退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「再びのハズレと『映画の季節再来』」について

2016-07-29 03:09:45 | Weblog
くもりのち晴れ。今日もやや蒸す。

外国語マスター関係の本を読んだのだがこれまたハズレ。

大して外国語を知らないこちらが知っている内容のみ。
もう少しきちんと本選びをしないとダメなよう。

増村保造「新・兵隊やくざ 火線」(’72)を観る。

勝プロ製作でカラーになり4年後の作品。
安田道代、大瀬康一、宍戸錠、大滝秀治ら。

時代はまた戦中に戻り八路軍がメインとなった内容。
安田道代は今回も「サービスショット」が満開。

大楠道代と改名後は鈴木清順「ツィゴイネルワイゼン」(’80)「陽炎座」(’81)に出演。
同じ増村作品なら「セックスチェック 第二の性」(’68)も。

ちなみに大瀬康一はテレビドラマ「月光仮面」の主役をやっていた人。
宍戸錠はさすがに勝新との殴り合いのシーンに迫力あり。

夕陽で染まる室内の色彩はまさに「真紅」。
音楽の村井邦夫はプロコル・ハルム「青い影」を意識したのか。

これで「兵隊やくざシリーズ」も完結。
やはり第一作が一番面白いはず。

次は久方ぶりにアンジェイ・ワイダでも観直すことにするか。
引き続き「人間の条件シリーズ」というのはいかにも疲れそうなので。

今後この生活パターンが続くのだとすると何だかかなり忙しくなる予感。
「映画の季節再び」という格好。

若い頃とはまた違う見方ができるはず。
むしろ以前には見えなかった部分をあれこれ楽しみたいもの。

自分の目の「届く範囲の確認」を。
こればっかりは常にチェックしておかないとあぶないので。
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「ハズレとシリーズ後半のいささかの盛り上がり」について

2016-07-28 04:25:58 | Weblog
くもり。やや蒸す。

「パンゲア」に関する本を読んだもののハズレ。

データの羅列がむしろ煩わしく
「なぜそうなるのか」をもっと簡潔に知りたかったのに。

田中徳三「兵隊やくざ 殴り込み」(’67)を観る。

脚本に笠原良三の名前あり。
話もまとまっていてスッキリ。

キャストは野川由美子、岩崎加根子、細川俊之、安部徹、南道郎、小松方正とやや豪華。
おそらくシリーズ人気の下火を受けたものだと思われる。

引き続き田中徳三「兵隊やくざ 強奪」(’68)を観る。

佐藤友美がこんなところに(おまけに「大魔神」も)。
夏八木勲、江守徹にお馴染みの須賀不二男、伊達三郎、千波丈太郎ら。

いつも「アツアツ」の主人公ふたりに赤ん坊まで出来る内容。
ここまで来るとこれは「本物の夫婦」。

前作で「敗戦」を迎え本作では「引き揚げ」のドサクサ。
フィクションではあるけれどおそらくここには「歴史の真実の欠片」があるはず。

残るはシリーズ最後の作品。
内容の如何を問わず明日が楽しみ。

さて。

今週初めに季節外れの風邪をひく。
原因は扇風機のタイマーのかけ忘れか。

そのせいかどうかは不明だけれど「兵隊やくざ 強奪」のラスト近くで寝てしまい。
「イメージと現実の落差」がここに。

どうやら以前より「寒さ」に敏感になってしまった模様。
身体の反応と相談しながら暮らすつもりだがどうなることやら。
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「カワイイとマンネリあるいは脳内ひきこもりの怖さ」について

