退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

’12GW1

2012-04-30 02:47:03 | Weblog
快晴。真夏日だった模様。

スーパーに自転車で出かけた以外ほぼひきこもり。
納豆と卵と豆腐、タバコと電池を買って帰宅。

活字は新聞のみ。
あまり気になる記事はなく。

マル激Nコメで小沢裁判判決の「デタラメぶり」を確認。
わが国ではいずこにおいても「官僚のダメさ」が目立つ。

試験に受かる「技術」だけしか持っていないのはあまりに「貧しい」。
もっともそうした「人材」を育ててしまうことも同様に。

「二次元の世界」のみならず
「キャラが立っていること」は好ましい。

彼ら彼女らの「セコさ」しか目立たないのでは「芝居」が面白くなるはずもなく。
「舞台」に立つ前にさっさと「退場」していただきたい。

妹の思い付きで明日はまたまた墓参りに付き合うことになる。
「早起き」もしなければならず面倒くさいこと限りない。

「マイナス」を取り除こうとする行為は基本的に「まちがっている」と思っていい。
なぜならそれを判断している当の本人の「基準」がおかしいから。

「祖先崇拝」もほどほどにしたいところ。
「過去」には「過去」の「どうしようもなさ」がある。

いたずらに「因果」を見出すとそういうことになり。
そもそもわれわれはいつ「世界の複雑さ」を把握できるようになったのか。

端的に言ってしまえばそれは「永遠にできない」。
ならば「一定の論理」を尊重しつつそこから離れることもあっていいだろう。

とはいえ「論理」のあり方が実は人それぞれで
人はついつい「自分」にこだわる。

要は「何でもあり」ということをいかに「ポジティブ」に捉えられるかということ。
人が幸せに暮らすためにはそのあたりが重要だと思われるが如何。

というわけで今宵もいつものように。
「正気でいること」をかろうじてつないでいく。
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「了解すること」について

2012-04-29 04:20:50 | Weblog
快晴。世間は今日からGW。

東浩紀「郵便的不安たちβ」を途中まで読む。

著者の興味のあり方をあらためて確認する。
「読解の抽象的レベルの高さ」がやはり突出していて今でも古びていない。

頭がスッキリする感じが好ましく
ここまで「プレゼン」するのが「当然」だという姿勢はさすが。

さて。

今年の個人的なGWは8連休。

毎年恒例だけれどグダグダして終わりそう。
どこかへ出かける気もなければ予定もないままに。

深夜にTVで「ラウンダーズ」を再見。
監督がジョン・ダールであることを思い出す。

マット・デイモン、エドワード・ノートン、ジョン・タトゥーロ、グレチェン・モル、
ファンケ・ヤンセンにジョン・マルコビッチ、さらにマーティン・ランドーというキャストが「シブい」。

ポ-カーに才能のある優秀な法科の大学生が「ダメな友人」と付き合ううちに
恋人から別れを告げられ「自らの進むべき道」を見出すお話。

「魅力的な女性が男に拒まれる」という意味ではかなり「ホモソーシャル」。
そうした男を「理解しない」はずの女が最後には「理解を示す」あたり視点はかなり「男寄り」でもある。

ある種の「男のロマン」が母親にも許されるあたりをマーティン・ランドーが「説明」したり。
彼から「お墨付き」ばかりか「援助」も与えられるのだから主人公は「自分の道」を歩くよりなく。

「ヤクザな生活」を可能にするのは「おなご」であることを重々承知している身としては
いささか申し訳ないような気になる。

今後ともよろしくと関係各位にはお願いしておく。

もちろんずいぶん「勝手なお願い」ではあるので
ついついひとりであれこれすることになりがちではあり。

「ご縁」にまかせる姿勢はそのあたりがカギなのかもしれない。
いずれ「自業自得」なので甘んじて受け入れることに変わりはない。
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「望ましい職場」について

