退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「現実」について

2013-02-27 02:33:58 | Weblog
快晴。夜になって雨。

「古川ロッパ昭和日記 戦中篇 昭和16年-昭和20年」読了。

「東京大空襲」の記述は案外あっさりで拍子抜け。
現代と違ってTVがないから考えてみれば当たり前か。

我が家が焼夷弾で焼かれても「平気」だったりするあたり
「戦時の感覚」と言うべきなのだろう。

それにしても麻雀やポーカーをしすぎ。
「日常」を維持することで「非日常」を拒絶する趣き。

「現実」を受け入れるのはそれほど難しいと。
いずこも同じ秋の夕暮れ。

とはいえそもそも「現実」とは何かということになると
誰も「神の視線」を持たない以上切り取られる断面には限りがあり。

赤ん坊は泣き幼子はぐずり少年は駆け回り少女は大人びて。
青年は情熱に燃え中年はため息をつき壮年は悟ったふり老年はじっとして。

それぞれが抱える「現在」を維持しようとすることにおいて
誰もが「平等」ではある。

もっともその内容によっては好ましいものもそうでないものも。

いずれ「限られたもの」ならば
「乱反射」を起こすようなものでありたい。

おそらくは「表面の凸凹具合」が「現実」だと思えば
あながち的外れではないとも思われ。

しばし呆然としつつ明日に備える。
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「人生の香り」について

2013-02-26 03:07:46 | Weblog
晴れ。また冷える。

まだまだ「古川ロッパ昭和日記」。

空襲警報が増える中だからこそか
人々は以前に増して「娯楽」を求めている模様。

そろそろ昭和十九年も終わりに近づいていて
翌年三月十日の「東京大空襲」はどう描かれるのかドキドキする。

「大本営発表」もさすがに「事実」を隠し切れなくなりつつある。
「戦況報告」に一喜一憂するロッパの姿がなんだか切ない。

彼にとっての「未来」をすでに知っている者としては
ある意味「神の視線」を手に入れているようなもの。

ただしそのことが生み出す感情はむしろ「哀しみ」。
現在を生きるわれわれの「どうしようもなさ」もそんなものかと思うのみ。

この膨大な量の日記を読む愉しみは
おそらくそのあたりにあるのかもしれない。

さて。

下の妹の義母が突然亡くなったという連絡を受ける。
夜中にトイレで倒れてそのままだったらしい。

密かに彼女のことを「バタヤン(「帰り船」の田端義夫の愛称)」と呼んでいたりしたのだが
言葉を交わすこともないまま「お付き合い」が終わる。

昭和十九年に彼女は何をしていたのだろうとふと思う次第。
当然のことながらこんな「未来」は予想もしていなかったはずで。

経済的にはそれほど不自由はなかったと思われる人生ではあるけれど
後年にはかなり「偏屈」になっていたようでその「歴史」が偲ばれるところ。

そうしたことに「感慨」を覚える年になったということか。
さまざまな「個人史」が交錯する「事実」にあらためて感じ入る。

宇多田ヒカルはそれを「flavor of life」と歌った。
もちろんそれは若い彼女の限られた「世界」の話ではあるけれど。
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「視点」について

2013-02-25 02:28:38 | Weblog
晴れ。まだ冷える。

午前中に野暮用をこなして昼寝後図書館へ。
メドがついたので日曜の早起きもあと少し。

高橋源一郎「非常時の言葉 震災の後で」を読む。

久方ぶりに「インテリげんちゃん」のエッセイ。
著者が批評家・加藤典洋を好む理由が今ひとつわからない。

もっとも石牟礼道子「苦海浄土」やジャン・ジュネの「世界」を
再認識させてくれたことはありがたいのだけれど。

残念ながら彼の小説の「良き読者」ではない。
ただ「心に刺さらない言葉」が横行している事実の指摘は「良きこと」だと思う。

「他人もしくは自分の赤ん坊」を「考える土台」とすれば
あらゆることが違って見えるのは確かだろう。

とても読みやすい文章で書かれているのは「伝わること」に対する著者の思い。
ただもっと「自分」が全面に出てもいいと思うのだがそうならないのは「含羞」のせいか。

さて。

「大人」になりきれない「子ども」がするのは
いたずらに「大人ぶること」。

なぜなら彼もしくは彼女は自分が「大人」でないことを知っているから。

あまりに「明快」すぎてバカバカしくなるとはいえ
自分の「欠如」をカバーしようとするのは「人の常」。

ある意味で人はみな「セカイ系」なのだから
そうした「前提」を超えてつながることがあれば幸い。

「思いがけないこと」を体験しよう。

その時「世界」はあらたな顔を見せて
自分を縛っていた「秩序のはかなさ」を知ることになる。
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「お気楽であること」について

