退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

有給休暇1

2016-09-30 02:46:25 | Weblog
くもり。夕方には半袖だと冷える。

近所のシネコンでクリント・イーストウッド「ハドソン川の奇跡」を観る。

「数字もしくはコンピューターによるシミュレーション」が出す結果に対して
ベテラン機長は少しだけ自らを疑いつつ「ヒューマン・ファクター」を主張する。

「何かが違う」と彼に思わせるのは42年の経験。
ショットで印象に残るのは夜に走るシーンで吐息の白の背後に彼の黒い影が映るところ。

「観客」には評価されながら「評論家」から長い間評価されなかった
監督自身の「歴史」も垣間見えたような。

トム・ハンクスは「悪夢」の中で自分の操縦する機がビルに衝突するのを見る。
「衰え」を実感しつつも「タイミング」に気付き「過去=歴史」を背景に持ち直す姿にふむふむ。

長く生きることの「意味」を教えてくれる作品。
観終わった後でジワっとくる味わいが好ましい。

マスターに借りたブルーレイで上方漫才を観る。

中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいし、横山やすし・西川きよし。
「夜の指定席」というおそらくは関西ローカルの80年代初期の番組。

ダイマルやいとしの「センスのよさ」がやすきよにはなくなっているのに気付く。
もっとも動きの面白さはダイマルからやすしに伝わっているのか。

いとこいの回のゲストには小松左京の姿が。
売れない頃に台本を書いたことがあった模様。

それぞれ漫才としてはかなり長い45分という時間に対処するのにやや苦心している。
ネタをいくつか組み合わせなければならないのでそれも当然ではあるけれど。

「さいな」「君とこの嫁はん」「正味な話が」など
おそらく今では使われないキーワードを挙げておこう。

現代の吉本芸人にない関西弁の魅力と落ち着きのある「笑い」を是非。
機知と間としゃべくりの混ぜこぜ具合は「手近な笑い」を求める現在にはないもの。

もっとも上方だけあって「笑いを求める貪欲さ」は変わらず。
関東系からすると「繰り返し」がやや過ぎると感じられるのは確か。
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「ジャンク=ゴミ」について

2016-09-29 02:16:29 | Weblog
くもりのち雨。まあ過ごしやすい方。

ネッサ・キャリー「ジャンクDNA ヒトゲノムの98%はガラクタなのか?」を読む。

ヒトゲノムを解読しても従来のモデルでは「ヒトの複雑さ」を説明できない事実。
その98%が「ジャンクDNA=タンパク質を暗号化していないDNA」という驚き。

宇宙に存在する「ダークマター=暗黒物質」に例えられる由縁がそこに。
それが実は遺伝子発現のネットワークを制御していたりするというのがポイント。

著者は間違いなく映画ファンでありその引用作品を知っているとふむふむ。
複雑な仕組みを単純なモデルや喩えで説明するのがうまいのもミソ。

もっとも素人にはいささか内容が濃すぎる趣きもあり。
2時間半弱のお付き合いではとても消化できず。

この種の作品を読むときに重要なのは「専門用語」にこだわらないこと。
「仕組み」や「論理の筋」さえわかればどうにかなる。

それにしてもこの人体の複雑ぶりよ。
そしてわずかな「コピーミス」がさまざまな遺伝的疾患をもたらす現実も忘れずに。

今のところジャンクDNAの詳細を知るにはまだまだらしいのだけれど。
数少ないデータをどう解釈するかもいろいろある模様。

そのことに関する興味深い小話を本書から。

カエルがどのように音を聞くかについて研究している博士課程の学生が。
「先生、カエルがどうやって音を聞いているかがわかりました!」。

「彼らは足で音を聞いているんです。なぜなら何もしないカエルは銃声を聞いて飛び上がりましたが
足を取ったカエルは飛び上がりませんでした」。

群盲象を撫でる」ということわざを思い出しつつ「灯台下暗し」の方が近いかもという内容。
データさえあればいいのではないという「エッセンス」がここに。

いたずらに白黒つけたがることへの「戒め」も同時に。
「断言」をその口調の力強さのみで評価することも。

さて。

「ヒラリー&トランプの『漫才』」はまだ続くがその結果や如何に。
「蓮舫&安倍のそれ」と比べてみるのも一興。
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「『主婦』をめぐるあれこれ」について