2016-07-27 03:29:51 | Weblog
雨。深夜になって止む。

「内藤ルネ ARTBOX」を見て読む。

中原淳一に呼ばれ雑誌「ひまわり」「それいゆ」「ジュニアそれいゆ」などで
口絵・イラスト・付録を手がけた著者初の作品集。

ルネパンダ」や「ビリケン」、「フルーツやベジタブル」のグッズも。
「元祖カワイイ」の魅力を知っておこう。

おそらくある年代の女子たちには懐かしく
また若い女子たちも可愛いと思うこと間違いなし。

田中徳三「兵隊やくざ 俺にまかせろ」(’67)を観る。

内田良平、渡辺文雄、そして須賀不二男が再び。
女優陣は渚まゆみと長谷川待子。

今回は出世のためなら何でも犠牲にする参謀と犠牲になる中隊のお話。
トーチカに籠ってゲリラに襲われる戦闘シーンに迫力はあるものの。

それ以外はどうにも「ゆるい」感じが濃厚。
何となくシリーズの「ルーティーン」をこなしている趣き。

残りはあと3作。
ラストが一作目と同じ増村保造なのでそこに期待か。

さて。

相模原で障害者施設を襲った元職員が19人を殺害し26人にケガを負わせた事件についてちょいと。
セカイ系な人物の「圧倒的な視野狭窄」がもたらした惨劇よ。

「自分のどうにもならなさ=不幸」を「重複障害者」に見出した彼は
それを消すことで「エラくなれる気がした」のだという解釈など。

「政府関係者あるいは首相」に何事かを頼むという姿勢は
「何もない自分」から一気に「上昇」できるという短絡。

この種の人間を生み出してしまう「土壌」は実は各地にあるはず。
どこかで彼らあるいは彼女らに触れてギリギリのラインを維持させる存在が必要。

特徴は「自らの不甲斐なさ=他者のせい」という公式であり
傍から見ればアホかという考えが絶対に揺るがないその姿勢。

個人的にはそれを「脳内ひきこもり」と呼んでいるのだけれど。
その環境に変化がない限り彼ら彼女らは「何でもする」ことを覚えておこう。

「ヘイト・スピーチ」あるいは「IS」など。
すでにそうした現象は世界各地で起こっていることでもある。

全体として犯罪は減っているものの
「特異点」のみが目立つのでいたずらに「体感不安」だけが高まることにも注意しておきたいもの。

同時に彼を生み出したのはわれわれの社会だということを忘れずに。
自らの「承認欲求」が他者によって「切磋琢磨」されない結果ではある。
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「生活の中の文化あるいは個人的な『映画祭』」について

2016-07-26 04:21:24 | Weblog
晴れ。暑さはそれほどでもなく。

「花森安治戯文集3」を読む。

シリーズの中では一番漢籍の影響が見られる内容。
ただし今どきこの「遊び」が理解されるかというと微妙。

「あとがき」にあるように「洗濯」を除けばもっともな言いよう。
「生活あってこその文化」だという指摘にあらためてうなずく。

田中徳三「新・兵隊やくざ」(’66)を観る。

今回は脇に藤岡琢也、玉川良一、遠藤辰雄、神田隆そして成田三樹夫。
女優陣では嵯峨三智子の桃子がいて勝新といちおう結婚したりする。

「P屋」というのは「prostitute=娼婦の頭文字P」でいわゆる「慰安所」のこと。
主役のふたりがそれを経営することになるのがポイント。

森一生「兵隊やくざ 脱獄」(’66)を引き続き観る。

田中邦衛、草薙幸二郎ら。
前者は内地に帰ることをひたすら願う「泥棒」でいささか哀しい。

後者は娼婦珠子の小川真由美を連れて内地に帰るためなら何でもする「悪党」。
田村高廣の同級生として中谷一郎(「風車の弥七」)がちょいと登場。

刑務所のシーンの「暗さ」が印象に残る。
五味龍太郎は毎回同じような役で続けて見るとややこしい。

田中徳三「兵隊やくざ 大脱走」(’66)をさらに観る。

慰問団の生き残りに南都雄二(ミヤコ蝶々の元夫)の父と安田(大楠)道代の娘。
娘に「男装」させていたのは兵隊によるレイプを防ぐため。

芦屋雁之助・小雁兄弟や内田朝雄、藤山浩二らが再び。
もっとも前者に笑いはなく後者も見せ場はさほどない。

ソ連軍の攻撃に遭いながらひたすら歩く集団の姿を忘れずに。
実際には当時軍人たちが民間人を置き去りにした事実とセットで。

元憲兵青柳の成田三樹夫にちょっと「スポットライト」が当たる。
ここでも結局は田村高廣の元に戻る勝新。

主人公ふたりの「男同士の愛情」に女の入る隙間は無さそう。
典型的な「ホモジーニアス=同種・同質」がたっぷり。

ちなみにジョン・スタージェス「大脱走」(’63)は第二次大戦のドイツ軍捕虜収容所のお話。
スティーヴ・マックイーンほかの「オールスター作品」でこちらも知っておきたいもの。
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「あれこれとバタバタすること」について

