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退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「見たことのない世界あるいは存在を求めること」について

2016-03-31 02:26:53 | Weblog
晴れ。昼間にコートだと暑い。

ジョン・D・バロウ「美しい科学Ⅰ コズミック・イメージ」を読む。

今回は途中でちょいと眠ってしまったりしながら読んだので残念。
「宇宙」を突き詰めると「世界の不思議」が実感できるのを再確認したものの。

いわゆる「星の画像」は「焦点の当て方」で違って見える。
「われわれが見ているつもりの世界」は「ひとつではないこと」がわかる次第。

「顕微鏡」や「人体解剖」によっても「異なる世界」が見えて。
見られるものならあらゆる種類の「世界」を見たいものではある。

この点についてだけは「貪欲」な模様。
あとはかなり「淡泊」なのだけれど。

「怒り新党」で夏目三久が辞める回を観る。

途中からだったのでほほーという感じ。
有吉とマツコに「揉まれる」という経験は大きかっただろう。

それとは別に。

今回の「3大」は普段に比べると格段に内容が落ちていてガッカリ。
「アート」というものに対してスタッフの理解が相当に乏しいのではないか。

どうせ紹介するなら本当に「感激できるもの」を。
「ひたすら時間をかけること」が自動的に「美」を生み出すわけではない「当然」よ。

もっとも「芸術新潮」という雑誌の「あやしさ」を浮き彫りにしたいのだったら納得。
一度も買ったことのない雑誌だが今回のセレクトを見るとその「レベル」はわかる。

「科学」に「センス・オブ・ワンダー」が必要なように
「アート」には「圧倒的な力」がなければ。

「美人」にだけでなく「美しさ」にはうるさいのでよろしく。
この点においてもある時期以降「レベルの低下」があちこちで見られるようで。

などという「能書き」は実はどうでもよく
単純に「驚き」を求めているだけだったり。

「ありふれた『可愛さ』」より「衝撃的な『美しさ』」を。
その種の「刺激中毒」なのだと言っておく。
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「目の保養あるいはそろそろ潮時であること」について

2016-03-30 02:49:16 | Weblog
晴れ。おだやか。

似内(にたない)惠子「和のビーズと鑑賞知識」を見て読む。

英語の解説付きなので海外へアピールする意味もある模様。
たまには「目の保養」もということで借りてきた次第。

副題は「ビーズバッグの意匠、製作技術、由来から着物の取り合わせまで」。
京都古布保存会」のHPを載せておく。

個人的に「これは凄い」と思ったバッグの数は二桁くらい。
色の鮮やかさと落ち着きやデザインのセンスなどを楽しむ。

ビーズバッグを作り続けている「平田袋物工芸」もついでに。
この種のお洒落はきちんと受け継いでいかないと。

心ある女子たちにお願いしておく。
もっとも性別に関係なくて構わないのは言うまでもなく。

中野剛志「世界を戦争に導くグローバリズム」を読む。

昔懐かしいE・H・カーの分析は現代でも有効なようで。
「現実主義」と「理想主義」というのが二つの大きな枠組みらしい。

もっとも「帯に短し襷に長し」でそれぞれに一長一短があり。
どちらにも偏らない見方を教えてくれるのがうれしい内容。

「権力の空白」はむしろ「混沌を生み出す」という複雑さをあらためて知る。
わが国のアメリカへの軍事力依存がパワー・ポリティクスに対する無理解の原因だとも。

彼らの戦略が「中国との共存」にある以上
「日米安保」を軸に中国を牽制するというやり方にあまり効果がないのは自明。

一方でアメリカはわが国が独自の「戦力」を持つことを押さえようとしていたりもして。
その種の「複雑さ」にわれわれが対処できるのかというとこれまた微妙で。

がしかし。

「難問」だからこそ「やりがい」が生まれる事実もあるのだから
そろそろ本格的にわが国の「ザ・ベスト&ブライテスト」が出動してもいい頃。

どうにも貧しいばかりの既成政党を蹴散らす勢いで
新たな「戦略」を国民に示すのはいかが。

とりあえず諸外国の言語や文化に通じ
「確かな情報と判断」を手に入れられる「人材」を集め育てて。

「わが国の存亡の危機」は案外身近にあったりするので
ヤクザな「国際社会」を生き延びる手立てを本気で考えたいもの。

繰り返すがスポーツの世界では世界に「伍する」実力はあるのだから
あとは「人的資源」をどう政治に配分するかだけだろう。
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「『カッコよさ』の意味」について

