退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

3連休その1・2

2016-10-31 02:44:41 | Weblog
晴れ。おだやかな秋の日。

昨夜はいつもの老舗バー。

3連休ということで初めて私服で訪れる。
またまたDVDを2枚借りてくる。

帰宅後しばらくして爆睡。
TVとPCは付けっぱなしで目覚めるというだらしなさ。

もっときちんと「消化」すべきなのだが溜まるペースの方が早い。
なぜかGyaoで「スモールタウン・マーダー・ソングス」(’10)や「誰でもない女」(’12)など。

前者はアメリカの田舎町の雰囲気がなかなか。
洗礼を受けた主人公の警察署長は元恋人と別れる原因になった「暴力」を辛うじて抑える毎日。

ドイツ語しか話さない父親と仲間たちとの微妙な関係もあり。
現在一緒に暮らしている女性の「世間話」の苛立たしさも。

聖書の言葉がドラマの区切りに白字で画面に出る。
田舎ゆえ初めての「殺人事件」で犯人逮捕へのプレッシャーの中彼が取った行動とは。

後者の原題は「two lives=ふたつの人生」。
主人公は母親と夫と娘、孫のいる「幸せな家庭」を築いたものの。

第二次大戦中ドイツ人と結婚したノルウェー人女性に対する国の仕打ちを訴えようとした弁護士が
そうした母の娘である彼女に「証言」を依頼したことから「隠し続けてきた事実」が明らかになり始めて。

戦争孤児を偽りの愛情で釣る「国家の酷さ」よ。
「善き人のためのソナタ」(’06)とは少し異なる「歴史」を知っておこう。

マル激を観る。

ゲストは亀井静香で「死刑廃止」について。
世論は8割ぐらいがやや否定的な部分もありつつ存置に賛成らしい。

凶悪犯罪の発生率そのものは減っているものの
時折起きるそれらに対して「過剰反応」をする人々のせいか。

「死刑」による「犯罪抑止」がなされないことはすでに明らかで
執行官に「殺人」を行わせている「一方的な負荷」についても同様。

おそらくもっとも大きな要因であると思われる「遺族の感情」についても
「代弁者」のあれこれより「死刑の公開」によってそれが「本当に望ましい」のかがわかるはず。

例えば3.11の大川小の裁判で「金目当てだろう」などと言われることがまだあったりするのは
われわれが「孤立する」中でいかに「貧しく」なっているのかの「証拠」ではないのか。

「金しかない」と思わせるものは「人間関係資本の欠如」でしかなく
その部分に対する「手当て」こそが実は肝心。

さまざまに「厳しい現実」があるのは承知の上。
ここでも「大事な資源は人であること」が浮かび上がる。
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「わかりやすさに対する圧倒的な勘違いあるいは鈍感さ」について

2016-10-29 02:26:17 | Weblog
くもりのち雨。夜になって止む。

「桂東雑記Ⅱ」読了。

文字はそもそも神に訴えるために生まれたこと。
わが国の文字の始まりは百済人によるものだと推察されること。

そして文字にはさまざまな生活ぶりが「記録」されていること。
ベトナムや朝鮮半島ではすでに漢字が失われ「古典とのつながり」がないことなど。

今後も楽しいことが待ち構えている予感が濃い。
このシリーズだけでも結構な数があるのでぼちぼち読んでいくつもり。

あらためて「漢字にルビを振る=ふりがなをつける」という印刷形態を復活させることが
漢籍に接することの少なくなった現在では重要だと思う。

意味はわからなくても読めていれば
やがて後から意味が付いてくるというのが「素読」のいいところ。

少なくとも「水よう液」などという不細工な文字の配列を
至極当然だと思える「鈍感さ」を免れることはできるはず。

いたずらに漢字をかなにしさえすればいいという
「わかりやすさ」に対する勘違いをそろそろ改めてはいかが。

同様なことが言えるのは先日も採り上げた「NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来」。

全3回を再放送ですべて観てみたのだけれどまるで「幼稚園児への解説」。
少しはBBCの「わかる人にわかればいい態度」を見習ったらどうか。

最終回では「トリクルダウン=富のこぼれ落ち」をわざわざ「シャンパンタワー」で説明するアホらしさ。
何か決定的な勘違いがあるとしか思えず。

他の番組ではそうでもないことを考え合わせると
残念ながらこのシリーズを作ったプロデューサーがダメなのかも。

ロバート・ライシュにわざわざインタビューして「絞りカス」だけ伝えるくらいなら
彼の著書をきちんと読めばいいだけだし。

重要なのは「結論」ではなく「なぜそこに至ったのかということ」。
その「理路」もないのだとすれば「エラい学者の言うことを信じよう」にしかならないのに。

つい最近「土人」という言葉がメディアで流れたりしたが
「天に唾する」ことになっているような。

さて。

いつの時代でも「正統性=まともであること」が求められるのはそれなりの理由がある。
誰もがそれぞれに旗を掲げた上でどこかに「落ち着く」しかないから。

どんなインチキであろうと「理」がなければ。
その「最低限」が破られて久しいのだとすればすべては「気分次第」で終わるのみ。
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「背筋が伸びるものと奇妙な倒錯を生むもの」について