2012-04-28 03:47:51 | Weblog
快晴。空にひこうき雲。

今日もふたつの職場を行き来する。
いずれにも大した「責任」がないせいかそれぞれの「現状」を見ていると楽しい。

一方はいわゆる「地元密着型」で人と人の間の「距離」が近く
もう一方は「都市型」で「付き合いが薄い」というか「適度な距離」を保っている。

どちらが「より望ましい」ということではなく
それぞれの「環境」に従って「最適」を目指しているというあたり。

ただしポイントはどちらにも「コアになる人材」がいること。
彼あるいは彼女が「職場」を支えている。

そうした人々の持つ「資質」は何かといえば
「きちんとした仕事」をすることに尽きる。

「時給」という「システム」はともすれば「時間をこなせばいい」ということにもなりがちだけれど
それとは関係なく「すべきこと」を実行している。

「きちんとした」とか「すべき」という表現がいかにも抽象的だとすれば
「職場全体を意識しつつ一定のレベルを維持しようとする働き」とでも言えばいいのか。

「一定のレベル」という言葉の中身を簡潔に言ってしまえば「職業倫理」。
「仕事とはそういうものだ」という「前提」のもとに動くこと。

さらに言えばその種の彼や彼女は
「それ以外の仕事のありよう」を「自分に許すことができない」だけだったりする。

「価値」を共有しない人々からすれば「何じゃそりゃ」かもしれないものの
その「仕事ぶり」がついつい「説得力」を持つ結果になることも少なくなく。

かように「好ましさ」は「数の多少」ではなく「存在」にある。
それを「強度あるいは感染力」だと知る「存在」が「あなた」であってもらいたいところ。
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「知恵が求められる場所」について

2012-04-27 02:59:32 | Weblog
雨。一日中降る。

昨日は掃除好きの母親のせいかどうかは不明なのだけれど
電話回線関係のコードがなぜかちぎれてしまいネットにアクセスできなくなる。

仕方なく深夜にTVを観て過ごしたもののさすがに退屈。
「ヤクザな生活」を成立させているものがPCなのだとあらためて確認した次第。

バウマン「コラテラル・ダメージ グローバル時代の巻き添え被害」を読む。

「コラテラル・ダメージ」といえばシュワルツェネッガーの02年の映画を思い出すのが一般的か。
「コラテラル」は「副次的=巻き添え」ということでいい模様。

いわゆる「グローバル化」をもたらすものは「国際的なあれこれの関係」で
その「巻き添え」によって「普通の人々の生活」が脅かされていると。

たとえば「消費」を煽る勢力が「目先のもしくは自分たちの利益=数字」のために
それ以外の「価値」を見えなくさせている「結果」が「現状」。

興味深いのは「セキュリティ」にこだわればこだわるほど
むしろさらなる「危険」や「不安」が生まれること。

何気ない日常を穏やかに暮らしている人々が
「非常時」になると「悪魔の所業」を平気で行えることが「人間らしさ」だったり。

「戦争あるいは戦場」を肌身で知っている人々にとっては「常識」なのかもしれない「事実」について
あらためて思い出す必要がありそう。

「原因」を見つけたがる人々は自分とは「異なる人種」のせいにして
政治家は「保身」のためにそれに「迎合」したりもする。

どうやら「世界」はいよいよ「野蛮」になりつつあるようで。

少なくとも世界の人口の多くが「飢えている」のは事実。
彼ら彼女らを「消し去る」ことによって保たれる「繁栄」についてどう思うのか。

そろそろ自分が生きて行くための「最低限のレベル」を
「グローバル・スタンダード」で考えるべきなのだろう。

「国際的企業の利益」は「流動的=不安定な雇用」を求めているのだが
そもそもあらゆる面で「自分たちの利益のみを追求する商売」を許していいのかどうか。

他人のためになりつつ自分も豊かになること。

その「健全さ」をどうしたら確保できるのかについて
さまざまな「知恵」が今ほど必要とされている「時代」はないのかもしれない。
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「捨て身になること」について

2012-04-25 03:09:00 | Weblog
晴れ。夏日。

土井隆義「友だち地獄」を読む。

真綿で首を絞められるような「やさしさ」の中
短期的に最適な手段で「環境」に「適応」すると「安定」も「承認」も手に入らない。

どうせ苦しむのなら「未来」のある苦しみを甘んじて受け入れ
「絶壁」のような相手に「抑圧」された方が「マシ」ではないのか。

あるいは「孤独」であることを怖れず
そこからあらためて他人とつながる道を見出すのもいいだろう。

「自分のことはよくわかっている」という「証文」は誰にでも発行できるもので
その「自分の視点」が「まとも」かどうかは自分には測れないものだとしたら。

とりあえず「世界」は高の知れた「自分」よりはずっと複雑なはず。
思いがけない「居場所」を見出さないとも限らない。

もちろん最後は自ら「選択」するよりないけれど
あらためて「他人」あっての「自分」だという「事実」を忘れずに。

「現在」をまるで「永遠」のように思うのは
たとえその「切実さ」を理解したとしても「まちがっている」。

人は年をとる「生き物」。
「時の流れ」は確実に「変化」をもたらすもの。

「純粋さ」を評価したくなるのは
それが「あらかじめ失われてしまったもの」として「固定」されているから。

ところでなぜ「あらかじめ失われている」のかを問うたことはあるのだろうか。
そこにおそらくは「カギ」があると思われるのだが如何。

「たしかなもの」は「うずくまったまま」では手に入らない。
仮にそれが「静止しているように見える独楽」であればオーケー。

「堂々巡り」から抜け出すためには
「目をつぶって跳ぶ蛮勇」が必要かもしれない。

その種の「通過儀礼」は周囲をよく見回せば実はどこにでもあったり。

ご縁があったら付き合うつもり。
誰を待つともなく過ごす日々には慣れているので。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