2016-07-25 01:57:17 | Weblog
晴れ。町に人が多い。

昨夜はいつもの老舗バー。

せっかく注いでくれるのであと一杯と思ったのが運の尽き。
気がつけば終電は自宅から遠い終点に。

仕方なくタクシーを拾い「3000円で行けるところまで」と告げたところ。
運転手さんが親切で途中でメーターを倒してくれる。

その後少しだけ歩いて帰宅。
全くザマあない。

松岡正剛「白川静 漢字の世界観」を読む。

あらためて白川静という学者の凄味を感じる。
やはり「本物」は問答無用に素晴らしい。

大塚英志「二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史」を読む。

徳間書店や「アサヒ芸能」の在り様が興味深い。
ある種の「梁山泊」の一角を垣間見た思いがする。

老舗バーのマスターから借りたブルーレイを観る。

増村保造「兵隊やくざ」(’65)を再見。

ヤクザの勝新太郎とインテリの田村高廣のコンビはやっぱり好ましい。
淡路恵子は「ヘソ酒」もするサービスぶり。

成田三樹夫、山茶花究、内田朝雄が脇を固めて。
勝新の浪花節も耳に心地よく。

必要なものをすべて用意して「あたしの分まで生きてください」という淡路恵子にホロリ。
殴られる描写はすべていかにも痛そう。

ラストシーンの清々しさよ(勝新の股の下に田村高廣の顔があったり)。
この痛快さは知っておきたいもの。

引き続き田中徳三「続・兵隊ヤクザ」(’65)を観る。

冒頭のミニチュアにいささかガッカリ。
今回の女優陣は小山明子と水谷良重。

アンダーヘアを「お守り」にする設定は前作もあったが勝新が頼むのは初めて。
「このままではすまんぞ」という田村高廣の台詞がやや目立ちすぎるような。

八木曹長上野山功一と岩波曹長睦五郎の女の奪い合い。
戸浦六宏を薄めたような前者のひ弱さに後者の「野戦でよくある暴力」との対比。

ちょいと「フランケン」な感じもする五味龍太郎に「女好き」な須賀不二男。
芦屋雁之助・小雁兄弟はもちろん「コメディ・リリーフ」。

前者の「えらい初年兵や」という捨て台詞にはさすがの味わい。
ただしカット終わりの微妙な間がいささか早いか。

「インテリ」な小山明子といささか「ゆるい」水谷良重の対照も。
主人公ふたりは互いに「離れたくない」と繰り返す「アツアツぶり」で。

このシリーズは全9作らしいのでこの際全部観ることにする。
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「ある種の頑固さと港町あるいは個人的な因果」について

2016-07-23 03:25:50 | Weblog
『晴れ。連日の暑さ。

「花森安治戯文集2」を読む。

著者の「制服(スーツ&ネクタイ)と流行に阿ることへの嫌悪」が満載な内容。
自分の好きにするという「当然」がなぜできないのか。

「毎日の生活」より「よそゆき」を重視する態度についても同様。
「他人に見せるための服装」などお止しなさいと。

「流行」を仕掛けるのは服飾業界であるという指摘もあらためて。
要は決まったものを作って売るためというシンプル。

戦後のある時期「タレント」として活躍していた事実は初めて知る。
「『スカート』と毒舌」で有名だった模様。

この頑固さは好ましい。
ただし「現代の目」からするとその主張はあまりに直線的にすぎるような。

そこにもう少し「遊び」があればと思うことしきり。
とはいえ著者を頑なにさせたものについては忘れずにいたいところ。

NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」では唐沢寿明が演じている。
彼の持つ「エキセントリックさ」が役柄に合っている印象。』と書いて昨日も寝る。

