退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

連休1

2015-06-30 00:57:03 | Weblog
晴れ。だったはず。

ヒマだったのでついつい要りもしない「仕事」をしてしまう。

読書もしないまま。
いつもと違うと調子が狂う。

どうにか時間をつぶして久方ぶりに平日のクインビー。

マスターがあれこれ話してくれて楽しく過ごす。
カップル一組のみの来店かと思いきや後半に8人の団体さんが。

ただし彼ら彼女らは「芸能人のズラネタ」で引っ張る引っ張る。
ついつい終電前に帰宅した次第。

それにしても皆さん「お行儀」がいいこと。
とりあえずもっと飲めよと思いつつ。

もちろん人それぞれの「流儀」があるので基本はOK。
それで「楽しい」のかなと「余計なお世話」。

などと「ありきたりな感想」を抱く大本は結局自分だったり。
さらに「楽しく暮らす」工夫をしないとマズいのかも。

ただ「会話」は常に「刺激的」でありたいもの。
このあたりに「うるさい」のが身上。

「こういうのって面白いでしょう」より
いきなり出会う「面白さ」に笑うのが「本筋」だと思うのだけれど。

振り返れば学生時代は毎日そんなことを続けていたような気がする。
若さゆえ相当に「不粋」であったことは確かとはいえ。

相手に何事かを感じさせないと。
その「やりとり」で「友だち」になるかどうかが決まるはず。
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「ビジネスと若者と秘密」について

2015-06-28 02:18:19 | Weblog
『くもり。夜になって風が吹く。

常見陽平「リクルートという幻想」を読む。

「ビジネス」の世界では「リクルート」が「ブランド」であるらしい。
それを利用して「ビジネス本」を書いている元社員もいるとか。

その種の「喜び」や「達成感」を知らない者としては「はあ、そうですか」。
「数字を上げること」にあまり意味を感じないタイプですまん。

どこの世界でも本当に優れた人間はひと握りであるのだから
敢えて「幻想」を打ち砕く必要があるのかと思った次第。

もっともある時期ある場所に「才能」が集まったりすることはあり。
ただし結局最後は「個人」ではないのか。

たとえばスティーヴ・ジョブズ亡き後のアップルがいい例だとして
リクルートもその類いだとすれば実は「よくあること」で。

かつての「大企業」が消えるのはごく「普通のこと」だったり。
そうしてみると「トヨタの凄さ」が一部わかったようなつもりにもなれて。

ただやはりわからないのは「会社を大きくして何がしたいのか」ということ。
上げ続ける「利益」をどうしたいのかということ。』と書いて昨日は寝る。

仕事の都合でクインビーもお休み。
どうやら三連休になったので明日行くつもり。

古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」を読む。

「好ましい未来」が見えていれば人は自らを「幸せ」だとは言わず
逆にそうでない時に「幸せ」だという「事実」。

大昔から「若者論」は繰り返され続けてはいるものの
その「中身」はたいがいが「カス」らしい。

そもそも「若者」という大雑把な枠組みで何かを言ったところで
「自分たちとは違う」という「感想」になるのみ。

厳密に考えれば至極真っ当な結論で終わるはずが
人はついつい誰かに対する「不満」を述べたいものらしく。

自分がよく知らない存在については「ステレオタイプ」な理解になりがちで。
ある種の「パターナリズム=余計なおせっかい」がいつの時代にもある模様。

「自分の人生」を生きていればその他の存在も「同じ土俵」にいるだけ。
「安易な決めつけ」は出来るだけ避けたいもの。

マル激で「盗聴法」を扱った回を観る。

いたずらに「盗聴」を許すと困るのは政治家だったり。
かつてのFBI長官エドガー・フーヴァーのことは知らないのだろうか。

誰しもが持つ「叩けば出るホコリ」を特定の人間がすべて知ってしまったとしたら。
それを材料に脅かされれば何も言えなくなるのは必然。

いたずらに「万能感」を抱くのは愚かだとしても
「権力」が可能にするそれは相当に大きいのでご用心。

「特定秘密保護法」ともども早急に廃止するのがよかろう。
「まともなチェック」が機能しないとあらゆるものは「腐敗」するから。
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「俯瞰とこびりついた世界観」について