2016-10-28 03:36:37 | Weblog
晴れ。夜風が冷たさを増す。

白川静「桂東雑記Ⅱ」を途中まで読む。

著者の書いたものに接すると背筋が伸びる気がする。
数々の著作の主な部分にはまだ触れず「搦め手」からであっても。

今後全部読み終えるまでじっくり付き合うつもり。
漢字のでき方とその背後にある「民俗」を知るのは何とも興味深い。

「世の中にはこんなスゴイ人もいるんだ」と思うことしきり。
相変わらず「眼高手低」のわが身は省みず。

僅かながらも「謦咳に接する」ことができるのはありがたい限り。
この種の「レベル」を知るとますます下手なことは出来ないと思うのみ。

サム・ペキンパー「ワイルド・バンチ」(’69)を再見。

かつては強盗仲間だったパイクを執拗に追いかけるロバート・ライアンが全体をまとめる。
刑務所で容赦なく鞭打ちされるのと彼の油断のせいで自分だけ捕まった回想シーンに注目。

それでも他人に彼の評価を聞かれて「最高だった」と言うあたりがなかなか。
ラストで途方に暮れる姿はまるで「恋人」を失った男のようで。

いかにも嫌らしいマパッチ将軍エミリオ・フェルナンデスの元に去った恋人を思いつつ
村のために戦おうとするジェイミー・サンチェスの「純情と熱血」(ギターの弾き語りもあり)。

「最後の仕事」のつもりがまたひと仕事しなくてはならなくなった老境のウィリアム・ホールデンと
「鉄道は絶対許せねえ」と自分を示しながら彼に付き合うアーネスト・ボーグナイン。

「酒と女」をひたすら楽しむゴーチ兄弟にベン・ジョンソンとウォーレン・オーツ。
彼らにからかわれつつ意外にしぶといサイクスのエドモンド・オブライエン。

ハリガン役アルバート・デッガーの脂ぎった感じも印象に残る。
コファーのストローザー・マーティンを代表とする「無法者たち」の顔も素敵。

そして「メキシコ女たち」の美しさも忘れずに。
アルフォンソ・アラウという名前が「赤い薔薇ソースの伝説」(’92)の監督だったり。

自分たちを裏切らなかった友のために圧倒的な人数の敵を相手に戦うラストの銃撃戦よ。
この「心意気」はおそらく易々と「国境を越える」はず。

自動車が珍しかった時代のマシンガンによる「舞踏」を楽しもう。
ここまで異常に人が死ぬと「常識のリミッター」がはずれむしろ「美しい」と感じる倒錯を引き起こす。

スペイン語の甘い歌の数々もまた楽しく。
案外「あぶない内容」があったりする歌詞もよろしく。
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「透明な生き物あるいは不自由ゆえの自由」について

2016-10-27 02:12:00 | Weblog
晴れ。昼は日差しが背を焼き夜にはスコール。

澤井聖一編「世界の美しい透明な生き物」を見て読む。

「目の保養」ふたたび。

花びら、キノコ、蝶、虫、芋虫、ザリガニ、カエル、熱帯魚、クリオネ、
微生物、イカ、タコ、ハゼ、クラゲ、サンゴ、イソギンチャク、ナマコ、ホヤなど。

「透明」というキーワードだけでこれだけの生き物がいるのだから
「生物多様性」というものの広大さについてはため息が出るほど。

一部の画像があったので貼っておく。
この中ではやはりクラゲが目立つか。

映画で言うならタルコフスキーの「水の中で揺らぐ草」。
石にぶつかってゼリーのように盛り上がる水の流れも。

繰り返すがある時期以降「色彩感覚」が変わった。
いたずらに刺激的な色が好まれるようになり。

この「偏向=偏光」を是正するためには実際に「キレイな色」を見るのが一番。
できれば子どもの頃から始めるといいのだけれど。

もちろん「尖った配色」を敢えてするのは結構。
ただしそれはあくまでも「飛び道具」であることをお忘れなく。

「常識」があっての「非常識」と同様。
「元になるもの」がなければ「突き抜けること」を感じようもない。

「非日常」が続けば「日常」になる当然。
そのあたりを押さえておかないとすべてが「灰色」になるのでご用心。

もっとも「白と黒の間」も実は「無限」だったりするのは水墨画を見れば明らかで。
すべてはわれわれの「眼という器官」のなせる業。

「限られた光線」しか受け取れないにもかかわらず
そのことが必ずしも「不自由」ではない「事実」をしっかり受け止めたいもの。
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「原因を求める形式が答えを決めることあるいは好ましい笑い」について

