退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「よろしくないこと」について

2011-10-31 01:16:36 | Weblog
雨。一日中降る。

土曜は三連休の初日で仕事場の飲み会。
久方ぶりにカラオケにも行くもののついつい歌わずに終わる。

その後かつての同僚とマンツーマンで飲む。
気付いたら朝だった感じで帰宅は6時過ぎだったか。

図書館へ行くはずだったけれどめんどくさくなってグダグダ。
珍しく「ひきこもり」な休日になる。

TVで「アウトブレイク」「ダイハード4」などを観る。

前者にケヴィン・スペイシーが出ていることを忘れていた。
後者は「サイバーテロ」の描かれ方だけに注目する。

マル激のNコメを観る。
週末の「恒例」になっている感じ。

政治家にそれなりの「見識」がないために
官僚の「お手盛り人事」による会合でエネルギー政策が決められる「現実」。

そしてそのことについてほとんどの国民が何も知らないまま
「物事」が動いていくということ。

大手メディアはほとんどそれについて触れないし
記者が不勉強でその「重要性」に気付いてないというお粗末。

資本制は「差異」を求めて「利益」を上げることで成立するものなので
やがてどこにも「差異」がなくなる「飽和状態」が来て「金融バブル」が起きるのだという「基本」も忘れずに。

「理念」がなくあくまで「貨幣の量」を競う「世界」しかなければ「自明」。
世界中の誰もがそこそこに暮らせればいいのに。

お前の思い通りになる「世界」など何ほどのものか。

圧倒的な「視野狭窄ぶり」を「莫迦」と呼ぶことにしたいもの。
その種の「感覚」だけは常に研ぎ澄ませておくべし。

おそらくは「幸せ」や「ありがたみ」を知らないまま育った輩が増えた「不幸」が
いたずらに「数字による証明」を呼び寄せるのだとしておく。
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「すれすれを生み出す環境」について

2011-10-29 02:55:19 | Weblog
晴れ。秋日和。

春日武彦「問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ」を読む。

「うつ」を「心の風邪」だとするなら「躁」は「心の脱臼」だという。
「神経症」を治そうとした岸田秀と同様の「匂い」を感じさせる著者の作品。

「普通の人々」からすればほぼ「意味不明」な事件も
「躁」という切り口から見れば納得できるところもあるのだと。

ただし「躁」の病例は「うつ」ほど多くないので
あまり採り上げられることがないのがポイントのよう。

「誇大妄想」がとめどもなく広がっていく様子に
むしろ痛々しさを感じる「文学体質」がなかなか。

「濃淡」を失った世界はむしろ
シンプルすぎるがゆえにその背後の「絶望」を思わせるということ。

「代表例」として出てくるのは有吉佐和子や中島らもや幸田文ら。
そういえば先日北杜夫もこの世からいなくなった。

自分の半分くらいの年齢の女性をストーカーした挙句
残した日記が波紋を呼んだりした「暴走老人」も登場する。

大雑把にまとめてしまうと
現代はサブタイトルにあるように「正常と異常のあいだ」が微妙なことになっているらしい。

ちょいと引用されていた吉行淳之介に引っかければ
まさに「日々すれすれ」。

経済的には「豊か」でも人々が感じる「幸福度」の薄いわが国の状況をあらためて思い出す。

地下鉄の広告で「胃痛を感じるくらいがんばる自分が好きだったりする」という内容の
一種異様なコピーも見かけたことだし。

わが国ではなぜ「安楽」に暮らせないのか。
そのことを真剣に考えた方がいい。
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「神話」あるいは「亡霊」について