2016-09-28 02:57:31 | Weblog
晴れ。暑い。

妙木忍「女性同士の争いはなぜ起こるのか」を読む。

またまた途中で再読だと気付いた次第。
「気になるタイトルの傾向」が変化してないからかあるいはボケ始めたのか。

副題に「主婦論争の誕生と終焉」。
「主婦のあり方」に対する賛否から「結婚も子育ても『趣味』」に至るまで。

途中まで「夫」が全く登場しないのに注目しよう。
「『負け犬』論争」まで含まれているのもポイント。

「母性神話」「家族神話」「三歳まで母親が子育てすべき神話」など
実はあまり根拠のない「自然」をいまだに信じている人々が多いのは不思議。

「親はなくとも子は育つ」あるいは「親はあっても子は育つ」。
そしていつの世も「好ましい親」など少ないことを思えば。

「男並み」に働けば女性も「妻もしくは主夫」が欲しくなる「当然」など。
いずれにせよ「昭和幻想」とりわけ「高度成長期の幸運」を自明のスタイルにするのは疑問。

少数の高額所得男子と大多数の少額所得男子に分かれる現在からすれば
「専業主婦」が「セレブ」として位置づけられるのもわからなくはない。

必死に働き子育てもした「スーパーウーマン」の母親が必ずしも「幸せそう」でなく
「ああはなりたくない」という娘たちが「のんびり暮らしたい」と思うのも同様。

「下等遊民」である身としてはどんな人生をたどろうが「実験」であり
その過程あるいは結果をさまざまに報告すればいいと思うのみ。

ただし「他人を見ることで生まれる欲望」に引きずられる以上
「承認基準」は「他人から見たもの」になり。

そしていつものように「他者の否定」は簡単で。
「主婦」や「負け犬」という「集団」でなく「個人」として好きに生きられる環境を確保したいもの。

「自分のいいと思ったもの」を他人に無理矢理勧めるのは結局のところ「権力あるいは宗教」に似て。
「こんなのもあるんですけど」という「たたずまい」が好ましければ幸い。

もちろん「好き嫌い」に関しては大いに意見を戦わせるべし。
ただしそれが「生産的な議論」ならばという限定付きでよろしく。
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「運動嫌いとインタビューの貧しさ」について

2016-09-27 03:00:46 | Weblog
晴れ。蒸し暑い。

蓮實重彦「スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護」を読む。

わが国の人々が実は「運動嫌い」であり
「素晴らしいプレイ」より「物語」を好むことを教えてくれる内容。

例えば信じられない軌道を描いてゴールに突き刺さるロベルト・カルロスのフリー・キックより
何とも退屈なサッカーを続ける自国を応援して「感動をありがとう」などと言うのが好き。

以前に比べればずいぶん「世界」が身近になったので
いたずらに「ナショナリズム」を発揮する機会は減りつつあるのだろうか。

「サッカー」そのものが好きなのであれば
「ワールドカップ」より欧州あるいは南米での「チームにおけるプレイ」の方が素敵。

ドイツにこてんぱんにやられたブラジルがサッカーの質を変えるといったこともあったりするので
個々の選手たちの動きを見ている方が楽しいはずなのに。

マンガ「キャプテン翼」が世界各国で読まれているのは
作品が「メイド・イン・ジャパン」であるからではないことを知ろう。

そして本書出版当時とあまり変わっていないと思われるのが選手へのインタビュー。
いたずらに「気持ち」ばかり聞いて肝心なプレーに関しては何もなく。

このことに関してはスポーツの種類を問わず同じ。
それに対して何の疑問も抱かないインタビュアーたちの「レベルの低さ」よ。

自分がプレイヤーであろうとなかろうと
選手たちに何事かを感じさせる言葉を発せられなければ意味がない。

「アリバイ」を確かめるかのように「無味乾燥な答え」を要求するだけならしない方がマシ。
プロ野球における選手たちの「お立ち台」も同様。

「気持ちで打った」という抽象的な表現より
相手ピッチャーのボールとそれに対する反応の具体的な内容が欲しいところ。

ところで。

オリンピックで金メダルを取ったバドミントン高橋・松友のニュースを観て。
競技以外であれだけ引っ張り回されれば「本業」で力を発揮できない「当然」よ。

「プレイの素晴らしさ」は「世界共通」なのに
「オラが町のヒロイン」という「物語」に回収しようとするのはなぜか。

この「衰えを知らぬシステム」の不思議さについては本気で考えてみるべきだろう。
やはりわが国の大部分は「スポーツもしくは運動がキライ」なのだと思わざるをえない。
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「自由あるいは莫迦であること」について