2016-03-29 03:00:18 | Weblog
晴れ。あたたか。

昨日はマル激を2週分観たせいか寝てしまう。

月尾嘉男による「消えてなくなる国家の条件」にふむふむ。
飯田哲也の「再エネ話」はいつも複雑でTVでの紹介には向かないのが玉にキズ。

それにしても。

カーリングの世界選手権で銀メダル獲得のニュースなど。
スポーツで世界と戦える力の一部でも政治に注げないものか。

圧倒的な「センスのなさ」が支配して久しい分野を
そろそろどうにかしないとヤバいはずなのだけれど。

斎藤環「ヤンキー化する日本」を読む。

なるほど「非知性主義の大本」はここにあったのかという印象。
ヤンキーを生み出し続ける「システム」が「学校」であることも忘れずに。

彼ら彼女らは「言語の意味」がキライ。
「理屈を避ける」その態度も言語でしか表せない事実には鈍感な模様。

「やってみなければわからない」のはいいとして
その一点突破を図るより多少なりとも「戦略」を参考にするのが「基本」だろう。

小林美希「ルポ 産ませない社会」を読む。

「利潤追求」と「苛酷な労働環境」が「妊娠」を「おめでた」でなくす現実よ。
そこには産婦人科の「医療崩壊」も手伝っているらしい。

子育てを一方的に押し付けられる「母親の孤立」についてもっと敏感でありたいもの。
「夫婦で子育てをすること」を不可能にする「企業」のどうしようもなさもあり。

何度でも繰り返すが「昭和幻想」を本気で「幻想」だとわからないとダメ。
「スーパーウーマン」でなく「ごく普通の女性」が安心して子育てしつつ働けないと。

それぞれに「価値観」はあっていいのだとして
「好きに暮らせる自由」がないのは何とも息苦しいのみ。

あれこれあるものの結局は「われわれの質」が劣化していることが問題かも。
せめて子どもたちには「上を向いて歩こう」と言いたいところ。

もっともそれを「普通のこと」にするためには
いたずらに年齢を重ねた「子どもたち」がもっとしっかりしないといけないのだが。

いわば「恥じない背中」を見せること。
「カッコよさ」というものはおそらくそこでこそ生きるはず。
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「失われた『正義』とかすかな『接触』」について

