退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「正義」でなく「希望としての多様性」を生きることについて

2011-03-31 04:10:58 | Weblog
晴れ。昨日よりちょっとだけ冷える。

本橋哲也編「格闘する思想」を読む。

萱野稔人と本田由紀はいつも通り。
それ以外の方はかなり「気張っている」もしくは「気張らされている」模様。

「世界の多様さ」を知ろうという廣瀬純には同意する(ネタがラテン系のせいもあるのか)。
海妻径子の「フェミニズム」はやや微妙なことろ。

あくまで「敢えて楽観的」な白石嘉治にアラブを探る岡真理。
西山雄治は「デリダの精神」を受け継ぐと。

おそらくは「健全な左翼」のライブのようで。
この「メンバー」を「認知」しろという「要請」がある模様。

もちろん「立ち位置」よりも「中身」が重要。
そこそこの魅力は感じたものの。

ただ編者の「前書き」は余分。
それぞれの「展開」を「ひとつの視点」でまとめるのはよろしくない。

「自分の立ち位置だけをスッキリさせるのはよくない」という
萱野稔人の言葉に大きくうなずく。

当然のことながらそれは「自分の世界」の話でしかなく
その「穢れなさ」はむしろ「免罪符」のようにあやしげなものになる。

あとひとつ感じたのは「不自由から逃れること=望ましい自由」という考えの「イデオロギーのあやうさ」。
人は人である以上「圧倒的な正義」には立てないというのが「基本」だろう。

「正義を目指す」ことはいっそ「有害」。
それぞれがそれぞれに「実験」しつつ進むしかないのが「本当」なはず。

もっとも「望ましいもの」については大いに語るべし。
そうした「希望」がないといたずらに「自己嫌悪」に陥るのみ。
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「空気」によって繰り返されることについて

2011-03-30 03:00:23 | Weblog
晴れ。昼間はコートいらずのあたたかさ。

久方ぶりにソウルバーへ行く。
今宵は「黒ゴマ坦々うどん」のみ食べて早目の帰宅。

ときどきDJをやっていた青年は転勤になり
先週の土曜がラストプレイだった模様で少し残念。

中尾政之「失敗は予測できる」を読む。

アメリカには「Failure Analyst(失敗アナリスト)」という
著者のような事故分析を専門に仕事をしている人がいるとのこと。

「会社のために事故原因を隠蔽しようとする調査委員会」が少なくなくもないわが国を思うと
「経験の厚み」の違いを感じざるをえないけれど。

たとえば活断層の真上に原発を作ることの「バカバカしさ」は誰にでもわかるはず。
ところがそれが「平然と行われる」のはなぜか。

事故について真面目に考えれば
あらゆる危険性の指摘に対して真剣に取り組んでみるのが「当然」。

ところがその「当然」が行われないのはなぜか。
おそらくそれは戦時中と同様の「空気の支配」。

そうした「指摘」はまともに扱われず
何らかの「利益の維持」のために特定の集団が動くというのが「定石」。

それらを「工学的に防ぐこと」は可能なのだろうか。
少なくともその種の「立場」にいないことだけはできているとはいえ。

「失敗」が「悲劇」にならないと身にしみないのだとして
人が変わればそれでも「失敗」や「悲劇」は繰り返される、のか。
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テレビドラマについて