2015-06-26 03:08:24 | Weblog
『晴れ。やや蒸す。

松井孝典「我関わる、ゆえに我あり 地球システム論と文明」を読む。

「地球を俯瞰する視点」を手に入れた著者による
あらたな「歴史像」と「文明論」。

「おばあさんと言語ゲーム」が人類の特徴だというのが面白い。
「おばあさん」は今後も「再生産」されるが果たしてまともな「言語ゲーム」はいかに。

「知の体系化」はむしろ当然の結論。
「地球というシステム」を支える「ルール」は科学によってしか解明できないだろう。

残念ながら今のところ「近未来」には悲観的なのだけれど
「栄枯盛衰」が物事の基本だとすればそれも一時期のものに過ぎず。』と書いて昨日は寝る。

山田昌弘・白川桃子「『婚活』症候群」を読む。

「夫に経済的に依存する『昭和結婚』」というイデオロギーが生きているところへ
「年収600万円以上の適齢期の男性は5.7%」という事実が重なった結果。

「共働き」という「当然」が見失われ
むしろ「小さくなったパイ」をいかに獲得するかの競争が生まれたという「皮肉」。

「結婚=安定」という「幻想」もどうやら機能していて。
平成もすでに27年(ほぼ一世代)過ぎたというのにこのありさまか。

どうやらあらためて「自立」ということが問われているような気配。
もっともそれがひとりではなくふたりでできるものであることも忘れずに。

それにしても若者の腰の引け具合いはどうやら「尋常」でない。
少なくとも「安定」の中身をもう一度確かめた方がよさそう。

明日生きているかどうかわからないのが「現実」だと知っておきたいもの。
こびりついた「世界観」を一掃するものに出会うことも同時に。

「思い通りにならない楽しさ」を奪っているのは実は「消費活動」だったり。
所詮「選択肢」を提供されているに過ぎない「事実」についても敏感であろう。
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「セクハラ」について

2015-06-25 02:31:25 | Weblog
晴れ。おだやか。

牟田和恵「部長、その恋愛はセクハラです!」を読む。

「セクハラ」の根底にあるのは
「男女のコミュニケーション・ギャップ」。

そこを具体的に明らかにしたのが本書の功績。
もっとも「男子の鈍感さ」はここでも浮かび上がる。

女子の「おだやかなNO」に気付かないまま相手の訴えを「裏切り」だと思い込み。
その結果裁判で女子が勝ったとしても「職場あるいは望んだコース」が失われたり。

少なくとも「職場の上司と部下」であれば
「対等な関係」ではなくむしろ「セクハラ」になりやすいということなど。

とりあえず男子の「女性観」というものが相当に間違っているのは確か。
男子が「女子」と認めるのは「性的魅力」を抜きに出来ない「認識の仕組み」なども。

「ストーカー」の存在が一般的になって以来
最悪の場合それらが殺人に至るケースまでもあるのだから。

20代30代の若者の4割が「恋人はいらない」と答えているのも
実はそのあたりに理由があったりして。

著者も「はじめに」で使っている「黒の舟歌」を。
長谷川きよしのギターと歌だとちょいと「ロマンチック」になるか。

男と女の間にはそれ以外にDVもある。
男子はどうしてもっと女子に近づけないのだろう。

もちろん自らを振り返ればさまざまな「黒歴史」があり
偉そうなことを言えた義理ではないのを承知の上で。

どうにか日々精進しているつもりのうちに
やがて寿命が来そうな予感だけは確かにある。
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「オヤジに対すること」について