2016-09-26 01:37:25 | Weblog
晴れ。日差しがまだ熱い。

昨日はいつもの老舗バー。

案外盛況でマスターとはあまり話せず。
「アメリカ俗語辞典」を読み切ってしまうほど(内容はほぼセックス&ドラッグ関係)。

DVDも借りずに終わる。
もっとも「消化」するためには「いいペース」。

上野千鶴子「みんな『おひとりさま』」を読む。

後半になってようやく「再読」だと気付く始末。
「非論理的な抗議」に「論理的に答える」姿はさすが。

「何かのせい」にする前に
「自分のケツは自分で拭く」基本を思い出したいもの。

マル激を観る。

Nコメの「豊洲問題」に関する内容にふむふむ。
「悪玉」も劣化しているらしい。

「築地」が「町」であり「文化」でもあることを知ると
そこを立ち退かせて「開発」しようなどという「浅墓さ」にはウンザリするのみ。

本編の「北朝鮮情勢」についても同様で
「希望的観測」が「客観的判断」にすり替わる「貧しさ」。

どのような「インチキ」であろうとそれなりの「筋」は必要なはずだが
もはやその種の「ルール」も共有されなくなった模様。

「莫迦」がひたすらやりたいことをやるだけらしい。
そして周囲もそれを容認するようで。

この「何でもあり」には哄笑で応えるべきか。
何事かをする上ではむしろ「チャンス」だと捉えるのが「生産的」かも。

さて。

「関ジャニ∞」の番組では復活したユニコーンが即興の曲作りなど。
力の抜けた感じがいい(作業は真剣)。

新曲「エコー」では冒頭にボブ・ディランの「風に吹かれて」をそのまま引用。
こういう「何でもあり」は楽しい。

要は「お前ら知ってんのか」と。
「『王道』も知らずにチマチマやってんじゃねぇよ」と。

おそらく当人たちはそのことを聞かれたら「あれ、そうだったっけ」とトボケるはず。
「昔聴いたメロディの記憶も薄れちゃって」などと。

こうした在り様が「批評」なのだとわからないと始まらず。
「莫迦」ってやーねぇ。
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「毎度のハズレと見かけたこと」について

2016-09-24 02:01:32 | Weblog
くもり。過ごしやすい気温。

本は読んだがハズレ。

珍しく途中で読むのをやめたのには理由がある。
映画は読むものではなく観るもの。

もっともそれを紹介するのが淀川長治だったらそれはまた別の話。
彼ほど「リアル」に映画を語れる人物はいないことは身に沁みてわかっているから。

ところで。

最近出くわしたふたつの出来事について。

ひとつ目はバスの運転手に絡む年配のヨッパライ。
最前席に座ってしばし自分をまともに相手にしない運転手に「独り言」。

バスが止まった時に運転手は「運転に集中しなきゃいけないから」と言ったが
それでも「お経」のように男は喋り続けて。

「せめて」という言葉が聞こえたことからすると「自分のダメさ」にはどうやら自覚あり。
バスを降りる際にはきちんと礼を言った。

ふたつ目はこれまた年配の背の小さい男と若い女の争い。
地下鉄の改札を出たあたりで微妙な距離にいるので不思議に思っていたところ。

地上に出るエレベーターに乗り込んだ後でその理由が明らかに。
「さっき私の手を傘で強く刺しましたよね。監視カメラには映ってるんだから警察行きましょ」。

「そんなバカなことするかっ」と男は何度も激しく否定するものの
若い女はひたすら「警察に行きましょ」と迫り続けて。

男に対しては「故意でなければ気が付かなかったと謝ればいいのに」と思いつつも
若い女の冷静で執拗な迫り方に奇妙なものを感じながら。

男が意図的に刺したのかあるいは偶然そうなってしまったのかはわからない。
ハッキリしているのはふたりの「対応」がいずれも微妙なこと。

「事実」は不明のままに「お話」を作るとすると。

「男の悪意の不在」と「女の不幸な境遇」を重ね合わせるのが「現代風」だろう。
ふたりを取り持つことになったのは「間の悪さ」で互いの「事情」を重ねると「不条理」が増す仕組みなど。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ「バベル」(’06)の「軽い」パターン。
もちろんそれ以外の「お話=解釈」はいくらでもありうるけれど。

「望ましくない現在」からは「仮定法過去完了」が語られ続ける。
その「現在」もやがては「過去」になり。

ただし「決定的な過去」というのがあることも否定はできず。
できれば「少し違った現在」を見つけられたら幸い。
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「莫連女とプリマドンナ」について