2011-03-29 02:53:54 | Weblog
晴れ。寒さは緩む。

「数学で犯罪を解決する」読了。
後半はドラマの内容紹介などでややダレる。

NUMB3RS 天才数学者の事件ファイル」はどうやらDVDになった模様。
去年の暮れには「シーズン4」もレンタル開始されたとのこと。

シーズン1」ならニコ動で見られる。
興味のある向きはどうぞ。

さすがにリドリー&トニー・スコットがプロデューサーだけのことはある内容。
ニコラス・ケイジがプロデューサーの「ドレスデン・ファイル」はややいただけないけれど。

それにしてもこの手のアメリカのドラマを地上波のゴールデンで流したら
相当な視聴率が取れるはずだがそれはマズイのだろうか。

詳細は不明の「事情」があるとして
日本のテレビドラマ製作者には奮起を促したいところ。

マンガ原作のものはどうしても「学園&ヤンキー」になりがちで
「大人の鑑賞」に堪えるものではない。

「相棒」シリーズが可能なのだから
もっと知恵を絞ってもらいたいもの。

テレビの「報道」はほぼ「死亡」している現在
せめて「ドラマ」は良質のものでないと。

日本国民の大部分は何の疑いもなく「地デジ」への移行をすませているようなので
いっそ「団塊の世代」を狙ってみるのもいいだろう。

基本は「学園紛争&フォークソング」で。
過去を振り返りつつ現在の姿を描くのがよさそう。
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「現実の複雑さ」について

2011-03-28 03:21:11 | Weblog
晴れ。風冷たし。

キース・デブリン、ゲーリー・ローデン
「数学で犯罪を解決する」を途中まで読む。

以前にも採り上げたことのあるドラマ「NUMBE3S:天才数学者の事件ファイル」を元に
「統計的数学」が犯罪捜査にもかなり応用できることを例に取りながら紹介する内容。

ただしあくまで「モデル」は「モデル」であって
「自動的に答えが出ること」への安易さに甘んじてはいけない模様。

要はある種の「単純なモデル」を使うことによって
人が大量に処理できない材料をこなして「答え」が出せるということ。

「computer=計算機」で能力が高いものがあれば
その結果が「正しい」かどうかは別にして「答え」は出るのだと。

もちろん「統計的有意」は「正しさ」ではなく
あくまでひとつの「傾向」が他の「傾向」にほぼ「合致する」という「結果」が出るということ。

「統計的処理」の「面白さ」は
人の「先入観」とは違った「事実」に気付くことで。

「第六感」で「理由」もなく判断できる人と
徹底的に「ロジカル」であることであらたな「知見」を生む「コンピュター」の違いよ。

いずれも「不完全さ」においては大した違いはなく
いわゆる「相補的な関係=お互い様」程度に理解しておくのがよさそう。

「演繹」と「帰納」のどちらが「正しい」わけでもなく
「情報処理能力の多寡」でもなく。

所詮「圧倒的に複雑な現実」に対して
わずかな「パラメーター=基準点」を元に「解釈する」だけだから。

なにやら現在起きている「原発の危機」に似ているような。

たとえ「解釈」が「真逆」であったとしても
互いの「結論」に対しては「誠実」に答えたいもの。

そこで「共有できるもの」はどんなものなのだろう。
「目的=終わり」が「同じ」であることを忘れずにいたいものではあるけれど。
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「育てること」について