2013-02-23 00:51:32 | Weblog
晴れ。ややおだやか。

午前中に健康診断を受ける。
「不健康」でいられるほどの「健康」は保っているはず。

珍しく仕事の時間が遅かったので時間つぶしをして「あぶく銭」を得る。
自分の分をちょいと取り分けてとりあえず同僚に奢る約束をしておく。

「ロッパ昭和日記」は昭和十九年に入る。

いよいよ巷から食べ物や娯楽がなくなる様子がよくわかるのも当然か。
それでも「美食家」ロッパは相当「恵まれた食事」をしているはず。

「K.K」と記された「空襲警報」の数も増える。
応召される団員もロッパの苦悩とそれに比例した「遊び」も同様に。

自分の「芸」が「都会向き」であったことに今更気付くあたり
この人にしてそうなのかと思わざるをえず。

明日は仕事がらみで早起き。
ひとっ風呂浴びて早々にでかける予定。

ただし健康診断のせいで昨日は飲めなかったので
ついつい夜更かししてしまいそう。

「空襲警報」も「家族を養う義務」も「芸の不安」もない身としては
いずれ気楽な身分ゆえ。

「下等遊民」でいられることのありがたさが身に沁みる次第。
しばし飲んで適当に寝よう。
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「物語の展開」について

2013-02-22 02:47:15 | Weblog
晴れ。寒さは少しだけ緩む。

深夜「PSYCHO-PASS」を観る。

先回ひとつの「謎」が明らかになった後は
「ブレードランナー」を思わせる「逃亡」と「ハードボイルド」の味付け。

今回はいわゆる「ダレ場」のよう。
「物語」に「新展開」をもたらすための「つなぎ」と思えばいい。

「シビュラシステム」が「全能感の象徴」だとするなら
その「幼さ」はやがて「滅び」をもたらすはず。

一方「成長する」常守朱は「『秩序』と『正義』の両立」をどう処理するのか。
「システムの外」にいる槇島と狡噛ふたりの「行方」や如何に。

「物語のタネ」はまだあちこちに残っている。
これをどうまとめるのかあるいはまとめないかがお楽しみ。

たとえば「データウーマン」唐之杜志恩が実はすべての「黒幕」で
それを知った朱と「対決」するといった展開など。

「犯人らしくない人間が犯人である」という「ルール」に従うと
「よくある結末のひとつ」が導き出されるものの。

いずれにせよしばらくあれこれ楽しめそう。
木曜深夜はこのネタで。
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「大食と芸」について

2013-02-21 02:58:54 | Weblog
晴れ。昼の日差しの暖かさと夜風の冷たさ。

「古川ロッパ昭和日記」を引き続き読む。

ようやく昭和十八年。
その一年前には藤田進が新人として登場。

日本語に厳しいロッパだけに彼独特のなまりがダメという評価。
ただし佇まいには何も言っていないのでおそらくはオーケー。

藤原釜足が「鎌足」に失礼だという理由で「藤原鶏太」と改名させられたり
外国語の店の名前が次々と日本語名に変えられたりする「愚」を笑え。

空襲警報も盛んに出されるようになって落ち着かないはずだが
「ビジネス・アズ・ユージュアル(いつも通りの仕事)」を続けている。

それにしてもよく食べよく働くこと。
いずれもマネできないので感嘆するのみ。

ところで。

費用は会社持ちで健康診断を受ける破目になる。
これも「正社員に近いバイト」に対する「考慮」のせいか。

正直どうでもいいのだけれど
話のネタとして金曜にやることに。

そのせいで明日は久方ぶりの「禁酒日」。
「健康」のために「楽しみ」が奪われるのは残念。

ある程度の年齢を重ねた者は
「後進のため」に適当にいなくなるのが「務め」のはず。

できれば「いたずらな長生き」はしたくなく
そうなるべく生きるつもりではある。

うまくいきましたらご喝采をというところ。
それも「芸のうち」だということにしておく。
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「休み休みに言うこと」について

2013-02-20 02:56:38 | Weblog
くもり。風吹き冷える。

年齢のせいか以前より「冷え」に敏感になった気がする。
まだまだコートが脱げない日々が続くのか。

元より人の感覚など頼りないものなので
それが「本当」かどうかは案外眉唾だったりするかもしれず。

とはいえとりあえずは自分を信用しておくよりなく。
恃むに足る友人がそばにいると参考にしやすいけれど。

さて。

傍からすると「取るに足りない自意識」に絡め取られている人々が身近に多いような。
彼ら彼女らの特徴は「他人の意見を素直に受け入れられないこと」。

もちろん他人が必ずしも信頼できるかどうかは別。
むしろそうでない場合も少なくないものの。

身の回りのすべてに関して「自分が好きなもの」しか受け入れられないとすると
果たしてその「好き」にはどれほどの「許容量」があるのかと思わざるをえない。

あまりの「自分勝手ぶり」に
「好きなことだけやって生きていけるならそうすれば」と言ったこともある。

彼ら彼女らの「狭量」を育てたものは何なのだろう。
「全能感」に「ひきこもる」ことが可能な「環境」のなせる業であるのはわかるけれど。

たとえば「人の夢を悪く言わないで」という発言があったとしよう。
メディアでは「あきらめなければ夢はかなう」などという言葉が主流だったりもする。

がしかし。

「才能」と「努力」あっての言葉を
いわゆる「普通の人」がそのまま受け取るのは間違っていることを忘れずに。

むしろある種の「才能」は他人を「無能扱い」することで
別の道に目を向けさせることもある。

実はそうした「競争」は絶えず行われていて
その結果が明らかにするものは圧倒的に「無惨」なものにもなる。

少なくとも「個性あるいは自分らしさ」を探すような日常があるなら
「おとなしく暮らすこと」。

むしろ「他人の才能」を理解できる喜びを知れば十分ではないか。
などとは思うが無理なのだろうということもわかりつつ。

これこそ「めんどくさいこと」の最たるものだと言っておく。
結局どう関わるかは自分次第という「陳腐」で終わる。

「現実を受け入れること」はかくも難しい、などと。
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「さて」について