2016-10-26 02:00:11 | Weblog
雨。夜になって止む。

ラリー・ヤング&ブライアン・アレグザンダー「性と愛の脳科学」を読む。

もうちょいと科学的内容かと思いきや
結局のところオキシトシンとヴァソプレッシンの受容だけのような。

行動に影響を与える化学物質を探しているのだから
自動的にそうならざるをえないか。

とにかく具体例の羅列のみで長いこと。
半分飛ばしながら読むくらいがちょうどいいかも。

深夜「内村テラス」の東京03を採り上げた2回目を観る。

何気ない日常のちょっとした疑問を膨らませるコントが楽しい。
ねちっこい角田と淡泊な豊本の対照の間を行き来する飯塚といった具合。

「古典的な大袈裟さ」で迫る角田がわかりやすく笑わせるものの
インパクトの大きさは豊本の「冷静な理不尽」。

「狂言回し」の飯塚は「状況の解説」を加えつつ自らもその渦に巻き込まれて。
時に高い声を張りながらボケたりもすることもあり。

観客に一瞬「ん?」と思わせた後で笑いを取るのが見事。
このいかにもな関東風味は味わい深い。

各地で行うライブは「即時完売」だとのことで目出度い。
ネタ作りにおける飯塚の感覚をバカリズムは「底意地の悪さ」と表現していた。

その言葉をわかりやすく翻訳すると「人間観察の鋭さ」となるはず。
ドラマ「黒い十人の女」の脚本を書いた人物らしい感想ではある。

具体的な詳細はいつものようにyoutubeまで。
あれこれあるので楽しんでいただきたい。

相手の質問に答えられない悔しさを福原愛の勢いで「サーッ?」と強引にとぼける角田や
「ぼくが君のことを好きになれないのは君が悪いだけでしょ」と言う豊本が見たいところ。
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「わが国という特殊な『磁場』を逸脱すること」について

2016-10-25 02:09:59 | Weblog
快晴。日差しは熱いが夜には冷える。

鶴見俊輔「ちいさな理想」を読む。

晩年の文章を集めたもの。
面白いというより「そういう視点があるのか」という感想。

幼い頃に漢文の素読をやり外国語にも堪能であった著者は
もはや母国語の使用さえ心許ないのが「平均的な国民」であることをどう思うのだろう。

「それは戦争中も同じだったよ」。
そんな返事がかえってきそうな気はするのだけれど。

さて。

今年から中学の英語の教科書の内容が変わったのだがいやはや。

「ゆとり教育」とやらの「反動」が激しく
中1では曜日や月、数字や色などの単語をやたらと早目に覚えさせる指導。

中3では以前は高校でしか教えなかったことを次々に採り入れ
単語の「核となる意味」でなく特定の意味の訳語を教えていて。

中にはそのままの訳を使うと「意味不明な日本語」になるものもあり。
おまけにわが県の高校入試問題は「英語の出来る生徒だけ」を対象とするようなもので。

ただひたすらに「覚えること」を「当然」とするのでは
いたずらに「英語嫌い」を増やすのみ。

おまけにある程度努力しても「報われない入試」が待っているだけだとしたら
まともに付き合う気は失せるだろう。

なんじゃこりゃ。

「アメリカ文化との好ましい接触」もないままに「苦痛」が押し付けられて。
「言語」に「歴史や意味」を感じさせない「教育」などあるのか。

バカバカしさもここに極まれり。
心ある者はこれらの「制度」からただちに逸脱せよ。

いわゆる「ヤンキー文化」に飽き飽きしている身としては
むしろ「新種のヤンキー」が生まれることを望む。
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「淡泊な会話と死あるいは女ぎらい」について