2011-03-27 02:23:53 | Weblog
晴れ。風強く寒し。

昨夜は飲んでいるうちに眠ってしまう。
早朝にマル激で地震の特番を見てまたため息。

「自分たちの利益」のために
他のすべてを「犠牲」にするような「暮らし方」はただ「下品」。

今宵は研修の後で久方ぶりにガスト。
いつものメニューでいつものように過ごし、送ってもらい帰宅。

車中でベテランがまとめて抜けることについてあれこれ話す。
書類が増えることで肝心の仕事が疎かになるかもしれないという危惧についても。

「日本人の知性14 中村光夫」読了。

後半は著者ほどの人がわざわざ書く内容ではない感じのもの。
おそらく編集者が「勘所」をよくわからないまま適当にまとめたせいだろう。

それにしても至るところで「人材の不足」が共通して見られる。
わずかに「後世畏るべし」と思わせる人がいるとして。

繰り返すが「最大の資源」は人。
現在それが「枯渇」しているなら未来に向けて「準備」しておこう。

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「見えないもの」を見る視線について

2011-03-25 02:16:01 | Weblog
晴れ。まだまだ冷える。

「日本人の知性14 中村光夫」を読み始める。

「現代知性全集」第20巻「中村光夫集」の5頁から270頁を110%拡大したものらしい。
オリジナルは昭和三十四年(1959)正月に出たものとのこと。

「出版物」としては少々怪しいけれど
図書館の棚で少し目立っていたので借りてきたもの。

もっとも内容は現在でも十分通用するもので
「序」で著者も書いているようにそのことは「素直に喜べないこと」でもある。

「歴史」を知り「現実」を受け止めた上での「的確な批評」。
さらには声高でない姿勢の好ましさよ。

繰り返すけれどいたずらに「噴き上がる」のは「子ども」。
「大人」でありつつ「子ども」でもあるという「複雑さ」を大切に。

好奇心は「子ども」で理解は「大人」であること。
馬齢を重ねた者には少なくとも「魅力的な存在」であるべしという「義務」があることにしておく。

それが発揮されるのはどんな場面でもかまわない。
仕事の種類を問わずそれはおそらく「仕事ぶり」にあり。

おそらくはそれらの「誠実さ」が他人を打つ。
そして互いにそうした「事実関係」をチェックできたら幸せ。

たとえば人はいつまでも「恐怖」の中にいられないので
「原発の危機」が去らなくても「復興を目指す人々」に視線を移しがち。

そうした「誘導」は「被災地の映像」を垂れ流すメディアへのせい。
たとえ「惨状」であろうとそれを見続ければ人はそれに「飽きてしまう」のが「当然」。

肝心なはずの「危機」を忘れて「幻想の復興」に涙するのは単なる「カタルシス」。
この種の「物語の蔓延」には常に敏感でいたい。

自分の想像以上のものが「世界」だというのは
誰にとっても当てはまる「規律」だと知ろう。
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「出来るなら=虚心坦懐」ということについて

2011-03-24 02:21:58 | Weblog
晴れのちくもり。だったと思うがとりあえず冷える。

クリストファー・ラッシュ「エリートの反逆」読了。

著者はどうやら「『道徳』としての宗教」が機能しなくなったことを憂えている模様。
その一方で「宗教はアヘンだ」と言ったマルクスがいたりするものの。

いわゆる「エリート」と「一般大衆」の「接点」が圧倒的に失われてしまい
それをフォローするはずのアカデミズムも自分の「生き残り」しか考えていないと。

もちろんある種の「論理」を突き詰めるとそこに「正解」が失われるのはもはや「自明」。
その理由は単純で「世界は人が思うより複雑だから」。

むしろあらゆるものを「コントロールできる」と思うのが「不自然」で
もしできるならやってれば、というお話ではある(相当に迷惑なお話だけれど)。

「エリート」あるいは「専門家」たちは
互いに共有する「論理」のみをいたずらに重んじるだけで。

それらをふまえてみると
実は前近代的な「宗教を信じる」という在り方が効果的だったりするのだという視点。

いずれにせよ人が考えられることは「たかがしれている」。
互いにもっと「謙虚」であるべきだというのが当面の「倫理」だろう。

「だからダメなんだ」ということは誰にでも言えるとして
「どうしたらいいいのか」ということについて「知恵」を集め「実行」するしかない。

その際の「最低限のルール」として
「いいものはいいこと」と「ダメなものはダメなこと」を互いに率直に認めること。

自説の「正しさ」をいたずらにあげつらわないこと。

あらためて「目的=到達地点」を思えば
人は案外「同じ方向」を向いているもの。

ところが「歴史」はそうした「ナイーブさ」を「戯言」だと証明している。

さて。
どうしたものか。

とりあえず虚心坦懐に「議論」しよう。
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「好ましい形」について

2011-03-23 03:49:10 | Weblog
晴れのちくもり。風が一時強く。

昨日は疲れて眠ってしまった。
特に何かしたわけでもなく。

クリストファー・ラッシュ「エリートの反逆」を読み始める。

何もかも思い通りになるという「発想」の貧しさを知ろう。
いたずらに「イデオロギー」を主張するだけの愚も同様に。

ただ難しいのは子どもが幼い頃には両親がいるのがいいと思いつつ
そうでなくってもいいはずという「あいまいさ」。

とりあえずそれぞれの「経験」があるなら
形にこだわらず「感想」を述べればいいはず。

いない方がいい親がいることもあれば
必要な親がいないこともあるという「シンプル」。

そこにもし「他人を汲み取る気持ち」があるなら
ある程度の「参考」にはなるだろう。

さて。

かつての「家庭」はなんとかその役割を果たしていたような「イメージ」だけが濃厚にあるものの
「一寸先は闇」という現状を理解しつつ「未来」を求めるならもう少し「寛容」がないと。