そうした「手段」もあることをお伝えしておく。
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「軽さ」について

2012-04-23 05:07:44 | Weblog
というわけでyoutube。

以前にも採り上げたego wrappin'「色彩のブルース」について少々。

あらためて聴くといかにも楽器の音が軽い。
いわゆる「タメ」の取り方が全くちがう。

ブルースであれジャズであれもっと「腰が定まった音」なのが「常識」。
だとすると敢えて「軽さ」を狙ったということなのか。

ヴォーカルの声も「ライヴ」だと苦しそう。
いずれ「編集」によって出来上がったものだと知る次第。

中森明菜がカバーしていたのは今回初めて知ったけれど
それがいいかどうかというと微妙なところ。

出来れば「重さ」を重々知った上での「軽さ」であってほしいところ。
ある種の「魅力」を感じるからこその「発言」だと思っていただきたい。

「ポップなジャズ」などというものがあるのかどうかは不明だとして
どうやらそうとでも言うより他ない存在。

おそらく「マニア」は「ニセモノ」扱いすると思われる。
そこでいたずらに「自分の耳の確かさ」を言うなかれ。

まるで「さわり」を集めたようなメロディーだけが突出していて
歌も演奏もそこに追いついていない印象。

望ましいと言えばそうでもないようなあるような
「ジャンル」が錯綜した「結果」。

いかにも「鎖国」を続けた国の「産物」だと思えば
「不思議な魅力」があることだけは確か。
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「人であることの複雑さ」について

2012-04-23 02:58:37 | Weblog
雨。一日中降る。

一昨日は飲み疲れ、昨日は普通の疲れでサボる。
いろいろ事情があったということで。

安田浩一「ルポ 差別と貧困の外国人労働者」を読む。

わが国では「外国人労働者」を正式に受け入れない手前
「研修生」という名目で「奴隷」のように働かされる外国人(主に内陸部の中国人)がいる。

彼ら彼女らは「月1万5千円の現金」と「残業手当300円」で一日中働き外へ出て遊ぶ余裕もなく
そうした「ひどい条件」について訴えると「強制帰国」させられる模様。

「仲介業者」と「雇い主」にいいように「搾取」されセクハラやパワハラは「日常茶飯事」で
双方ともにそれを「当然」だとしているらしい。

要は「安い労働力」を基本とする「国際競争力」を失ったわが国の産業分野にとって
「貧しい外国人労働者」は「都合がいい」とみなされてのこと。

自動車産業の派遣労働者として「出稼ぎ」にやってきた日系ブラジル人たちも
「景気」が悪くなった途端に首切りに。

再就職もままならず帰国するにも微妙な状況で
それでも仲間内で助け合ってなんとかしのいでいるのだと。

この21世紀に「女工哀史」のような「現実」があるとは。
それも自分が「普通に暮らしている国」にあるとは。

なるほどこれが「貧困ビジネス」だとすると
どうやら世界各地にあれこれ存在することが察せられて暗然とした気持ちになる。

「健全な競争」でなく「相手の足下」を見なければ「自分の利益」が手に入らないのか。
そういえばそもそも「商売」はそうした「あやしさ」を常に持つものだったりすることをあらためて思い出す。

一番の問題はそうして苦しんでいる外国人の存在がわが国では「ないもの」になっていることだろう。
「負の連鎖」が「日常」である「ドームの外」についても知っておいて悪くはない。

引き続き「阿佐田哲也の怪しい交遊録」を読む。

著者は「筋金入りの不良」だけれど
「博奕打ち」を「本業」にしていた頃には上のような「現実」が「日常」だったのだろう。

もちろん動物の世界では「弱肉強食」が「当然」であり
そのことにあれこれ思いがちなのは「人間の勝手」だという考え方もある。

とはいえその著者にして「『マイナー』芸人の行く末」に「敏感」になったりするのだから
「人間であること」は相当に「やっかいなこと」だったりする。

そしてそうした「あり方」についつい「共感」してしまうつもりの自分も同様。

いずれどこかで「エゴイスト」にならざるをえないのは「事実」。
そこに「不正義」を見つけて騒ぐのはいくぶん「近親憎悪」だと思っているくらいがいいのか。

いやはや。

誰も「身ぎれい」でいることはできないのは「常識」だとして
だからこそ「身ぎれい」を求めることにもなるわけで。

「控え目な美学」をそれぞれ生きるよりない、ということにしておく。
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あらゆる「魅力」を用意しておくことについて