2015-06-24 02:02:01 | Weblog
晴れ。暑さはそこそこ。

遥洋子「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」を読む。

以前から図書館で見かけてはいたのだけれど今まで「ご縁」はなく。
古本屋で100円で購入。

オリジナルは15年前に出た模様。
「ビルドゥングス・ロマン=教養小説」という解説・斉藤美奈子の指摘はさすが。

著者のことは「関西にときどき出てくるアンチ・オヤジの極端なタイプ」だと思っていたが
これほど文筆の才能があるとは知らず申し訳ない限り。

それにしても当時の「上野ゼミ」の厳しいこと。
そして敢えてそこに飛び込んだ著者の勇気たるや。

ある種の「悔しさ」に気付いた者は否応なく「戦う」しかないのだとして
「武器」を身に付けた著者が「現代」に対してどう思っているのか聞いてみたいところ。

「フェミニズム」に興味があろうがなかろうが
「冒険譚」として実に面白く「普通の男の隠された『当然』」を暴くあたりも小気味いい。

「なぜ女性が家事をするのが『当然』なのか」

それに対する「答え」はすでにさまざまな形で出ているけれど
世の男性陣はその内容によって「器量」が量られることをお忘れなく。

さて。

下世話な例えを繰り返すなら沖縄は常に本土から「愛人」扱いされてきた。
「オヤジの都合」に合わせて行動することが求められつつ「手当て」を与えられて。

その後長い年月が過ぎ。
「オヤジの身勝手」にいよいよ立ち上がる時が来たらしい。

圧倒的な哄笑と力強いユーモアを持って戦え。
相手の「どうしようもなさ」を浮かび上がらせるべく。

昔の島唄の歌詞を知ると
その「素質」は開花の時を待っているようで。

「なるがまま」を止めて「なす」こと。
「歴史」をいつも「白紙」にしてしまう「伝統」を打ち破れ。
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「幻想の呪縛を解くこと」について

2015-06-23 02:53:46 | Weblog
くもり。仕事帰りにパラつく。

今野晴貴「ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪」を読む。

「相手=若者」を「いつでも取り換え可能なモノ」として扱うのが平気なのは
「自らの目的」にとって自分以外の「他者」は「利用すればいい存在」であるから。

「ビジネスの厳しさ」をそれらしく言い立てる以前に
そのあたりの「本音」を明らかにする方がマシ。

そうしなければ「生き延びられない」とするなら
そんな企業は滅びてしまえばいいいだけのこと。

少なくとも自分の都合だけで相手を精神的に追い詰め
最悪の場合には死に至らしめるなどという「権利」は誰にもない。

わが国ではなぜか「自分の生活」を「犠牲」にしないと「仕事」にならない模様。
「自分の生活」を大事にするために「仕事」があるのだという「基本」が倒錯していて。

それもこれも「『安定』という幻想」がなせる業だということは知っておくべき。
「人がごく普通に生きること」が難しくなっている「現実」よ。

「高度経済成長時代の常識」はもはや過去のもの。
いつまでも惑わされる理由はどこにもないはずなのだが。

「貧乏だけどハッピー」。
それがすべてではないにせよそのことの「意味」をあらためて考え直す必要はありそう。

答えは案外簡単で「ブラック企業」に勤めなければいいだけ。
もし運悪く勤めてしまったらすぐに辞めよう。

「働き手」がいなくなればその企業はもたない。
実はそっちに「主導権」があったりすることも忘れずに。

「利益を上げるためにすべてを犠牲にする」のは簡単だけれど
おそらく「人でなし」になるはず。

その種の「神経」をマヒさせてまで得た「貨幣」で
いったい何をしようというのか。

「生存権」を確保できる「仕事場」を見つけることも重要だが
あらたにそれを作り出すという「選択肢」があることも重要で。

できればそれぞれに楽しく。
「幻想の呪縛」を解けば誰にでもできること。

いやはや。

わが国の「貧しさ」たるや。
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「親しらずであることあるいは人材育成」について

2015-06-22 01:30:25 | Weblog
くもりときどき晴れ。おだやか。

煙草と電池を買いに出た以外引きこもり。

図書館へも行かなかったのは「親しらず」のせい。
とりあえずロキソニンを飲んでいれば痛くはないまま過ごせる状態。

ただ疲れについて「意識」と「実態」の違いがあるようなので
家の中でゴロゴロすることにしてみた次第。

久方ぶりに「昼寝」など。
自分でいびきをかいているのがわかるくらい。

もっともまだ腫れは引いていないので
そのうち歯医者に行くしかないか。

マル激を観る。

「集団的自衛権」を「合憲」だとする憲法学者はなぜか「国連憲章」などを根拠に。
もちろん「国連憲章」に関わらず自国の「憲法」がそれを禁じることはあってよく。

ここでも問題なのはその「論理の在り様」。
あまりに「幼稚」すぎてお話にならないレベル。

その一方。

自民党の政治家村上誠一郎は党内で唯一「集団的自衛権」に異を唱えることができる模様。
自民党の「変質」は「見識」もないまま「政治家であること」にしがみつく者が多くなったせい。