2016-03-27 01:56:46 | Weblog
晴れ。おだやか。

小林よしのり「保守も知らない靖国神社」を読む。

先の戦争の後で失われた「正義」について。
左右の主義に関係なく「事実」を知れと。

「時代の空気」によって左右が別れるということ。
「中庸」を指摘する著者のスタンスは見事。

気を付けたいのは「当然」を指摘し続けてそれが受け入れられないと
「過激」になりがちなこと。

「意味」をきちんとたどる作業をしている著者には感服。
とりあえず「まともな人」であることは確か。

もっともそれは主張をそのまま受け入れることではなく。
そのあたりの「バランス感覚」が重要だと言っておく。

今宵はやや遅れて老舗バーへ。

マスターに借りたDVD5本を返して。
いつもより遅い時間に行ったので「満喫」するまでには至らず。

またまたまた映画の話になり。

「あなたの年齢でどうしてそんな映画を知ってるの」と聞かれ
「学生時代の蓄積です」と答える。

当時あった映画館の名前など確認しつつ。
地元では故若松孝二が始めた「シネマ・スコーレ」を忘れずに。

繰り返すが「ゆきゆきて、神軍」(’87)の上映会のあとの飲み会で一度だけ実物を見たことがあり。
「みんな遊んでるな」と彼が言った記憶がある。

確か河合塾の有名講師牧野がいて
取り巻きの若い女子が「牧ちゃん」などと甘えていたような。

ただ彼の昔の作品はほぼ観たことがない不勉強で。
「われに撃つ用意あり」(’90)のしたたかさにふむふむと思ったくらい。

あとは大島渚「愛のコリーダ」(’76)で藤竜也をキャスティングできた時に
「若ちゃん、勝ったよ」と監督に言わしめたというエピソードを覚えているのみ。

いやはや。

世界はいつも広すぎる。
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「微妙なものふたつ」について

2016-03-26 03:05:29 | Weblog
晴れ。昼からやや冷えて夜まで。

木下長宏訳・解説「岡倉覺三著 新訳 茶の本」を読む。

ふーむ、こんなかたちで「茶の本」を読むことになるとは。
何やら不思議な気分。

読んでみた感想は微妙。
内容がそんなに魅力的には思えず。

洋の東西のあれこれに通じていたらしいことはわかるものの
ちょいとハイブローすぎるような。

詳細は関係各位におまかせすることにする。

ジョージ・シドニー「錨を上げて」(’45)をまたまた久方ぶりに再見。

ジーン・ケリー、フランク・シナトラにキャサリン・グレイソン。
4日間の休暇をもらった水兵ふたりの恋の行方はというお話。

「トムとジェリー」との共演や後半の「ロミオとジュリエット」のシーンなど。
観るべきところはあるものの全体としてはいかにも長すぎる印象。

ホセ・イタルビはキャラクターも演奏もいい感じだけれどいささか露出が多すぎる。
若き日のシナトラはまだ「澱」も薄く内気な青年。

キャサリン・グレイソンの歌にはさほど魅力なし。
当時はこの高い声が好まれたのだろうかと思うのみ。

ジーン・ケリーの踊りはやはりアクロバティックで。
全体に微妙というかスッキリとしない思いが残る憾みあり。

パメラ・ブリットン演じる「ブルックリン娘」のキュートさはむしろ「救い」。
一番の問題は姿も見えぬ「ローラ」だったり。

アメリカ海軍伝統の曲「錨を上げて」を挙げておく。
作曲はチャールズ・A・ジンマーマン。
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「あいまいさと優雅さと洗脳」について

2016-03-25 02:17:23 | Weblog
晴れ。風強く夜に冷える。

串田嘉男「地震予報」を読む。

3・11はハズしたがそれ以外にはピンポイントで当ててもいるというのだけれど。
残念ながら予報の詳細はよくわからなかった。

ノンフィクション関係の人が取材して伝えてくれればと思う。
何より記録を取って分析する作業が大変そうだから。

とりあえずもっと誰にでもわかるかたちで予報の仕方を伝えてくれないと。
「白黒つける」前に検証が望まれるところ。

「イースター・パレード」(’48)をこれまた久方ぶりに再見。

フレッド・アステアのステップは人を幸福にする。
アン・ミラーのタップとスピンよ。

ジュディ・ガーランドの「田舎少女ぶり」はまるで少女マンガのよう。
身振り手振りでサラダを説明するジュールス・マンシンの見事さ。

ピーター・ローフォードは雨の中野菜売りから大きな傘を買う粋。
バーテンダー、クリントン・サンドバーグの風貌はいかにも。

ナタリー・カルマスによるテクニカラーの色彩の優雅な美しさもお忘れなく。
そのやわらかさは今失われて久しいもののはず。

stepping' out with baby」「in your easter bonnet」などアーヴィング・バーリンの名曲も。
あとはyoutubeで自由に検索を。

すべてはプロデューサーであるアーサー・フリードが手がけた「マジック」。
「MGMミュージカル」という「ジャンル」があったことは知っておきたいもの。

それとは別に。

わが国ではハロウィーンに続きイースターに騒ごうという計画がある模様。
幼い頃からディズニーに「洗脳」された影響がついにここまできたかという印象。

どうせ「文化的に占領される」のならば
きちんと「本物の味わい」を知った上でそうしていただきたい。
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「人をヤケにする『現実』がわが国に満ちていること」について

