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「終わり」について

2010-12-31 01:49:42 | Weblog
くもり。冬らしく冷える。

夕べはいつもより飲んだので酒が残る。
とりあえずドトールで読書。

浅田彰「『歴史の終わり』を超えて」を読む。

初版が99年で再版が07年らしい。
解説は福田和也がちょいと「斜に構えて」。

「読むこと」についてそもそも「正解」などないけれど
少なくとも著者が伝えたいポイントがあることは確か。

そのあたりを実に端的につかまえて言い表す能力は
さすがに「構造と力」の著者ならでは。

なるほどきちんと「読むこと」さえできれば
国籍を問わず話を通じさせることはできる。

それはきちんと「観ること」さえできれば
「映画語」を共有できることと同じ。

その種の「当然」はおそらく「常識」にはならないけれど。

明日は例年通りソウルバーで年越し。
他にお客さんが来るかどうかは別なのがやや問題。

もっともほぼひとりでしか店に行かない自分もマズイかも。
いつか楽しいパーティーなどを開きたい気持ちもなくはない。

ただしその時自分がホスト役をやるかどうかはまた別の話。
おそらく「写真」で登場しているはず。
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「仏教的」ということ

2010-12-30 05:39:04 | Weblog
たぶんくもり。冬らしい冷たさ。

苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」を読む。

「葬式」も「位牌」も「戒名」も釈迦の教えとは関係ないというのがポイント。
そもそも釈迦は「輪廻転生」を認めていない。

「来世」という発想は「現世の辛さ」ゆえなのは考えてみれば当然。
「生きること」そのものが「辛い」のが普通だから。

いわゆる「地獄」をリアルに描き
それを避けたかったら「こっちにおいで」というのが「勧誘」の基本。

差別的な制度(たとえばカースト)を支えるものは
いわゆる「仏教」ではないということ。

「自分=自我」などというものは「まぼろし」で
「空」というものはもっと抽象的なものだということ。

その上で「自分の欲望=他人の幸福」という図式に書き換えようというのが著者の主張。
たとえば「飢えている人々」をなくすことを欲する「自分」がそこにあるのだと。

繰り返し言うけれど「芸」のない「批判」は
「あなたよりずっとわたしの方がまし」というだけのこと。

もちろんそれはあっていいとしても
いたずらに相手を貶めるだけの「原理主義」はつまらない。

「自分より劣っている」という判断を下せる相手に食ってかかるのは「美しくない」。
「劣っている」と思うのは「どんぐりの背比べ」だからと思うくらいがいいはず。

「へぇー、そういうのが楽しいんだ」

自分のことをそう思いながら
「素朴な疑問」をぶつけるあたりがおそらくは「いいところ」。

そういう「普通の対話」を大切に。
「議論に勝つこと」は「目的」ではないのだから。
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幻の「サロン」について

2010-12-29 02:53:24 | Weblog
晴れ。ただし激しい夕立ちも。

短い季節労働も終わる。
年明けにはまた少々あるけれど。

小林信彦「面白い小説を見つけるために」読了。

今回読み直して思ったのは
蓮實重彦「凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュカン論」との共通点。

ある対象について描きながら
それがあらためて「面白い物語」になっているところ。

イギリス風とフランス風の対照はあるけれど
いずれも「発想」がよく似ているのが面白い。

ふたりとも映画については「見巧者」でもあるので
なんとか対談してはもらえないものだろうか。

この「ドーバー海峡」は
是非とも越えていただきたいもの。

間違いなく素敵なものが生まれそうだし
そこに和田誠と山田宏一、山根貞男や森卓也、長部日出雄が加わったらほぼ「最強」だと思う。

さらにまだまだ現役な双葉十三郎がときどき口をはさむ設定で。
想像しただけでワクワクするこの企画を誰かが実現してくれることを願う。
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どうにもならないことについて

2010-12-28 02:43:12 | Weblog
晴れ。少しだけの季節労働終了。

本が切れたので
小林信彦「面白い小説を見つけるために」を何度目か忘れたがちょいと再読。

そういう本を読んでいながら
小説から遠ざかって久しいのはこれいかに。

どうせ読むなら「古典」か。
とも思いつつなかなか果たせないでいるまま。

あちこちにアンテナが反応するので
ついつい手を出すのが億劫になってしまう。

明日でようやく仕事納め。

いつのまにか「公称寿命」があと十年となった。
どうなることやら不明だけれど。

戒名も葬式も墓もいらないのが本人の気持ち。
ただしそれを貫けるだけの関係者がいるかというとやや心許ない。

もっともそれまでにそういう関係を築けばどうにかなる。
関係各位には是非お願いしたいところ。

どうやら家族は信用できないので
「近くの他人」にお願いしたい。

自分に関わった人々が「交歓」できるような場所はあってかまわない。
それで新しい「出会い」があれば悪くはないということで。
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好き勝手にすること=伝説 と そうならない日常について