どうやら「小選挙区制」が「党の力」をいたずらに強めることになったと。
実際に政治活動にかかる「金」を個人が用意できず「党」に頼るしかないらしい。

「政権交代」にあまりに期待しすぎて
その「実質」を大して考えずに「良し」とした「ツケ」が回ってきたのかも。

ここでも「人材育成の失敗」が原因だと思ってよさそう。
「人を見る目」が余程いい加減になったのだと思ってもいい。

「ただのメンバー交代」ではその「稚拙さ」が表に出るだけ。
とはいえ「まともな基準」を維持できる「中間集団」はもはやなく。

本格的に政治に参加し総理を目指す「エリート集団」を作らないとダメかも。
それをある種の「ゲーム」だと思ってやれるくらいの「人材」を。

そこでも重要なのは「本物」を知っているあるいはそれに触れること。
「緊張感」もなく何事かができると思うようでは失格。

政治以外の世界ではまだ十分に通用するはずのその形が
結局政治で機能しない理由を考えた方がよさそう。

少なくともそれを「証明」する存在であるのが現在のわが国の首相だと思っていい。
「国際情勢のリアル」をいつのまにか「私怨」に変えてしまうのはやめるべきだろう。
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「やっぱり好ましいもの」について

2015-06-20 02:04:16 | Weblog
くもり。おだやか。

山田宏一・蓮實重彦「トリュフォー最後のインタビュー」を読む。

個人的にはトリュフォーにとってあまりいい観客ではない。
言わずもがなのことだけれど彼はフランスの映画監督。

「終電車」(’80)「隣の女」(’81)
そして遺作となった「日曜日が待ち遠しい」(’83)を観始めたのが「お付き合い」の最初。

学生時代に雑誌「話の特集」など読んでいたので
いまだに観ていない「華氏451」(’66)の「製作日誌」など読んでいたり。

その後「大人は判ってくれない」(’59)「あこがれ」(’58)「突然炎のごとく」(’61)
「柔らかい肌」(’64)「黒衣の花嫁」(’68)「恋のエチュード」(’71)「アメリカの夜」(’73)

「アデルの恋の物語」(’75)「トリュフォーの思春期」(’76)などを
かろうじて観たくらい。

ジャン・ピエール・レオーの「成長記録」が撮られていたことにあらためて気付く。
インタビュアーが本人の知らない「事実」を指摘するあたりがスリリング。

さて。

今宵もクインビー。

親知らずで頬を腫らしたままマスターとあれこれ話す。
終わりがけに男子ふたり組が来るものの地味なまま終わる。

できれば見栄えのする女子にご来店いただきたい。
それは個人的な希望ではなくあくまで店のことを考えた上でのこと。

ランチはそこそこ何とかなっているものの
夜の営業が今ひとつなのは相変わらずなので。

またまた繰り返すが心ある者はここに集え。
もうちょいと飲んで寝る。
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「西洋による科学あるいは宗教」について

2015-06-18 02:38:31 | Weblog
『くもりのち晴れ。』と書いて昨日は寝る。

くもり。ちょいと雨も降った模様。

エイドリアン・ベジャン&J・ペター・ゼイン
「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則」を読む。