2016-09-23 02:41:35 | Weblog
くもりときどき雨。深夜にも少し。

平山亜佐子「明治・大正・昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団」を読む。

「莫連(ばくれん)女」とは「女のならずもの・あばずれ」の意で
明治期の新聞で使われていたとのこと。

日清戦争前後に現れたという推測がなされているものの
その種の女子ということで言えば時代や呼称を問わず常にいたはずだし現在もいる。

著者が興味をひかれたのは当時のビジネス街の中心にいた「丸ビル一の美人」が
「タイピスト」という「恵まれた職業」にもかかわらず「ギャング団の首領」でもあった事実。

現代ならやや内容は異なるけれど「東電OL殺人事件」の被害者の「謎」のようなものか。
大雑把に言うならいずれも「承認欲求の形」が「『普通』とは違っていた」のだろう。

「女であること」がもたらす「抑圧」とそれを跳ね返すための「強引さ」の結び付きなど。
「本当」がどこにあるのかは不明のままだが「複雑な問題」であることは確か。

それに比べて「男であること」の呑気さよ。
どこまでも「子どもじみていられる」のはおそらくそのせい。

「放蕩息子」がいるなら「放蕩娘」もいて。
いたずらに後者に「重き」を置くのは「不公平」でしかなく。

「どっちもどっち」あたりで落ち着かせるのが穏当。
「お互い様」ということでよろしく。

マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー「赤い靴」(’48)を再見。

芸術に生きることと普通の幸福は両立しないというドラマが
アンデルセンの童話を元にバレエ団を舞台として描かれている。

撮影ジャック・カーディフと色彩ナタリー・カルマスの魅力よ。
レールモントフ役アントン・ウォルブルックの「冷徹ぶり」も同様に。

ピカソの女性遍歴とその結果は「サバイビング・ピカソ」(’96)にも描かれているけれど
「男性芸術家の『わがまま』」はそばにいる女性を狂わせる模様。

劇中のバレエ「赤い靴」は思わず見入る素敵さ。
モイラ・シアラーは踊りの素晴らしさとともにその童顔が悲劇の効果を高めて。

彼女がジャンプするラストの記憶は鮮明だったはずなのに
今回観直したら「角度」が違っていた不思議。

何度も観直すことの重要さに思いを致すのみ。
というより「記憶装置としての衰えもしくは不甲斐なさ」をあらためて。

「バレエ団の内幕物」としても観られるので
フレデリック・ワイズマン「アメリカン・バレエ・シアターの世界」(’95)との比較などいかが。
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「暴力あるいは最低限」について

2016-09-22 03:17:10 | Weblog
くもりときどき雨。パラパラ降る。

山際寿一「暴力はどこからきたか」をたぶん再読。

「言語の出現と土地の所有、死者につながる新しいアイデンティティの創出」。
著者による「答え」は3つ。

言語には「そこにない出来事や空想上の話を伝える機能」があり
「国家や民族」という「幻想の共同体」を作り上げその一員であることに意味をもたらしたと。

農業には「土地」が必要でそこには「収穫の多寡」という「差」があり
その「所有権」をめぐる争いが起きやすいと。

「起源への問い」は「系譜」によってアイデンティティの規模を拡大し
「境界の外」への敵意をもたらす動因になったと。

結論は案外シンプルでその内容より「サル学者」としての個々の事例の紹介の方が楽しいかも。
「共同体の一員であること」も「農業をすること」も今となってはやめられず。

暴力が現在でも有効であることは「外交の保証としての軍事力」
例えば北朝鮮の核兵器保有がもたらす現実を見れば明らかで。

もっと身近なところで言えばDVあるいは「言葉の暴力」による「支配」など。
何事かを「思い通り」にするための手段としての暴力は世にあふれている。

そもそも「狩猟」さえ他の動物の命を奪うことだったりするのでそれも「暴力」。
実は「暴力なし」では生きられないからこそ「最小限に」という配慮も生まれるのだが。

「経済的余裕」がないと「文化的ギャップ」は楽しめないという事実よ。
そこで持ち出されるのが「国民や民族」という「アイデンティティ」だったり。

どんなに「貧しい者」であっても「国民や民族」であることはできるから。
そして「友を作ること」以上に「敵を作ること」は簡単。

そうした意味であらためて「ベーシックインカム」が浮かび上がる。
そろそろ「最低限の共有」を本気で考えた方がいいかもしれない。
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「合理と制御あるいは鈍感さ」について

