退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「貫くこと」について

2011-02-26 04:18:03 | Weblog
くもりのち晴れ。やや風が吹く。

「田中清玄自伝」を途中まで読む。

「自分を貫くこと」をどうやら徹底的にした人らしい。
わが国ではなぜかそういう人の評判が必ずしもよろしくないのが残念だけれど。

軸は本当に単純で「他人のために何かすること」だったりする。
興味深いのは夫人でもあって、彼女は逮捕されようとするときに迷いなく拳銃を撃っている。

果たして現代にそこまでの「覚悟」がある者がいるかどうか。
もちろんいたずらに「覚悟」を決めることはよろしくないとして。

ただ素晴らしいのは「心意気」というものが
国籍など関係なく「伝わるもの」であるということ。

すがすがしいのはきちんと「自分の間違い」を認めることでもあり
要は「本気で何かをしようと思うこと」だったりする。

「共産主義者になってしまった息子」に「自刃」という形で「諌める」母がいて
その母との縁を切った上で自らの意思で行動した息子がいる。

この「高級さ」は誰にでも出来ることではないものの
なんとも好ましい。

最近どうやら「函館グループ」に惹かれている模様。
なぜならそこには「『世界』との接触」があるから。

とりあえず確認できるのは
「観念」に頼ると人は「人でなし」になるということで。

「正解」を求める気持ちと
「観念」に頼りたがるのはいずれもよろしくない。

「ギリギリの状態」で人はその「本当の姿」を見せるのだということも覚えておこう。

さて。

あなたが困っているときに
ヤクザなわたしはほんの少しだけでも力添えできる存在でいたい。
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「自然」を受け入れることが「不自然」な魅力を生むということ

2011-02-25 04:11:38 | Weblog
くもりときどき雨。傘は持たずにすむ。

安藤鶴夫「寄席紳士録」を読む。

実在の落語家たちその他一名を素材に
ある種の「楽園」を描いた作品。

「楽園」というのはどんなルールにせよ
それが何の文句もないままに「容認」される「世界」。

人は他人を窺いながら「自分」を確認するのがよくあること。
ただしこの「世界」では「個人」が「好きにふるまう」。

昔の江戸弁とそれぞれのキャラクターが実に好ましいのは
たぶん「『芸』を手にした者の潔さ」にあると思われて。

それはおそらく「芸」を操る者が見てしまう「悪」というものの「報償」に
人々が「仕方のないもの」としてそのことを認めていたからだろう。

たとえば現代で男女を問わず
「あの人もこの人も好きなの」とか「とにかくしたいの」という「欲望」は認められがたいもの。

「認める人がいるからこそ」という「事実」は
「王様」が「庶民」に認められるからこそ「王様」でいられる「『裸』の原理」のまま。

「仕方ない」という割り切りは「現実」をそのまま受け止めることだったりして。
そうした「腹をくくる」ことができれば、今ある貧しい「現実」も姿を変えるとして。

「現実」を支えるのが「人々の容認」だとするなら
その「人々の在り方」こそが「倫理」にもなる。

杓子定規に「違う」と言ってしまうのが
果たして「正しいこと」なのかどうか。

唐突だけれどジョン・フォード「三人の名付け親」(’48)の世界に似ていなくもない。
人は冷たくも暖かくもなれるもの。

戦中から「アメリカ」がわが国に受容されたのはおそらくかくの如き「理由」か。
自分にないものは受け入れられないものだという「真実」に鑑みて。

「人為的な『まっつぐ』」は
不自然だからこそ「感動」を与えるのだ。
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決して消えない「呪術」について