2011-10-28 02:45:05 | Weblog
晴れ。おだやか。

福嶋亮大「神話が考える」を読む。

人々の間の「共通前提」がもはや失われた現在
社会システムを円滑に動かすためには「擬似宗教」が必要だというのには同意する。

古典的な象徴理論を踏まえた上で
「もっと多くの神話を」ということについても同様。

「グローバル資本主義」の下で「小さきもの」による「アレゴリー」を用いて
神話を再建しようとしているのが村上春樹だという見立ては面白い。

ライトノベルやケータイ小説が「市場」を席巻する現在を
たとえば「質」という「垂直な軸」で否定しても「現実はそう動いていく」ことはわかる。

「悪貨は良貨を駆逐する」という
まさに古典的な言葉で了解すればいいだろう。

さて。

ある種の「基準」によって「垂直な軸」をあくまで優先する者と
その「基準」を維持することによって「現実」と対応できなくなることをむしろ危惧する者と。

ここにはその「現実」を生きていかなければならない「若さ」と
かつてあった「基準」を生きる「老い」がある。

ただしそのいたずらな「二項対立」を先鋭化させないためにも
著者は「神話の豊富さ」を説くのだと思われるのだが如何。

「どこでもない場所=nowhere」が「今ここ=now here」であることが浮かび上がる仕組み。

敢えてここで梶井基次郎などを持ち出せば
「檸檬」は「丸善の棚」だけでなくあらゆる場所に置かれなければならなかったりするということ。

君は君の歌を歌え。
ぼくはぼくの歌を歌うのみ。

まるでそれは中野重治の「宣言」に似つつ
マルクスの「共産主義の亡霊」に限定せず「亡霊」は世界を跋扈するのが好ましいのだとしておく。

その具体的な姿は「ゴーストバスターズ」の「マシュマロマン」であってもいいのだ。
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「異形」について

2011-10-26 02:11:54 | Weblog
くもり。夜になって風が出て冷える。

杉浦由美子「101人の腐女子とイケメン王子 腐女子<恋愛観>研究」を読む。

ギャルが自己肯定的で腐女子は自己反省的だという区別になるほど。
同様に前者がリアル好みで後者が非リアル好みだというのも興味深い。

敢えて異なる区別をするなら
前者はひとりでは生きられず後者はひとりでも生きられるというのはいかが。

仕事で疲れているので「現実逃避」してリラックスするというのには納得。
腐女子にとって「擬似恋愛としての妄想」は「お手軽」な手段らしい。

そのためにはたとえば「主人公に共感する物語」よりむしろ
「ネタ」として「外見のみで楽しめる」作りのものが好ましい模様。

このあたりはAVを楽しむ男に似ているような印象。
ある種の「オナニー」だと解釈しておく。

もちろん「腐女子」も「一枚岩」ではなく
それぞれに違った好みを持つのは当然だとして。

個人的にはギャルより腐女子の方が「相性」がよさそう。
ジャンルの違いはあれども「凝る対象」と「凝り方」が似ている気がするので。

ただし好みの話になると「マシンガントーク」になるクセはちょいと厄介かも。
そのあたりにはもう少し「自制」を望みたいところ。

「リアルなセックス」に注がれないエネルギーが
おしゃべりの方に向かうのかもしれないけれど。

「好き嫌い」を声高に叫ぶより
いろんなタイプを集めてお話したら楽しそう。

そういう「サロン」を誰か作ってくれないかと
ついついめんどくさがりな自分が顔を出したり。

実は「イケメン」」も「不細工」も「異形の者」であり
人はそうしたものに魅力を感じやすいという「風呂敷」で包んでおこう。
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「寛容であることの重要性」ついて

2011-10-25 02:53:18 | Weblog
晴れ。空にうろこ雲。

上野修「スピノザの世界 神あるいは自然」を読む。

「エチカ」で有名な哲学者の考えをやさしく解説してくれている内容。
「からくり遣い」とでも言うべき論理の網は「古典的なコンピュータ」を思わせて魅力的。

「自分を肯定すること」の大切さを説くあたりは現代にはうってつけ。
苦行の無意味さに気付いた釈迦の悟りのような清々しさも感じられる。

「自然という複雑なシステム」を「神」だと言うのには納得。
「自由意志の否定」についても同様。

「自分」といういかにも小さな「枠組み」の中でいたずらに好き嫌いにこだわり
ありもしない「本当の自分=幻影」を求めることの愚かさには敏感でありたいもの。

あらゆるものに対して「ゆるす」気持ちがあれば幸せになれるとも。
「束の間の快楽」よりさらに強烈な「快楽」を真摯に求めるといいらしい。

なかなかそうは出来ませんという向きには「出来ない自分」を認めればいいじゃないかと。

そもそも誰もが「唯一の存在」であることは確かで
それぞれが「自分」を「発揮」できれば色とりどりの世界が生まれるだけのこと。

案外単純なことに気付けないのはよくあることで
とりあえずもっと周囲をきちんと見てみるのも悪くないだろう。

たとえば「お互い様」という言葉には
「わたし」がいとも簡単に「われわれ」になれるきっかけがある。

そうした「感覚」を忘れずに
さらには相手が思わず笑ってしまうようなコミュニケーションを交わせるならば。

人はもっと「安穏」に暮らせるはず。
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「大きなイコール」が欠けていることについて

