退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

’18 盆休み1

2018-08-12 03:08:29 | Weblog
晴れ。暑さは続く。

墓参りに行く。

今回も残念な叔母の独演会に付き合う。
彼女は会うたびに「次に会う時は死んでいるかも」と言う。

そうした台詞はたいてい「死なないと思っているから」にすぎないことを知らず。
本気で「死ぬこと」になったらそんな「余裕」はなく。

彼女も結局は「可哀想な人」ではあるのだけれど。
「機能」として「負の連鎖」を体現してしまっているのが何ともはや。

「どうしようもない血縁の人々の行為に対する反感」が
それを「仕方なく受け入れる」という「ルール」によって「繰り言」として伝えられること。

それが伝えられる相手にとって「負担」になることには気付かず。
「どうしようもない人々」と「縁を切る」という策を思い付かないまま。

「一定の貨幣を代わりに支払うこと」でしか「関係」を作れなかった「貧しさ」よ。
そこにしか「自分」を見つけられなかった「不幸」でもあり。

怖ろしいのはそれが確実に上の妹に「遺伝」していること。
要は「わが家が『ジャングル』であること」の証明ではある。

わが身を振り返れば数少ない「お付き合い」においても
これまた残念ながら「自分のこと」しか考えないままに終わり。

「遺伝子」のせいにするつもりは毛頭ないものの
「こりゃダメだ」と思った次第。

「平成」が終わろうとしている現在にまるで「横溝正史の世界」。
この種のものは「滅ぶ」べきだろう。

その叔母を「説得」によってどうにかできると思い実行する母親も同様。
もっとも叔母は母親の「真心」を多少なりとも感じてはいる模様。

とはいえ叔母の言動が今さら変わるわけもなく。

さて。

長々とこの種のことについて述べたのは他でもない。
「理」はかくも「無力」であるということ。

「受け入れる土壌」があってこそ「理」は作用する。
こうした現実を知らないまま「正しさ」に居直った「リベラルの愚」をあらためて。

ある種の「愚かさ」を「賢さ」に変える手段について
われわれは圧倒的に「貧しい」事実が浮かび上がるのみ。

とりあえず「ヘンなおぢさん」であり続けることは確かだとして
何事かを伝えられるのかどうかは何とも心許ないというよりない。

お願いだから賢くなってくれ。
むしろこちらからお願いするしかない「現実」があったり。
コメント
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