2011-02-24 02:20:35 | Weblog
薄雲のかかった晴れ。帰りにちょいと降られる。

松尾貴史「なぜ宇宙人は地球に来ない?」を読む。

「TVタックル」の特番などでおなじみの著者による「超常現象入門」。
「人は自分に好ましい『現実』を受け入れる」ということがあらためてわかる内容。

他人から見た時にほぼ「意味不明」なほど「信じられる」のは
その「信じる気持ち」によって「世界」を「思うまま」にしようということだろう。

「情報化社会」や「先端科学技術」の「現代」においても
人は「呪術」を好むもの。

要は「未知のもの」に対する「処理の仕方」で
「自分に納得しやすいもの」に「正解」を求めて「身をゆだねる」のがラクらしい。

たとえば「パニックに陥ること」によって
「現実を受け入れずにすむ」という「大義名分」を手に入れてラクになるのと同様。

ただ著者がここまでこだわるのには当然「理由」があり
かつてそうしたものを信じていた「自分のダメさ」を「他人」に見てしまうから。

元左翼が考え方を変えてもっぱら左翼を否定する側に回ったりするのもそういうこと。
「かつての『恥ずかしい自分』」は誰も振り返りたくないものではある。

多かれ少なかれ誰もがそうしたことをしていることだけはおそらく「平等」。
「お互い様」くらいで適当に笑い合えれるくらいがいいのだけれど。

人はそこまで「冷静」になれない存在だとしたら
せめてそういう「癖」があることだけは知っておくのが得策か。

「自分の過去」で相手を縛るのは
わが子を「思い通り」にしようとする「母」に似て虚しい。
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「波」を「波」として受け止めるということ

2011-02-23 02:54:46 | Weblog
晴れ。吹く風が少しやわらかい。

ジョン・W・ダワー「昭和」読了。

著者の書いた「吉田茂とその時代」は未読だけれど
「複雑な人間」を「複雑なままに」描き評価する姿勢は好ましい。

おそらく大方の読者にとっては「あいまいさ」よりむしろ
もっと単純な「物語」の方がが好ましいのだろう。

ただしよくよく自分のことを観察してみればわかるように
ひとりの人間の中にはいろんなものが存在している。

「純粋無垢」なところもあれば
自分のことだけを考える「腹黒い」ところもある。

それらの「資質」がそれぞれどのような場面で発揮されるのかは不明で
あまり近くにいない「他人」はその一面だけを見やすい。

もっとも仮に近くにいたとしても
そもそも「他人」はわかりにくいもの。

個人的には独身を続けているので「実感」はないとはいえ
「結婚生活」を続けている人にしてみればうなずけるところが少なくないのではないか。

「家族という『他人』」という視点も当然あり
突き詰めてしまえば結局は「ひとり」。

そのことを身にしみて知ると
たまに「共感」できることの「うれしさ」は増すはずで。

「不幸」があるから「幸福」もあるのが「普通」。
いたずらに「不幸」を恐れていると「幸福」も味わえないのだろう。

その「振幅」の度合いはあれこれあっても
人は常に揺れ続ける。
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「戦争映画」について

2011-02-22 02:57:28 | Weblog
晴れ。小春日和。

ジョン・W・ダワー「昭和」を読み始める。

著者にはクリント・イーストウッドがもらった以上の勲章を与えるべきだと思う。
いやむしろもっと前に与えなければならなかったはず。

もちろん勲章そのものに大した価値などない。
日米を繋ぐ「架け橋」としての「功績」をもっと認めないと。

戦争中の日本の戦争映画は
「戦争そのものを敵としている」部分があるという指摘になるほど。

惜しむらくはそうした作品が身近になっていないので
ここで採り上げられている作品を挙げておこう。

田坂具隆「五人の斥候兵」(’38)亀井文夫「戦う兵隊」(’39)伏水修「支那の夜」(’40)
吉村公三郎(なぜか「健三郎」と間違って表記されている)「吉住戦車長伝」(’40)。

今井正「望楼の決死隊」(’43)溝口健二「元禄忠臣蔵」(’42)
木下恵介「陸軍」(’44)黒澤明「一番美しく」(’44)。

「形のない非人格的な敵」が描かれているというのも興味深く
「英米的価値」を「真の脅威」と見なしているというのもなかなか。

「チョコレートと兵隊」(’38)「愛機南へ飛ぶ」(’43)
「ハワイ・マレー沖海戦」(’42)「阿片戦争」(’45)「神風は吹く」(’44)「熱砂の誓い」(’41)なども。