2011-10-24 02:16:57 | Weblog
くもりのち晴れ。天気雨も。

ここ数日身内の結婚式がらみでドタバタ。
親戚から「今度はお前の番だ」と言われる。

いつも通り「ご縁があれば」と答えておく。
今後も「風まかせ」ですますつもり。

明日からようやく「通常モード」に。
地味に暮らして行ければそれでいいの。

マル激のNコメを観る。

世界では「格差」に関するデモが起きているのに
わが国ではなぜ起きないのかと。

いわゆる「社会」への関心を持てないほど
各個人がそれぞれ「大変」だという見立て。

「わたし」が「われわれ」になりにくいのだと言う。
今回の未曾有の原発事故を経験してもそうなのか。

「他人」に優しくあるためには
「自分」に余裕がなければならない。

その「余裕」も持てない「暮らし」の正体は何なのだろう。
おそらくは「金銭の問題」ではないと思われるのだけれど。

「十分な承認=安心感」を持たない子どもたちは
いたずらに「言葉の裏側」を探る「作法」を身に付けて。

とりあえず確保する「仲間」は「自分と同じ境遇」だったり。
それぞれの「島宇宙」の数だけが増える結果になり。

「現実の辛さ」が「世界の単純化」を呼び
ほぼ無益な「祭り」を可能なものにしているのだとしたら。

他人の「揚げ足を取る」という形で「自分」を確認する「貧しさ」は避けたいもの。
とはいえその「貧困」はあちらこちらに見えている。

「同じ時代を生きられること」の「奇跡」に
人はもっと敏感にならなければならないだろう。
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「深くて暗い河」について

2011-10-20 02:01:06 | Weblog
くもりときどき晴れ。今日もおだやか。

原山擁平「セクハラの誕生 日本上陸から現在まで」を読む。

時代を押さえつつ「本家」アメリカと日本での受容のされ方の違いにも触れ
「歴史」を丹念に追う記述ぶりがなかなか。

西舟橋事件」については全く記憶がなく
本書で詳細に描かれる晴野まゆみの裁判についても同様。

後者に関する章はセクハラ被害者の「リアル」を詳細に描いていて
思わず降りるはずの駅を乗り過ごしてしまったほど。

「運動」がいつのまにか「当人」を置き去りにするあたり
「代弁者の傲慢」についてあらためて考えさせられる。

「違法行為」と認められなくても
それ以上に「ひどい行為」というものがあるのだという「現実」も。

「セクハラ」という言葉が輸入されるまで
その言葉に当てはまる行為について女性は「おかしい」と思いながらうまく言えなかった模様。

「性的対象」でなければ「女性」をそもそも認めない男性と
興味のない男性から「性的対象」として見られることを拒絶する女性との「溝の深さ」よ。

あれこれの意見の引用の中では作家松浦理英子の「冷静さ」が光る。
「露出の多い服装=被害にあっても仕方がない」という「理屈」の粗雑さに対する指摘。

ただし男女を問わずそれぞれの「主観」のみを優先させると
「常識」としての「ルール」を作るよりない微妙さもあり。

人が「性交としての性」にこだわる時は実は「人恋しさ」が大きい気がするのだが如何。
その背後には「理解されないわたし」がいるように思われるのだけれど。

そうでなければ性交そのものはある種の「スポーツ」と捉えてもいいし。

さらに言えばそこにはたとえば「裸の付き合い」という文字に代表されるような
「肉体的距離の近さ=精神的距離の近さ」といった誤解があるのではないか。

とりあえず自分の一方的な「ルール」だけで他人に対処しないこと。
そのあたりが「倫理」だったりするかもしれないがいざ「実行」となると心もとないと言わざるを得ない。
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「趣味」と「鎖国」について