くもり。風がやや冷たい不思議。

岡本哲志「港町のかたち その形成と変容」を読む。

いささか流して読んだせいも手伝ってか曖昧な印象のまま終わる。
昔は神社や寺が「水際」にあったというのにはふむふむ。

「板子一枚下は地獄」の言葉通り
漁師たちにとって海は「豊かな畑」であると同時に「脅威」でもある。

当時も今も彼らにとって「大漁」や「無事」は祈るものでしかなく。
かつての海沿いにそうした場所があるのは道理。

「干満の差」に「雁木作り」で対応した知恵はすばらしい。
ただし著者の興味がそれ以上にこちらには伝わって来ずじまい。

もう少しじっくり付き合うべきだったか。
これまた「残念な出会い」ということで。

もっとも「港」を中心とする視点で町を見直すのはいいこと。
現在の「町づくり」にもおそらくは参考になる点があるはずだから。

地元の港は無味乾燥な「商港」というイメージが強いものの
歴史を遡れば違う姿も見えてくるのだろう。

実家を出てすぐの通りも大昔は「地方銀座」だった模様。
商店が立ち並びにぎわっていたらしいが今やその面影も虚しく。

歩いても行けなくはない劇場には子どもの頃に映画を観に行った記憶がある。
やがて知らぬ間になくなってしまった。

ややこしいのはその劇場に絡む人間関係と無縁でないこと。
そしてその「影響」が少なくもないこと。

全く何の因果かと言いたくなるけれどこればかりはどうしようもなく。
起きてしまった事実は否定のしようもない。

とりあえずいつものように過ごすのみ。
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「どうでもいい『経済』と進行中であること」について

2016-07-21 02:52:22 | Weblog
晴れ。連日行きにバスに乗る。

「マスタースイッチ 『正しい独裁者』を模索するアメリカ」読了。

結局「歴史」の紹介のみ。
この種の「戦い」にはあまり興味が持てないまま終わる。

発明家と実業家でいえば前者に肩入れしたいところ。
ただし現実は常に後者が勝つことだけは覚えておくことにする。

どうにも「判官びいき」から抜け出せそうもない。
根っからの「負け組」ということでよろしく。

繰り返すが「経済」は「経世済民」でないと。
大企業の争いなどどうでもよく。

いたずらな「安定」を求めると逆に息苦しさが増すことを忘れずに。
もちろん好き好きはあるのであとは各自の選択。

早い時期にいわゆる「レール」から降りてしまったので
「守らなければいけないもの」という感覚がよくわからなかったり。

敢えて言えば「本が読めて酒が飲めて言いたいことがいえること」。
いちおうそれは今までどうにか確保できているのでさしたる不満はなし。

時折母親から「もっと欲を出さないと」などと言われるものの「ハイハイ」。
いまだに結婚の話が出たりするあたりさすがに「しぶとい」と思いつつ。

今さら「普通の幸せ」などおこがましい限り。
もっとも当人はすべて「ご縁まかせ」なのだから気楽なもの。

さて。

その結果がどうなるかは自分でも楽しみ。
「終わり」が見えた頃に「結論」は出せばいいだけ。

おそらく死ぬ間際まで「ほほー、そうきたか」と言っているはず。
「進行中」であるものに「答え」などない。
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「独占への欲望あるいはグロテスクなスポーツのあり方」について

2016-07-20 03:04:22 | Weblog
快晴。今日も暑い。

ティム・ウー「マスタースイッチ 『正しい独裁者』を模索するアメリカ」を途中まで。

電話・ラジオ・映画・テレビといった当時の「新しいメディア」を擁する企業が
いかにして「独占」を維持するかという歴史。

とりわけ電話を発明したとされるベルの研究所において
「電話の維持」のためにさまざまな先進的研究結果が隠された事実に驚く。

新たな発明者を「脅威」に感じ裁判攻勢をかけて相手をつぶすのも同様。
あるいは他人の功績をあたかも自分の手柄のように見せることなど。

いやはやこの「弱肉強食ぶり」にはとてもじゃないがついていけず。
結論がどうなっているのかは明日のお楽しみ。

さて。

深夜「今夜くらべてみました」を観て思い出したのは
わが国の運動部における「暴力」について。

今回はたまたまバレーボール限定だったものの
スポーツの種類を問わず同じようなことがあるはず。

元全日本の高橋みゆきが学生当時顧問の教師とのノートに書いた言葉が今でも通用しそう。
「殴ってバレーがうまくなるならいくらでも殴ってください」。

髪の毛の長さはスポーツのうまさと全く無関係であるにもかかわらず
わが国では野球を代表として相変わらず「坊主頭」が少なくない。

「スポーツとしての野球」はむしろ好きだったりするけれど
「甲子園」を代表とする「グロテスクさ」には耐えられず。

「いたずらな連投」ゆえに相当のレベルの投手たちが肩を壊す事実よ。
それにもかかわらずいまだに「投球制限」はないままで(プロも同じ)。

さらにはそのことを「感動のドラマ」として描き続けるマスコミも。
どう考えても「病的」としか思えないのだが。

繰り返すがスポーツは「身体を動かす喜び」を知るためのものであり
それがプロになれば「圧倒的な身体能力」に感動するためのものである。

政治に限らずスポーツにおいてもジャーナリズムは「貧しさの極み」。
この種の「貧困」からは一刻も早く抜け出したいところ。
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「熟女の魅力と言葉つながりあるいは共有」について