こうした作品が現代のわれわれの手の届くところに当たり前にあることが
おそらくは「歴史」を振り返ることで。

これらの作品のうち何本かは簡単に観られるので
興味のある向きは(ほとんどないだろうけど)是非。
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「シンプルさ」について

2011-02-21 02:29:42 | Weblog
晴れ。寒さはなく。

今日は久方ぶりに本を読まずに過ごす。
家の前の喫茶店で週刊誌とマンガ雑誌のみ。

図書館から借りた本があと一冊残っているのと
ややめんどくさい気分になって図書館へは行かずじまいに。

昨夜はサンドイッチを食べたのみで飲んだので
タクシーでちょいと眠って帰宅後もフウフウ。

ソウルバーで注文したものを初めて食べ残してしまい
マスターにはそれだけではなく申し訳ない限り。

以前一緒にバーベキューに行ったお客さんもいたのだけれど
もうお話する余裕もないほどですまん。

TVで「アイアンマン」(’08)を途中寝ながら観る。

いかにもお気楽なロバート・ダウニー・Jrに
「秘書」が似合うグウィネス・パルトロウ。

ジェフ・ブリッジスの「悪役」は
頭を剃った割りに「アク」がないのでミスキャスト。

「スパイダーマン」の「亜流」のようで
昔のコミックの「ヒット作」にCGを乗せてやってみたものの。

ドラッグであれこれあった主演俳優には
それでも「十分な魅力」があって。

「アイアインマン」の「初期モデル」はほぼ「鉄人28号」のよう。
そこで敢えて「手作り感」を出したということにしておこう。

「アフガンのゲリラ」が「世界征服」を狙うという設定には無理がありすぎる。
シナリオライターが切羽詰まって「悪役探し」をするとこうなるのか。

さて。

「単純な悪」より「単純な善」が求められているような気がしないでもない。
「身近な人」を大切に。
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自分以外のものに「自分」を見出さないことについて

2011-02-20 02:14:46 | Weblog
晴れ。おだやか。

酒井啓子「<中東>の考え方」を読む。

大国の思惑に翻弄された「歴史」が
大国を利用していかに生き延びるかという「立場」を「自然」なものとして。

「民主主義が行き渡るとイスラム主義が優勢になる」という「事実」があるらしい。
ちなみに「イスラム原理主義」などというものは単なる「レッテル」だったり。

<中東>の人々が何を思っているのかということを軸にしてみると
案外事態はわかりやすくなるはずで。

ソウルバーに行く。

昔の女友達に会う。
どうやら彼女は「母」として肩肘張ってきた模様。

子どもから離れて
自分の「楽しさ」を追いかけた方がいいと助言する。

「子育て」を「きちんとすること」で
「回りから評価されたい自分」がいたという彼女。

子どもは「別人格」なのだから
「思い通り」にはならないのが「普通」。

どういう境遇にいるにせよ
まずは「自分が楽しく生きること」。

それがあってこそ
他人にやさしくなれたりもするわけで。

その「基本」はどこにいても変わらない。
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before it's too late=手遅れになる前に