2016-03-24 02:30:19 | Weblog
晴れ。夜にやや風が吹く。

小酒部さやか「マタハラ問題」を読む。

それにしても「マタハラ」がこれほどヒドいとは知らなかった。
「未来」であるはずの「子ども」を授かる「妊娠」がこんなに忌避されているとは。

「オヤジ」や「オバサン」の「昭和幻想」の強さよ。
「他人を認めないこと」がその基本にはあるようで。

自分がどういう主義であろうと構いはしないけれど
どうしてそれを「無意識に」他人に押し付けて平気なのだろう。

この「鈍感さ」はむしろ「罪」だと言っていい。
とりわけ「粘土層」と呼ばれる「オヤジたち」のどうしようもなさよ。

せめて「聞く耳」を持っていればと思うものの無理筋らしく。
いったいどれだけ「自分勝手」に生きてきたのか。

わが国における「さまざまなコミュニケーション」は相変わらず貧しいので
「意見が異なる者の間での作法」をどうにか「共通土台」にしたいもの。

その一方。

いたずらな「長時間労働」で「仕事」しかできない男たちには
人生の大半を「失っている」という自覚を促したいところ。

「一定の時間内」で仕事をこなせないのはむしろ「怠慢」。
もちろんすべてをひとりでこなす必要などあるわけもなく。

そうした企業しかないのだとしたら
いっそ自分たちで起業すればいいだけのこと。

あるいは著者を代表とする女性たちのように「戦うこと」。
「生活の質=クオリティー・オブ・ライフ」というのは「死期の迫った患者」だけのものではなかろう。

もっぱら「経済的理由」から「女性たちが活躍する社会」とやらが謳われているけれど
「現状追認」でないかたちで「ゼロ」から「最低限の生活」を考え直すべきかも。

要は「給料の多寡」に関係なくそれなりに「楽しく暮らせること」。
少なくとも「子育てのために本当に役立つインフラや制度」がなければ子どもは増えない。

この程度の「当然」が理解できない「現実」の圧倒的な貧しさを噛みしめて。
それでも「上を向いて」歩けないと人は簡単に「テロリスト」になってしまう。

「熟年離婚」など「かわいいもの」だという「事実」を知ろう。
「マタハラ」に限らずわが国にはこうした事態が少なくない。
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「ふたつの側面」について

2016-03-23 02:06:40 | Weblog
晴れ。風なく夜になってもおだやか。

窪田かおる編「海のプロフェッショナル② 楽しい海の世界への扉」を読む。

先日読んだのがどうやら①だったのを忘れていた次第。
ただ内容としてはそちらの方が興味深かったかも。

②は残念ながらそれぞれの文章にやや魅力が欠けていて
仕事の紹介ぶりはいささか新鮮味を失ったかも。

三重県相差(おおさつ)町の海女さんへのインタビューも
量の割りにぎこちなさが目立ってもったいない出来栄え。

聞き手によってはもっと面白くなったはずで
このあたりに「リケジョ」のコミュニケーション能力の一端を垣間見たような。

それでも女子学生にとって好ましい「紹介本」であることは確か。
興味のある向きは是非。

エルンスト・ルビッチ「ニノチカ」(’39)を久方ぶりに再見する。

シグ・ルーマン、フェリックス・ブレサート、アレクサンダー・グラナッハの
「共産主義ギャグ」によるイントロダクションからニコニコ。

「ガチガチの共産主義者」ガルボと「色男の伯爵」メルヴィン・ダグラスの出会いも同様。
これが「中央分離帯」でのことであるのに注目。

「初代ドラキュラ」ベラ・ルゴシの威厳はいかにも。
ホテルのマネージャーや執事の雰囲気もよろしい。

「THIS PICTURE TAKES PLACE IN PARIS IN THOSE WONDERFUL DAYS
WHEN A SIREN WAS A BRUNETTE AND NOT AN ALARM・・・

AND IF A FRENCHMAN TURNED OUT THE LIGHT IT WAS NOT ON ACCOUNT OF AN AIR RAID!」
と冒頭に流れる有名な台詞も素敵。

「この映画の撮影はサイレン(ギリシャ神話のセイレーン)がブルネット(黒髪)であって警報ではなく
フランスの男性が明かりを消したらそれが空襲のためではなかった素敵な時代のパリで行われている」。