2016-09-21 02:32:12 | Weblog
雨。台風の影響で仕事が休みに。

ジェイムズ・バラット「人工知能 人類最悪にして最後の発明」を読む。

プログラムが人間よりずっと賢くなったら
やがてプログラムは「合理的」に人間を「排除」するだろうというお話。

少なくともわれわれ人間は「非合理的」なので
徹底した「合理」から見れば「いらない存在」になることは必至。

繰り返し「仲間内」で戦争している事実からしても当然だろう。
「合理」から見れば「愚か」でしかないから。

おまけにわれわれは自らの運命を決めることになるプログラムを
それと知らずに開発し続けているらしい。

それも結局は「経済」のためだったりする。
「金融工学」とやらが相当にあやしげなものであるにもかかわらず。

自分たちで制御不可能なものを作り出す「才能」はある模様。
蚊が手で潰されるように消えることになるとしても。

キャロル・リード「第三の男」(’49)を再見。

アントン・カラスのツィター(昔はチター)は何度聴いても飽きず。
米英仏ソに分割統治されているウィーンの人々の顔と行動がいかにも怪しい。

猫のエピソードからのオーソン・ウェルズの「顔見せ」はやはり圧倒的。
今回はバーナード・リー演じるペイン軍曹の「味わい」にふむふむ。

クルツ男爵のエルンスト・ドイッチュやヴィンケル医師のエーリッヒ・ポントの顔が素敵。
妙な話だが浦沢直樹の描く人物の「リアルさ」にあらためて気付いた次第。

ラストシーンの記憶が現物と違っていたのにビックリ。
アリダ・ヴァリはずっと真っ直ぐに歩いたと思っていたのだけれど。

この年になってみるとジョセフ・コットンの「凡庸さ」にやや苛立つ。
観覧車のシーンでは有名な台詞より「点が金になる話」の「非情」が気になった。

「地下水道」はアンジェイ・ワイダよりこっちが7年ほど早い。
ホリーとハリーの最後の銃声の結果は「他殺」なのか「自殺」なのか。

「キャロウェイ」と「キャラハン」の呼びまちがいもあり。
トレヴァー・ハワードは見かけより「間抜け」。

アンナの宿の女主人ヘドウィグ・ブライブトロイのドイツ語は理解できないものの
彼女が訴えていることは十分に伝わる不思議さよ。

アンナがホリーをハリーと何度も言い間違える事実を前にしながら
「自分の恋心」を優先するホリーの鈍感さときたら。

「Holly Godもしくはshit」という英語の表現を思い出すべきなのかもしれない。
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「ある種の不幸と時の流れ」について

2016-09-20 03:02:53 | Weblog
くもりときどき雨。豪雨にはならず。

昼過ぎから墓参り。

残念な叔母がいつも通りの「独演会」。
彼女のエネルギー源は結局「肉」だということがわかる。

繰り返しておくと「悪い人」ではないものの「社会的コスト」が高すぎる。
看護婦だったのに「霊界」とやらを信じていたり。

最後は「金が大事」という話に落ち着く。
あれこれ「事情」があったのはわかるがやはり「圧倒的に貧しい」。

なるほど「馬齢を重ねる」とはこのことかとあらためて思うのみ。
「ある種の不幸」はこうしたかたちをとるものらしい。

シドニー・ルメット「オリエント急行殺人事件」(’74)を再見。

ポワロのアルバート・フィニーは「やりすぎ感満載」。
「事情聴取」という形式が「オールスター出演」にふさわしいのに納得。

ローレン・バコール、イングリッド・バーグマン、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、
ジャクリーン・ビセット、ウェンディ・ヒラー、レイチェル・ロバーツの女優陣。

アンソニー・パーキンス、ジョン・ギールグッド、ショーン・コネリー、
マイケル・ヨーク、コリン・ブレイクリー、デニス・クイリー、ジャン・ピエール・カッセル。

鉄道の重役マーティン・バルサムと医師ジョージ・クールリスはふたりして「ワトソン役」。
女優6人と男優7人で「12」にならないのには理由がある。

「12人の怒れる男たち」(’57)の監督が「12」という数字にこだわる「楽屋オチ」。
被害者リチャード・ウィドマークは加害者でもあり。

「ピグマリオン」(’38)は「マイ・フェア・レディ」(’64)のオリジナル。
花売り娘オードリー・ヘップバーンの元が本作の「侯爵夫人」であることを覚えておこう。

作品当時脂が乗っていたのはヴァネッサ・レッドグレイヴとジャクリーン・ビセット。
ここでも「青い瞳」は美しい。

ローレン・バコールとイングリッド・バーグマンの姿の確認もよろしく。
「時の流れ」をどう解釈するかで理解の仕方は変わる。
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