2013-02-19 03:19:28 | Weblog
雨のちくもり。暖かさはまだ。

「古川ロッパ昭和日記 戦中篇 昭和16年-昭和20年」を読み進める。

ようやく昭和十六年(1941)十二月八日をクリア。
ますます食糧がなくなりつつ娯楽はまだ需要と供給をどうにか満たしている。

さまざまな身体の変調を抱えつつ
それにしてもロッパの元気なこと。

ただしさすがに神経はかなり影響を受けていることが伺える。
その「怒りっぽさ」が後にどうなることか。

水上瀧太郎「貝殻追放」に爽やかさを感じているのを知って少しうれしい。
自分の「声帯模写」を「うまい」と言っているのもおそらくは「客観的」。

仕事場の若い同僚が本の厚さに驚く。
ほとんど「筋トレ」のつもりで持ち歩いてはいるのだけれど。

さて。

今宵はここまでにして寝る。
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「退屈しのぎ」について

2013-02-18 03:39:47 | Weblog
晴れ。冷える。

午前中に野暮用をこなして昼寝。
いささか疲れが出たか。

久方ぶりのマンガ喫茶で「HUNTERxHUNTER」を20巻まで読む。
途中からかなり「ゲームチック」になっていた模様。

「技のあれこれ」に関する細かい情報はめんどくさいので2時間ほどかけて流す。
「物語」が消えると「情報」が増えるパターン。

この種のお話は「対決」と「キャラ」の「多種多彩」が基本。
もう少し「人間的な味わい」があると好ましい。

マル激のNコメを観る。

「PC遠隔操作事件」の犯人は警察とマスコミの作り上げた「お話」のよう。
いい加減に「物証」のないまま「自白」に頼るのをやめたらどうか。

「警察のリーク」から「マスコミによる雰囲気作り」が始まり
ただの「被疑者」があっという間に「犯人」にされる仕組み。

この「前近代ぶり」はどうにも納得しがたい。
「真犯人」でなくともこの「ヒドさ」には「対抗」したくなるというもの。

母親に付き合って「警察24時シリーズ」をTVで観る。

全体に採り上げている事件の「小ささ」に驚く。
「ネタ」がないので無理やり作っている印象が強い。

「飲酒運転」「麻雀賭博」「酔っ払い」「盗撮」「冬場の交通事故」「不正アクセス」など。
番組スタッフには「ご苦労様」と言うよりない。

興味のない番組を観るのは退屈以外の何物でもないのだが
これも「家庭の事情」ということで。

ひとつだけ興味深かったのは「捕まった人々の言い訳」。
みなさん最初から謝らないのね。

さて。

繰り返すが「敵」を「デッチ上げ」て「結束を固める」のは貧しい。
もっと素直に「いいもの」に触れればいいだけのこと。

とはいえこの「単純なこと」が出来ないのが「世情」。
安楽に暮らせない「現実」がそれを招き寄せるのだとして。

「デタラメぶり」はそれぞれに挙げれば限りなく。
なるほど「世はいかさま」とあらためて感じ入る次第。
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「男のわがままと女の強さ」について

2013-02-17 02:38:36 | Weblog
雨のち晴れ。冷える。

「古川ロッパ昭和日記 戦中篇 昭和16年-昭和20年」を読み始める。

現代よりむしろ落ち着く感じ。
もっとも当時のロッパにそんな余裕はなかったろうとは思うけれど。

さすがにいよいよ戦争が始まる年のせいか食糧不足の様子。
グルメ&グルマンゆえに憤慨すること甚だしい。

子煩悩な一面も見せつつ
なるほどこのわがままが災いとなるのも少なくないことは十分に感じられる。

深夜「鶴瓶の家族に乾杯 綾瀬はるか 福島県会津若松市前編後編」を観る。

会津の女性の強さとやさしさを垣間見る。
「いいひと」の集まりに気分は小春日和。

敢えて男たちの後ろに下がることで
いっそう力強さを発揮するという「生き方」もある模様。

どんな場所にいようと何事かを貫く姿勢は美しい。
引用されたおなごふたりの辞世の句の心意気よ。

世の男子諸君は見習うべきことが多そう。
むしろこれに応えずにいられようかという勢いがほしいところ。

ここで明らかになるのは「人情と美学」。
「負ける者」にやさしいのもその痛みを知った上でのことで。

いかに「美しく負けるか」。
「判官びいき」の「伝統」が思い起こされてちょいとロマンチックな気分に浸る。
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