ちなみに1939年はドイツがポーランドに侵攻した年で
ガルボが電車から降りてくるシーンでは「ハイル、ヒットラー」と言う男性も登場する。

メルヴィン・ダグラスからの恋文が検閲で「墨塗り」されているのにガッカリするガルボに
「思い出は検閲できないよ」と言うフェリックス・ブレサートよ。

「イデオロギー対決の不毛さ」とそれに起因する「戦争の嫌さ」があるのを忘れずに。
ある意味「立派な反戦映画」でもあることを野暮を承知で言っておくことにする。
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「自分の身体と怪優の不思議あるいは戦争」について

2016-03-22 03:00:16 | Weblog
快晴。まだ夜は冷える。

仕事場に出かける時にはかなり痛かった右足が
仕事帰りにはほぼ平気になっていたのが不思議。

少し足をひきずるくらいの痛みだったのに。
もちろん原因は昨夜の「深夜の散歩」なのだけれど。

痛みをこらえつつ行きに歩いたのがよかったのかも。
自分の身体ではあっても詳細は不明。

佐野眞一「怪優伝 三國連太郎・死ぬまで演じつづけること」を読む。

3年前に亡くなった俳優と出演作を見ながらのインタビュー。

「本日休診」(’52)「ビルマの竪琴」(’56)「異母兄弟」(’57)「夜の鼓」(’58)
「飢餓海峡」(’65)「にっぽん泥棒物語」(’65)「襤褸の旗」(’74)

「復讐するは我にあり」(’79)「利休」(’89)「息子」(’91)の十本。
残念ながら観たことがあるのは「本日休診」「復讐するは我にあり」「飢餓海峡」のみ。

徴兵を逃れようとしたものの被差別に暮らす母に「密告」されたこと。
大陸からの引き揚げが早まるよう偽装結婚したことなど。

戦時下を生き延びるための凄まじさは現代からは計り知れない。
俳優としての尋常でない努力や女性関係の複雑さも相俟って。

「『芸能と差別』の深層―三国連太郎・沖浦和光対談」その他の本も気になるところ。
この「正体のつかめなさ」にはちょいと惹かれるものがある。

それにしてもこうした「濃いキャラクター」がいなくなって久しいのは「時代」のせいか。
何事かを「引き受ける体力」を失っているのだろう。

「どうでもいい自分」を臆面もなく主張できるのは「平和」であるからだとして
その「のどかさ」にいくぶん物足りなさを感じるのはやはり「戦争」を知らないせいだと納得する。
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「しばしの高揚と束の間の反省」について

2016-03-21 03:55:40 | Weblog
晴れ。風強し。

昨夜は研修で老舗バーはお休み。

その代わりというわけではないが今宵は仕事場の飲み会。

あまりのグダグダぶりにうんざりしつつマイペースで飲む。
予定通りいつもより口を出してそこそこ楽しむ。

彼氏もいないのに「恋愛相談」したい女子をいなしつつ
海外に留学中の女子と電話で久方ぶりに話す。

前者には「とりあえず相手を作れ」と言い後者には「帰国したら飲もう」と言う。
別の女子が「ドロドロの恋愛沙汰」をしていた過去も聞き。

みんなと別れて電車に乗ったところまではよかったのだが。

終電で寝過ごしてしまい見知らぬ駅で降りる。
見当をつけて歩いたところ1時間ばかり無駄足。

どうやら南北と東西を間違えた模様。
仕方なく「深夜の散歩」をして今頃帰宅。

早足で1時間半くらい。
後半右足が痛んで歩きにくくなる始末。

自分の方向感覚を過信したのがマズかったか。
後から思えば看板に「正しいヒント」はあったのに。

またまた「身銭を切る」ことになる。
他人にどうこう言える身分ではないということ。

もっともそのことは飲み会の場でも言ったのだけれど。
「どうしようもない自分」であることを再確認する。

すっかり酔いも醒めたのでちょいと飲み直して寝ることに。
相変わらず「年甲斐もないオヤジ」ではある。
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