2016-10-24 02:32:39 | Weblog
くもりときどき晴れ。日が暮れるのが早い。

昨夜は2週間ぶりの老舗バー。

案外盛況でマスターとはゆっくり話せずDVDも借りず。
ニューボトルが冷えてなくていつもより酒が回り帰宅後爆睡。

県外から来たお客さんと少しだけ話す。
マーヴィン・ゲイが好きだという彼女はできればソウルバーをやりたいと言う。

「好みは北と南とどっちですか」「南です」
「クインビー」の名前も出さずそれだけ。

立花隆「死はこわくない」を読む。

「臨死体験」が結局は「脳内の夢」だと科学的にわかった模様。
「死後の世界を信じる人々」については「情念の問題」で「論理的な解決」は必要ないと。

ただし東大医学部付属病院の医師が江原啓之と対談して盛り上がるのには怒っている。
要は「科学者側からの追究としていい加減すぎるだろう」ということ。

「ケミカルマシンとしての脳の働き」があまり重要視されていなかったというのにふむふむ。
「単純化したモデル」を元に考えると「電気系=発火」に頼るのがいいのか。

それ以外には「夢をコントロールできる」という実験が興味深い。
その装置が「商品」になったらどうなるのだろう。

いずれにせよ「死の体験談」は不可能。
ならば「どうなるか楽しみ」というのみ。

サム・ペキンパー「戦争のはらわた」(’77)を観る。

よくもまあこれだけ数多くの爆破シーンを撮ったもの。
「独ソ戦」で負けがわかっているドイツ側の視点というのが珍しい。

唱歌「ちょうちょ」が冒頭とラストに。
「幼いハンス」というのが原曲。

増村保造「赤い天使」(’66)や大島渚「愛のコリーダ」(’76)では
「性」が「戦争と対立するもの」として描かれていたっけ。

看護してくれて仲良くなった女子をいとも簡単に振り切って戦場に戻る主人公は
「女子に『惑わされた』仲間」に対して否定的な行動をする。

とりわけ「局部を噛み切られた兵士」をソ連女性兵たちの「制裁」に任せるあたり
「男子同士の情」への「裏切り」は相当な「罪」だということになるようで。

とはいえ「男子同士の性的愛情」となると話は別らしく
上官に「秘密」を握られた部下は主人公の小隊を「破滅」させる裏切りをして。

その部下は射殺するものの上官にはそうせず敢えて「戦場=現場」に連れ出すのは
「自分なら耐えられない屈辱」を味わわせるためのもの。

どこか「ゲイ嫌いのゲイ」のような。
少なくとも主人公は「女が好き」ではない。
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「スゴい個人と凡庸な悪」について

2016-10-22 02:21:15 | Weblog
晴れ。おだやか。

クラーク・エリオット「脳はすごい ある人工知能研究者の脳損傷体験記」を読む。

重度の脳震盪によって日常生活が困難になった著者が
別の「回路」を訓練することで元の生活を取り戻す内容。

何より困難の最中大学教授を続けられたという事実と
著者の何としてでも日常生活を続けるという強靭な意志に驚く。

三段階ほど脳機能を動かす「バッテリー」があって
さまざまな情報に対処しなければならなかった後の回復には相当に時間がかかったと。

その様子を克明に記録できるだけの「力」が残っているという不思議。
元々「知能が高い」という記述はあるものの「超人的」としか思えず。

不幸にも自殺してしまう人々が少なくない中で
あれこれ迷いつつも決して絶望しきってしまうことがないのだから。

それにしても何気ない日常の行動に迷った挙句
数時間もかけてやり遂げてしてしまう「タフさ」の源は「研究者としての好奇心」なのか。

いやはやタイトルは「脳はすごい」だけれど「著者はすごい」が正しいと思われる。

深夜NHKスペシャル「村人は満州へ送られた~“国策”71年目の真実~」の再放送を観る。

「敗色濃厚」になってもお構いなしに動き続ける「官僚機構のマシンぶり」たるや。
ただの「ノルマ達成」が村人たちを平気で犠牲にして。

それと引き換えに「補助金」を渡す「相手の足下を見るやり口」は当時も変わらず。
「生命線」を通達なしに勝手に引き下げ開拓民を見殺しにする関東軍も。

勝手に取り上げた土地を提供したことが原因で
その「事実」を知らない開拓民が地元農民に迫られ集団自決に追い込まれる酷さ。

「命令に従っただけ」という「凡庸な悪」がナチス同様ここまでの惨劇を引き起こす。
「戦争という非常時の怖ろしさ」をあらためて知っておこう。
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「美しい生き物の色彩と『西部劇』における女たちの我慢」について