2010-12-27 01:26:24 | Weblog
晴れ。今日も冷える。

元同僚の誘いで飲む。
介護の世界は相当に厳しい模様。

他人の世話をしたがったり何かを教えたがったりする人々は
むしろ「そういうことはやめてください」と頼みたい方が多い。

いわゆる「現場」に必要なのは
「きちんと仕事をすること」だけ。

いずこの「現場」もかろうじて「機能」するのが精一杯のよう。
それもほぼ「破綻」しているのだけれど。

マーク・エリオット「クリント・イーストウッド ハリウッド最後の伝説」読了。

この本を読む前はもっと用意周到にふるまっていると思われたクリント。
相当な失敗があってようやくここまでたどり着いたというのが本当みたい。

アカデミー賞ってやっぱり欲しいものらしい。
そういう「内輪の世界」にいるとそうなるということで。

もちろん誰もが他人に認められたい気持ちがあるのはわかる。
それでも個人的には「認められたい相手」に認められたいだけ。

飲み会の帰りに地下鉄で寝てしまって
降りたこともない駅からタクシーで帰宅する。

明日は朝が早いのでめんどくさい。
やはり「ヤクザ」ですまん。
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ジャズで踊るのは心

2010-12-26 02:38:00 | Weblog
晴れ・今年一番の冷え。

マーク・エリオット「クリント・イーストウッド ハリウッド最後の伝説」を半分読む。

貧しかった家庭、B級映画とバイトでしのぐ日々を経てTV番組「ローハイド」で人気者になり、
セルジオ・レオーネ、ドン・シーゲルとの映画と、監督への志向などがあって。

「既婚者の独身」を貫く妻マギーとの奇妙な結婚生活と
恋人サンドラ・ロックに影響されるところまで。

いよいよ味が出てくる後半が楽しみ。
明日中に読了する予定。

深夜NHKで名古屋とジャズの関わりを扱った番組を観る。

渡辺貞夫、日野晧正、山下洋輔、渡辺香津美、ケイコ・リー、森山威男、佐藤公彦らの
ライブやセッションを楽しむ。

「ドクター内田」は81歳でまだ健在。
岡崎在住のジャズ狂は日本のジャズメンをあれこれサポートしたことで有名。

話は変わるが「ジャズ大名」という作品も書き自らクラリネットも吹く筒井康隆が
先日菊池寛賞をもらったのもそういえばめでたい。

番組はセロニアス・モンクの「ラウンド・ミッドナイト」を日野晧正が演奏して終了。
エラ・フィッツジェラルドの歌を貼っておく。

こういう「真夜中」を過ごせたら素敵。
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「ウソ」について

2010-12-25 01:52:36 | Weblog
晴れ。夜に冷える。

仕事で8時間ほど室内に居続ける。
さすがに早く表に出たくてすぐに帰宅する。

小笠原喜康「議論のウソ」を読む。

「統計のウソ」「権威のウソ」「時間が作るウソ」「ムード先行のウソ」。
そして「わかりやすい結論」に飛びつくなと。

ウソの三つ目は時間の経過によって「正しさ」が変わるということ。
「過去の正しさ」がいつまでも正しいわけではないということ。

おそらくは「正しさ」にこだわりすぎるのが間違いの元で
「だいたいこれくらいでいいんじゃない」というのがきっとマシなはず。

月曜までややハードスケジュールなのがめんどくさい。
といっても「カタギ」な方々からすればごく「普通」なのかもしれないが。

ついて楽しくなるウソもあれば
仕方なくつかなければならないウソもある。

シチュエーションによっても文脈によってもあれこれあるだろう。
いたずらな「本音」がつまらないこともあるし。

ところで「ウソをついてくれ」と言われたら
あなたはどんなウソがつけるだろう。

あなたの記憶は実は植え付けられたもので
あなたは実は「地球人」でさえない。

なぜ地球に来たのかも忘れたままで
故郷のことも忘れて。

なぜかこの星で暮らしにくいのを
不思議に思っているのがその証拠。

ロケットで打ち上げてあげるからその日を待っていて。
物をよく落とすことがあれば「重力のない世界」を無意識に再現していると思っていただきたい。
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どこまでも「普請中」であるということ