子どもを「まともに」育てるためには
家庭というのはあまりに限定された「ジャングル」。

むしろ「他人」と触れ合うことがいい。
そこで学ぶことは少なくないから。

「同じこと」と「違うこと」の振幅を生きること。
そのあたりが「適当」だと思うのだが如何。

人は「パンのみ」にも生きないし
「ひとりぼっち」でも生きないのが「定石」。

「さまざまなルート」があることが
「健全」であり「豊か」であると思いたいもの。
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「出鱈目=出たら芽」なことについて

2011-03-21 02:35:21 | Weblog
くもりのち雨。洗濯はしたけれど。

柳瀬尚紀「辞書はジョイスフル」を読む。
「言葉の海」に魅了された著者の思いに一部共感する。

ただしここまで「病膏盲(こうこう、もしくはこうもう)に入る」ことが出来るかどうかは別。
ひとつの世界にここまで没入できるのも「才能」か。

読後仕事関係のイベントをこなす。
あまりなノープランぶりに唖然としつつ久方ぶりにスナック菓子をつまむ。

「ダメな人はダメ」という「当然」を確認する。
そもそも主催者が遅刻すること自体がありえないし。

マル激で新たな「インタビューズ」。
「危険な話」「東京に原発を」の広瀬隆がyoutube版と少し違った資料も出しつつ。

自分たちの「利益」のためには何事も「犠牲」にするというのが
宮台真司によれば「行政官僚制」の「本質」らしい。

そうである人々にもそうでない人々にも是非聞きたいところはそこ。
「どういう暮らしが望みなのか」。

自分がその「寿命」に価する存在なのかというような発想はおそらくないのだろう。

「生きてればいいじゃん」。

その上でさらに言うとするなら
後世に「禍根を残すこと」は出来れば避けたいもの。

もちろん「望むべきもの」を伝えたい気持ちはいっぱい。
その「実現」を思うと、とりあえずの中年男の心と「息子」は萎えるという設定で。

「ECCS」は「緊急炉心冷却装置」の頭文字だとして
今はむしろ「ED」な人々さえ「沸騰」すべきなのではないか。
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最後の砦=人という資源について

2011-03-20 02:08:15 | Weblog
晴れ。おだやか。

原発関連で少しだけ朗報なのは
5号機6号機の使用済み核燃料のプールの温度が下がったこと。

そして電源復旧もどうにかなるかもしれないということ。
もっともその結果冷却装置が作動するかどうかは別の話だとして。

一方でヒドイのは現場で放水作業にあたった隊長たちのマスコミによる記者会見。

放射能に晒された部下を案じて涙するのはわかるけれど
「危機的状況」そのものはまだまだ予断を許さないはず。

彼らを「英雄扱い」するのはかつての「軍神」と同じ。
「全体」を見ずに「特定部分」の「情緒」に訴えてどうしようというのか。

むしろ問題は彼らをそうした危険に追い込んだものについて考えること。
津波に襲われた時の原発の危険性は実は事前に指摘されていたことも忘れずに。

そうした「原発問題」のせいで
各避難所で起きている「厳しい現実」が伝えられなくなりがちになるのにも注意したいもの。

それにしてもこの「劣化」のどうしようもなさ。

敢えてそこに「希望」を見出すとしたら
「自分の住んでいる場所のあれこれの問題に関して誰かに『丸投げ』するのはダメだ」という「自覚」。

さらには原発を除いた上での「エネルギー政策の転換」が「リアルなもの」になり
電力の問題においてだけではなく「中央集権」より「地域分散」が「リスク」を軽減することなどについて。

「破廉恥な輩」というものは
こちらの想像を超える「悪行」を平然とやってのける存在だということも知っておこう。

その種の「貧しさ」は「経済的な貧しさ」とは異なるものだけれど
結局は「個々人の『豊かさ』」こそが「最良の資源」だと知るべきだろう。
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