2011-10-19 02:44:09 | Weblog
晴れ。おだやか。

「小津ごのみ」読了。

趣味に生きる者の洗練の豊かさ。
基本は淡白でありつつこだわり具合は濃厚というバランス。

「論理」という「不自然」に頼らず
「感覚」という「自然」に身をまかせるのも楽しからずや。

おそらくはどちらの「味わい」も知っている方が好ましく
いたずらな「二者択一」に陥ることは避けたいもの。

繰り返すが「世界は広い」ので
自分のアンテナはできるだけ広げておくのがいいと思われる。

さて。

日銀の元副総裁が座長をつとめる会合が
相変わらずインフレターゲットの「無意味」を説いている。

PDFで数式なども見たのだけれど
その式がそもそもなぜ採用されるのかという肝心のところがよくわからない。

どうやらいろいろな「前提」があるようなことだけは感じられる。
岩田規久男に説明してもらいたいところ。

ひとつだけハッキリしているのは
経済そのものが「全世界的なもの」であるにもかかわらず「世界の事例」を参照していないこと。

「鎖国」がわが国の文化を豊かにする事実は歴史を振り返ればわかる。
ただしこの「鎖国ぶり」はむしろ貧しさを招くのではないか。

「経済学」という学問の重要性を確かめるためにも
それぞれの立場をきちんと戦わせた上での「結論」を望みたい。

要はわが国では「まともな議論ができない」という事実だけが浮かび上がる。
そういう「島国根性」は避けるのが賢明であり自明ではないのだろうか。
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「好み」について

2011-10-18 03:08:17 | Weblog
くもりときどき晴れ。やや風あり。

「清沢洌評論集」を読み始めたのだけれど
大杉栄と甘粕の「対話」以外は刺激に欠けて最後まで読む気力を失う。

その代わりと言ってはなんだが
中野翠「小津ごのみ」を買って途中まで読む。

不勉強で戦前の作品は観ていない。
TSUTAYAが用意してくれるとありがたいと再三思いつつ現在に至る。

ずいぶん前に母親がその手の会社でバイトしていた時には
ヴィデオだった現物を見かけ「そのうち借りよう」と思っていたものの。

イギリス人が「モンドリアンの絵のようだ」と評したのも初めて知った次第。
そこからフランスでの評価が高まったことも同様。

徹底して自分の趣味にこだわった監督だということを再認識する。
新たな「不自然さ」を教えてくれた「視点」には感謝。

まだ半分くらい読み残しているので
じっくり楽しみたいところ。

成瀬作品であれほど魅力的だった田中絹代が
戦前の「スタイリッシュ」な小津作品には不似合いだということも確認しなければと思わせる内容。

ただしその女優を戦後の「風の中の牝鶏」で再び起用していることを考えると
監督は「リアルな女性」を彼女に見ていたとも思われるのだが如何。

アメリカから帰ったときに飛行機のタラップから投げキスをして
「アメション=アメリカでションベンした程度でアメリカかぶれした」という非難を受けた女優でもあり。

九鬼周造の「いきの構造」が小津の趣味を言い当てているという指摘も面白い。
「意気地と諦めの媚態」という微妙な味わいを知ろう。

高橋とよの「重要さ」については大いに共感する。
東山千栄子の「ノーブルさ」についても。

細かいことを言い始めたらキリがないのでこの辺で。
あらためて小津作品を観直したいと思わせる十分に豊かな内容がここにはある。
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「妥協」について

2011-10-17 02:19:38 | Weblog
晴れ。夏日。

腐女子についての本を途中まで読んだのだけれど
めんどくさくなって途中でやめる。

自分の好きな話題になるとあられもなくはしゃぐ言動のスタイルは
彼女たちに特有のものでもなく程度の差こそあれ誰にでもあること。

要は「趣味の問題」にすぎない。

たとえば「天下国家」や「世界経済」について「語る」人同様
誰もが自分の「好きなもの」については「熱く」なる「事実」がある。

ただその趣味の「提示の仕方」において
それぞれに「暗黙のルール」や「微妙なこだわり」があったりする。

そのあたりをお互いにどこまで受け入れるのかということになると
人はついつい他人を貶めたがる性質があり。

他人をめんどくさがる前に
むしろ自分が相当めんどくさかったりして。

「自分を知ること」も「相手を知ること」もむずかしい。

ならば基本は「謙虚」であるべきだろうが
そこはそれ「出来ない相談」というものもある。

さんざん途方に暮れたあとで「ま、しょうがないか」。

出来の悪い自分とも他人とも付き合っていかねばならないのだとしたら
とりあえず「お気楽」に。

よくも悪くも「マイペース」でしか生きられない。
それを人が認めてくれたら幸せだというあたりに落ち着かせておくのがいいか。
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