2016-07-19 03:00:26 | Weblog
快晴。梅雨明けだとか。

田丸公美子「シモネッタのアマルコルド イタリア語通訳狂想曲」を読む。

タイトルで映画「フェリーニのアマルコルド」にピンと来たいもの。
「アマルコルド」は「私は覚えている」というロマーニャ地方の方言らしい。

シモネッタの真面目さと教養がついつい溢れちびってしまった内容。
とりわけ須賀敦子に対する「批評」が印象に残る。

「通訳」という「因果な商売」にあらためて思いを致すことにもなり。
もっとも「美しい日本語を身につけることと、母国の歴史を学ぶことの大切さ」は覚えておきたい。

「プロとしてのプライドと謙虚さ」はまるでスカートの奥に見え隠れするパンティのよう。
「熟女のテクニック」にしばし酔うのもまた楽しからずや。

ちょいと大人のフリなどしてカッコつけて言ってみたいもの。
曰く「sembra buono=おいしそうじゃない」。

肯定文にも否定文にも解釈できる日本語訳がミソだということでよろしく。
あくまで「活字」の上のことだけれど。

ちなみに「狂想曲」は「capriccio=カプリッツィオ(わが国では「カプリチオ」)」。
「特定の出来事に対して人々が大騒ぎする様子を描く曲」であることも知っておこう。

「カプリ」で思い出すのは「カプリコーン=やぎ座」。
「青の洞窟」がある「カプリ島」も同様に。

これが「狂詩曲」になると「ラプソディー」になる。
「自由な形式で民族的・叙事詩的な内容を表現した曲」。

ハンガリー狂詩曲」から「ラプソディー・イン・ブルー」果ては「大阪ラプソディー」まであれこれ。
去年亡くなった阿藤快じゃないけど「なんだかなあ」。

すべてをひっくり返す「で?」という言葉を思い出す。
あまりに無駄だけれど楽しいひととき。

共有できれば幸い。
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「めんどくさい男子とドラマを生み出す男子」について

2016-07-18 02:45:29 | Weblog
晴れ。蒸し暑い。

上野千鶴子「男おひとりさま道」を読む。

あらためて「男子のめんどくささ」を思い返した次第。
とりあえず他人の話を聞くのは好きなのでOK。

「文化資本」はそれなりに蓄えたつもりなものの
「人間関係資本」についてはいささか微妙か。

「普通」とは違って異なる年代との付き合いが多いのが特徴。
まあ何とか生き延びられるだろうという「根拠のない自信」はあったりする。

やはり「先を見ない」という意味では「ダメ」なのだろう。
だってめんどくさいんだもの再び。

唐突に思い立ち年上の義弟に頼んでブルーレイ・プレイヤーを買いに行く。

結局いつも通り買い物は「即決」で終わったと思ったら
ケーブルがいることになりさらに彼の手を煩わすことに。

これで老舗バーのマスターに何を借りても見られることになってようやく安心。
使わなくなるDVDプレイヤーのコンセントを抜く。

深夜全英オープン最終日を観る。

3年前と同じミケルソンvsステンソン。
3位以下を10打くらい離した「別次元」の対決。

12番ロングパットのパーでミケルソンに勢いがついたかと思いきや
14番とりわけ15番のロングパットでステンソンが連続バーディーを決めて2打差に。

16番ではミケルソンのイーグルパットがボールひとつ分はずれる「天の配剤」。
どうやらという雰囲気を感じつつ。

17番は後者がベタピン前者はグリーンからこぼれて「勝負あり」。
「リベンジ」を果たしたステンソンのゴルフはほぼ奇跡のような。

最終ホールではティーショットがバンカーの50㎝手前に。
「ゴルフの神様」のご褒美だと考えてよさそう。

ミケルソンは6アンダーで負けたら仕方がない。
ステンソンは2ボギーにもかかわらず20アンダーのコースレコードまで出した。

やはり「The Open」には本物のドラマがある。
今年も楽しめて幸せ。
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