2010-12-24 02:20:43 | Weblog
晴れ。風やや強し。

宮台真司・辻泉・岡井崇之「『男らしさ』の快楽 ポピュラー文化からみたその実態」を読む。

これまたアマチュアバンドの「ライブ」のような本。
特に目新しいことはないけれどそれぞれに「論文らしく」探ってみたという感じ。

「男らしさ」であろうと「女らしさ」であろうと
それぞれに悪くない面を見てみることも出来なくはない。

「問題」を指摘することはかまわないけれど
「正義の旗」を振りながら突っ走るだけだとついつい追いかけるのにも疲れたりする。

誰も自分が生まれ育った「環境」や「歴史」を否定することはできないとして
それぞれの「文脈」を明らかにした上で意見を述べるのがいいだろう。

その「文脈」が見えないせいで
無駄な「反発」や「挑発」、「諍い」が絶えないのは残念なこと。

とはいえお互いになかなか実現するのは難しかったりもするので
出来ればそういうことでというあたりで収められるといいのだけれど。

そのために人はもっと知り合うことが必要で
いたずらに「自分」を主張したところで空しい。

そういうお付き合いが出来るように
「言葉」をきちんと交わせるような存在でいたいもの。
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「おまかせする」ということ

2010-12-23 03:55:14 | Weblog
晴れ。深夜に風の音。

「ヒトラー独裁下のジャーナリストたち」読了。

自分で自分のことを優れていると言いたがる理由は明らかで「優れてないから」。
「枢軸国」はおそらくそこで同じ問題を抱えているのだろう。

良いところも悪いところもあるのが「普通」。
その「当然」をそのまま受け入れられればいいだけのこと。

個人についても同じことで
やたら「神」とか言いたがるのは「全能感」を投射しているだけの「子ども」。

マル激で「断捨離」を取り上げた回を観る。

振り返ればずっとそういう暮らし。
どこかにあるものは「貸借」できれば「所有」する必要もなく。

どのように評価されようと
ある種の「美学」はあっていいもの。

それを他人に要求することはなくていい。
要は「わたしはわたし」。

もっともあなたはある対象をどう判断するのかと聞かれれば答えはする。
それがもし辛辣に聞こえたとしたら「的を射ている」ということでよろしく。
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枢軸国のマザコン度あるいはジャーナリズムについて

2010-12-22 02:53:25 | Weblog
晴れのちくもり。夜になって降る。

シオランはそのままにして
ノルベルト・フライ、ヨハネス・シュミッツ「ヒトラー独裁下のジャーナリストたち」を途中まで読む。

ジャーナリストたちの固有名詞の羅列にやや退屈を覚えるのは
ドイツの歴史に対するこちらの知識があまりにも乏しいせいだとしよう。

今のところの感想としては
ナチスがジャーナリズムを「飼い馴らすメカニズム」をもう少し明確にしてもらいたいといった感じ。

「第11章 第三帝国のジャーナリスト ―八人の群像― 」までは読み進めていないので
おそらくはそのあたりで詳細がわかりそうな予想はしているのだけれど。

国外でジャーナリズムのダメさに憤慨するトーマス・マンと
国内で「検閲」を回避するために「行間」を読ませようとするジャーナリストたちとがいた模様。

「週刊ポスト」で上杉隆が読売新聞のドン「ナベツネ」こと渡辺恒雄を批判している。

ジャーナリストはそもそも政治とは一定の距離を保つものであって
彼のように自分がプレイヤーになるのは「世界の非常識」だと。

「クロスオーナーシップ=特定資本がテレビ・新聞などを同時に保有すること」は危険だという問題も
同じく読売新聞の正力松太郎のせいでわが国では「当然」のことにようになっている。

イタリアでは同じように「メディア王」ベルルスコーニが首相をやっていて
こんなところで「日独伊三国同盟」の再来か。

いずれも第二次大戦の「枢軸国」で
「遅れてきた国」は同じような問題を抱えるものかとあらためて思う。

ただしそうした「遅れ」を感じさせた「連合国」が
文句なしに「いいもの」でないことも明らかで。

男が女を「良妻賢母」にしたがる傾向は
どうやら共通しているように思えるが如何。
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