2012-04-20 03:05:09 | Weblog
くもり。今日もあたたか。

淡野史良「江戸あへあへ草紙」を古本屋で買って途中まで読む。

「あへあへ」と言えばご存じ間寛平のギャグで
最近ではCMで中村玉緒との共演も見られるけれど。

内容は江戸時代の「下半身事情」に関するあれこれの紹介。
「陰間」「夜鷹」「太夫」「張形」といった単語に「造詣が深い」人向き。

時代は変われどすることは「同じ」。
近代医学の見地からはほぼ「おまじない」の世界もあれこれ。

今東光の弟である今日出海が三木清の「自慰」を嫌って
むしろ「女郎買い」を「正しい」としたこともあったり。

「性」について「正しさ」を持ち出すと「やっかいなこと」になるのは
洋の東西を問わず過去の歴史を振り返ればよくわかること。

それぞれが「趣味」に合わせて好きにしたらいい。
「同好の士」が集まればまた楽し。

ゲーム理論のように「winwin関係」になればよかろう。
ここでも「他人を貶める」のはほどほどに。

とはいえ個人の「好み」は「消費」同様やっぱり人を「孤独」にしたりするので
なかなか「表沙汰」にしにくいこともある。

結局は「幸福な出会い」に尽きるのかもしれない。
各自「器量」を磨いておくべし、とか。

もちろんそれは「外と内」の両面において。
互いに「良縁」があることを祈るのみ。
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「盛衰」について

2012-04-19 05:23:09 | Weblog
ついついyoutube。

久方ぶりにkokia「調和」を聴く。

かつて友人に教えられた曲で当時は思いっきりハマったのだが
さてその後の行方はいかに。

前者」は活力に満ちて最高の出来。
後者」は3年前のヨーロッパでのライブ。

「栄華」を尽くすとその途方もない素晴らしさゆえに
その後の「瑕瑾」が否応なくクローズアップされてしまう。

もっとも体調その他の理由はあるのだろう。
ただし後者は「乾いている」。

表情もやや虚ろで肌にツヤもなく。
映像のせいだけであればいいのだけれど。

むしろ苦しそうでややツライ。
何故そうなったのかは知るよしもないけれど。

ある時期以降の吉田美和にも同じことを感じてしまう。

あれほど爽快だったはずの声が
「再現」を目指し「維持」を図ろうとして崩れる。

いずれも「素晴らしい才能の持ち主」であることは間違いなく
それらを享受できることはうれしい限りなのに。

うーむ。

もう少し「なだらかな変化」だったらいいのに。
あくまで限られた映像・音声を元にした判断なので詳細は不確か。

「選ばれてしまった者の恍惚と不安」を垣間見たような気になったことにしておく。
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「縁」について

2012-04-19 03:20:04 | Weblog
快晴。今日も汗ばむ陽気。

島田裕巳「人はひとりで死ぬ 『無縁社会』を生きるために」を読む。

かつてオウム真理教を「擁護」したとされ
大学を追われもした宗教学者による「無縁社会」を考え直すための本。

「社会的な死」と「肉体的な死」をくぐり抜けた著者は
かつて「無縁」が求められた時代があったことをあらためて指摘する。

「個人」を縛る「有縁社会=農村」から切り離された長男以外の男たちは
「都会」で「サラリーマン」となって「無縁」であることをむしろ楽しめるようになった。

一方「経済力」を身に付けた女たちは「結婚圧力」から解放され
敢えて「おひとりさま」を選択するようにもなったのだと。

また「都会=無縁」とは限らず
彼ら彼女らは「かつての縁」とは異なる「新しい縁」を求め築き暮しているのだとも。

感情を煽られて「孤独死」を怖れる前に
結局「人はひとりで死ぬ」という「事実」を見据えて「覚悟」を決めればいい。

著者の見解は至極真っ当だけれど
「腹の据わってない人々」には「厳しい」と受け止められるのだろうか。

「誰にも看取られないこと」が自動的に「哀しいこと」ではないのは
たとえば死を前にした象が姿を隠すことを思えばいいだけのこと。

そこまで「ひとりで生きた」という事実について
それぞれが考えた上で「自分はどうするのか」決めればいいはず。

ある種の「個人の尊厳」を
いたずらに「悲劇」だと解釈してしまう「貧しさ」も知っておいていいだろう。

要は「あなたにとっての悲劇」は必ずしも「他人にとっての悲劇」ではないという「事実」に尽きる。

誰にとっても「平等」なのは「いずれ死ぬこと」だけ。
その単純さを押さえておくことがむしろ「きちんと生きること」につながったり。

「縁なき衆生は度しがたし」とか。

その言葉における「縁」の意味について考え直してみるのはいかが。
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