「生物・無生物の別なく動くものはすべて流動体である」という認識の下
「すべては流れをよくするために」という「コンストラクタル法則」があるのだと。

「自然界のデザイン」はすべてその法則に従っていて
例えばダーウィンの「進化論」も間違っているとのこと。

「万物は物理法則にしたがっている」というのが著者の考え。
「あらゆる運動は質量を移動させること」だというのは「運動方程式」そのもの。

「観察あるいは帰納」からでなく「理論あるいは演繹」からすべてがわかる。
その真偽のほどは判定しようがないもののある種のタイプの典型的な議論だとはわかる。

科学者たちが「専門分野」という「タコ壷」にはまり込んでいることを思い出すにはいい材料。
ただ個人的な直観としてはいささか「キナくさい」感じ。

もちろん「刺激的」であることは間違いないけれど
ちょいとその法則が通用する範囲を広げすぎているように思うので「専門家の意見」が聞きたい。

「有用な考え」ではあるが「すべてではない」。
なにより「世界を解釈するわれわれ」そのものが実に「非論理的な存在」だから。

ここには「世界を貫く法則がある」という「信念」があり
「神に代わるものがあること」を疑わないという「前提」がある。

「なぜ世界は『デタラメ』であってはいけないのか」。
とりあえず著者に聞いてみたいものではある。

実はそのことがわれわれにとって「耐えられないこと」だからだとすれば
その一点でこの「科学」は「宗教」に似たものであるのだと言っておきたい。

「モデル」は「現実を理解する助け」にはなるが決して「現実そのもの」ではない。
それぞれが「プリズム」となって「現実」を「反射」するしかないというのが「基本」だろう。

もっともそれが「素人のバカげた考え」であるならむしろ「幸い」。
繰り返すが「わかった」と思った瞬間から「世界は凍りつく」ものであることを忘れずに。
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「どうしようもないこと」について2

2015-06-16 03:01:06 | Weblog
『晴れ。暑い。

鈴木大介「最貧困女子」を読む。

「貧乏」は「少ない収入でも周囲との関係で楽しく暮らせる」こと。
「貧困」は「少ない収入で楽しく暮らせる関係を断たれる」こと。

とりあえずそう「定義」するとわかりやすいのか。
著者のさらに具体的な「定義」は以下の通り。

「三つの無縁=家族・地域・制度」と「三つの障害=精神・発達・知的」を
「同時に抱えている存在」が「最貧困女子」だと。

いまだにあるいは今だからこそこんな「現実」があるのかとあらためて思った次第。
なるほど街行く人々の表情が「死んでいる」背景はこれかと。

それぞれに「抱えきれないもの」があって。
ここまでひどくはなくとも似たようなことがおそらく「日常」なのだろう。

正直彼女たちを受け止められそうにない。
「聖人」と「医者」と「制度」の組み合わせでどうにかならないものかと思うのみ。』

と書いて昨日は寝る。

くもり。蒸し暑い。

永田浩三「NHKと政治権力」を読む。

副題に「番組改変事件当事者の証言」。
プロデューサー長井暁の記者会見はマル激で見た記憶がある。

「慰安婦問題」を扱った番組が自民党の政治家の「圧力」によって改変させられたという話。
その政治家の中には現首相の名前も。

なるほど「大きな組織」の中にいるとこうなるのかという内容。
今どき「ジャーナリスト」をするなら苦しくとも「フリー」が望ましい実態がここに。

法律によって予算を握られている「弱味」は
結局「スポンサーに対する弱味」であることはどのTV局でも同じこと。

ただし予算の原資を作っているのは国民なのだから
政権与党がそれをどうにかできる「システム」がおかしいのも事実。

「三権分立」と言いながら内閣が最高裁長官を決める「インチキ」に目をつぶるようなもの。
「仲間内の人間」を据えることが「当然」になる所以でもある。

それにしてもある種の「脅し」がまかり通る「世界」よ。
ちょっと前の選挙でTVに対して自民党はそれを堂々と行ったりしていたけれど。

さて。

繰り返すが「敵ながらあっぱれ」と思える関係は築けないものだろうか。
少なくともわれわれの「代表」はそうではない。

「話せばわかるか」という言葉は
徹底的に話した後でつぶやくくらいが「倫理」。

わが国において「生産的な議論」が行われる日が来るだろうかと思うと
残念ながら難しいと言わざるをえず。

「目クソ鼻クソを笑う」事態はいつまで続く「ぬかるみ」ぞ。
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