2011-02-19 02:34:53 | Weblog
晴れ。風強し。

堤未果「アメリカから<自由>が消える」を読む。

9・11で初めて「本土攻撃」を受けたアメリカは
「テロとの戦い」という形で「終わらない戦争状態」を今なお継続中。

効果のほども確認しないままの「異常な警備体制」はやがて
テロとは何の関係もない一般市民の拘束を「日常」として。

「恐怖」を盾に「言論の自由」は脅かされ
テロリストと偶然同じ名前であった赤ん坊まで飛行機に乗れなくなる「喜劇」も。

もちろん「バカバカしいこと」と言うのは簡単だけれど
「反政府的な発言」が「職を奪われる」ことにつながる事実があり。

「人権大国」としての威信に傷をつけまいと
被疑者への言われなき「拷問」が「外注」されることも「当然」に。

グアンタナモを批判していたはずのオバマは大統領就任後にその姿勢を一転させ
厳しくなる一方の「警戒」はいたずらに警備会社を太らせ。

この状態はほぼ「ナチス支配下のドイツ」と言っていい。
独立系メディアによって「健全さ」がどうにか保たれているのはまだマシとはいえ。

さて。

翻ってわが国では
アメリカ同様マスコミは「どうでもいいこと」しか報道しない。

ただし「政府」が「機能していないこと」が
「ある種の一方的な権力行使」を現実化させていないのは皮肉な「救い」。

もっとも検察関係においては
三井環・鈴木宗男・佐藤優などといった人々が「犠牲」にされて。

「自分の権益」しか頭にないような「バカ者」をのさばらせてはいけない。
そのためには「現状」を出来るだけ「正確に把握」して言うべきことを言わなくてはならない。
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「切断」が生む「物語」の「真実」について

2011-02-18 03:15:04 | Weblog
くもりのち雨。深夜まで降る。

フィリップ・フォレスト「荒木経惟 つひのはてに」を読む。

1940年(昭和十五年)東京は三ノ輪生まれの写真家について語りつつ
「私小説」や「イマージュ」についてのあれこれもある作品。

いわゆる「知的な」分析はあくまで背景に置いて
叙情的に「流れる」形式で「フィクション=虚構」によって「真実」を描くスタイル。

読者はおそらく「土佐衛門=溺死体」となって
一筋の道ではあるものの多様な輝きを持つものを感知することになるだろう。

「ネオレアリズモ」としてはロッセリーニ、
「ポップカルチャー」としてはウォーホルとか。

前者は「さっちん」で後者は「ペッチャンコーラ」。
ひとりの写真家の「歴史」が「時代」と重なりながら。

「静物=死」と「エロス=生」との過剰な交錯。
こういう徹底的な二項対立を経験した後でこそ世界は「曼荼羅」にもなる。

ある種の人の一生は他人に何かを感じさせるということ。
著者の「母国語」で言えば「セラヴィ」と言うしかないことに「共感」できるかどうか。

やはりそれぞれ人は「実験」するよりない。
というより「実験させられる」というべきなのか。

対象が人であろうと物であろうと
「愛すること」がすべてなのだ。

「かつて愛した」という「事実」を「確かさ」として振り返ると
そこに「物語」が生まれそれは時に人を打つ。

どうやらこの「形式」には「普遍性」があるのかもしれない、
ということにしておく。
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「甘さの深み」について

2011-02-17 02:46:42 | Weblog
晴れ。寒さは緩む。

エマニュエル・トッド「デモクラシー以後」読了。

経済学者のケインズといえば
ニューディール政策で大規模な公共事業を勧めたというのが一般的な「イメージ」。

ところがあにはからんや。
巻末の「国家的自給」においてすでに「自由貿易の危険」と「保護貿易の有効」を説いていたのだと。

これはいつものことではあるけれど
誰かの著作を「きちんと読むということ」がいかに少ないのかの好例。

とりわけ「歴史的存在」は
「イメージ」のみについて語られることが多いことに注意しよう。

ひとりの「全体像」を知るためには
当然のことながら「全著作」を読まなければならないのは「当然のこと」。

がしかし。

それがいかに行われていないかという「事実」を浮き彫りにしたのが本書なのかも。
もしくは「別な視点」をそこに発見することの重要さについても同様で。

もっと身近なところで考えてみれば
人は圧倒的に他人のことを知らない。

たとえそれが物理的な距離の近い存在であっても
彼あるいは彼女の思いからは程遠いのが「普通」。

とはいえ人と人とのお付き合いは
そういう「誤解」から始まることも確か。

出来れば互いの「エッセンス」を知りたいもの。
「ブツ」がバニラだとするとほんの少量で気付くはずなのだが。

「甘く危険な香り」は
山下達郎の曲の「タイトル」だけではないということを知ろう。
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