退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「失われた『共通の土台』とそれゆえの『遊び』のなさ」について

2018-08-09 02:02:34 | Weblog
晴れ。暑さはそこそこ。

「早出」なことを忘れてちょいと寝過ごす。

もっとも「読書」込みでの時間設定なので
ドトールの滞在時間が短くなるだけで済む。

南和男「江戸のことわざ遊び 幕末のベストセラーで笑う」を読む。

例えば「口車に乗る」といった慣用表現を「ベタに」して文章と絵で楽しむ趣向。
案外下ネタが少ないのにふむふむ。

性に関してはせいぜい「茶臼」のみ。
むしろ至る所に屁が顔を出す印象。

「ベストセラー」だけあってセンスの「洗練」はなく。
あくまで「わかりやすい笑い」を目指したもの。

題材によっては身につまされるものも少なくないのがいいところか。
原題は「諺臍の宿替=ことわざへそのやどかえ」。

もっとも「共通の土台」があるのが今となっては「うらやましい」。

ふと思ったのだけれど。

学校の卒業式で「蛍の光」を歌わなくなって久しい。
年代を超えて「同じ歌を歌う」からこそ「共通の思い出」が出来るはず。

藤枝静男の「明けてぞ今朝は」を「明けて『ぞけさ』は」という解釈は特殊だとして
少なくとも同じ歌を知っていれば「なるほど」と思えるところもあり。

「ふるさと」では「うさぎ追いし」が「うさぎ美味し」にもなり
「赤とんぼ」では「負われて見たのは」が「追われて見たのは」にも。

個人的には。

荒井由実の「中央フリーウェイ」を「ジューオーフィレー」などとフランス風味に。
タイトルを知らないまま聴くとそういうことにもなるわけで。

当時のカセットテープにはそう書いたはず。
確かFMラジオを録音したもので。

「空耳アワー」とは違った楽しみ方ができるのに。
残念と言うよりない事実よ。

この種の「遊び」が失われたのは「文化の喪失」ではないのか。
あらゆる分野で「貧しさ」が幅を利かせているのがなんともはや。
コメント
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