2016-10-21 03:17:25 | Weblog
快晴。上着なしで出かける。

フィリップ・ハウス「なぜ蝶は美しいのか」を見て読む。

「サテュロス型擬態」の「サテュロス」とはギリシャ神話に登場する「半人半山羊」。
動物たちが敵の目をくらますために「他の動物もしくは幼生」に擬態する様を言う。

その中には「ベイツ型」と「ミュラー型」があって
「擬態のモデルと擬態する種の毒性の強弱」によって分かれるとのこと。

そうした「解説」は抜きにしても本書の写真を見るだけで
蝶や蛾たちの「擬態の見事さと不思議さ」はよくわかる。

科学的な説明の合間に引用されるさまざまな言葉の魅力がなかなか。
それにしてもこの色合いの見事なこと。

普段「煤けた町や人物」に慣れきってしまった目にはまさに「砂漠のオアシス」。
久方ぶりにじっくり「目の保養」をさせてもらう。

「OK牧場の決斗」(’57)を再見。

ディミトリー・ティオムキンの軽快なテーマ音楽とフランキー・レーンの歌声よ。
ご存じワイアット・アープとその兄弟&ドク・ホリデイvsクラントン一家の対決。

バート・ランカスターのアープとカーク・ダグラスのドク・ホリデイが
ともに「我慢を重ねた挙句」に決斗するのは「やくざ映画」に似ていなくもなく。

ロンダ・フレミングの清潔さとジョー・ヴァン・フリートのやさぐれの対照。
後者の「どうしようもない純情ぶり」が沁みる。

ジョン・アイアランドのリンゴ、デニス・ホッパーのビリー、ジャック・イーラムはマクローリーで
後の「ドクター・マッコイ」デフォレスト・ケリーはアープの兄役。

そして冒頭ですぐやられてしまうエドにリー・ヴァン・クリーフ。
チャーリー役アール・ホリマンの「哀しさ」も覚えておこう。

とはいえ一番魅力的なのは「破滅型」ドクのカーク・ダグラスか。
ただしここでも「男は女より男を選ぶ」事実があり。

子どもたちの「ワルぶり」に心を痛めつつ彼らの無事を祈っているクラントン一家の母と
兄弟の「意地」を批判するアープ兄弟の妻、ドクの無茶を押さえようとするケイトは「みんな同じ」。

アープを愛する賭博師ローラは「私が全部捨てるからあなたも捨てて」とまで言うのだけれど。
一番「我慢」しているのは結局彼女たちなのだろう。
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「按配もしくは大事なゆとり」について

2016-10-20 02:13:26 | Weblog
晴れ。今日も上着は手に持つ。

「アメリカの反知性主義」読了。

デューイの読み取りにくさが「誤読」を生んだあたりにふむふむ。
「子どもの成長に任せる」のはいいとして「目標」がなくなったのに問題が。

アメリカにおける「教師の地位と給料の低さ」はそのあたりからか。
ほとんど「羊飼い」の扱いと思ってよさそう。

「疎外」されることで活きるはずの「知識人」が「権力」に取り込まれてしまうことも。
一方で「疎外」という「環境」が必要以上に「現場」を持ち上げることも同様に。

本書にはあれこれ教えてもらってありがたい限り。
「反知性主義」という言葉の意味についてはそれなりに理解できたつもり。

「外にいる」からこそわかることがあり「中にいる」からこそわかることがある。
いたずらに対立するのではなくいい具合に混ざり合えば面白い考えも出て来そう。

その種の「化学反応」は各地でもっとあれこれあっていいはず。
とりあえず「熟議」が可能ならした方がいいことは確か。

ちょいと話を変えて。

「専門家と素人」について考えてみよう。

「物事の複雑さ」に慣れている前者は「断言」を避ける傾向にあり
「物事の単純さ」に慣れている後者は「断言」を求める傾向がある。

ある種の「現実」に対して何らかの決断を下さねばならない時に
この両者はどう「和解」するのだろう。

前者でさえ判断が付きかねることに「素人」が判断を下さねばならない「現実」はいくらでもある。
今さら問答無用に「専門家」を信用することも出来ず。

それでも何事かを頼りに素人は「決断」するよりなく。
そうした時に「基準」となる「信頼性」とは何なのだろう。

もちろん個々の持っている「基準」ではあるのだろうが
それだけではいかにも心許ない。

そこで。

専門家は「判断材料」を提供する役割に徹し
素人はそれを元に話し合いを重ねて決断する。

大事な「態度」は「疑わしいと思える点」について
「非難」ではなく「疑問」を投げかけること。

なぜなら「望ましい結果」はすでに「一致」しているので
あとはどうやってそこにたどり着くかだから。

忘れてならないのは「間違えたら元の場所にまで戻ること」。
そのゆとりがないと人は無暗に「正しさ」を求めて「暴れる」。
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