退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

’18 盆休み4

2018-08-15 02:41:47 | Weblog
晴れ。やはり歩くと汗が出る。

映画でも観ようかと思ったものの左程魅力的に見える作品がない。
とりあえず明日以降にすることに。

藤山直樹「フロイト以後 集中講義・精神分析 下」を読む。

「精神分析の専門家」と「精神病医」が異なるものであることをあらためて。
「非科学的」にならざるをえない前者のさまざまな「歴史」を知る。

何やら「人と人が付き合うこと」の中で
「一見病人とは思えないような病人」と関係を作る領域など。

「子ども」をどのような存在として理解するのかも重要。
とりあえず「性倒錯」があることは確かだとしようか。

「概念」を持たない者には「欲求の欠乏」が「具体的な怪物」になったり。
そうした把握が「生得的」なのか「環境」ゆえなのかの違いもある模様。

そもそも「証明」など不可能な世界でのお話。
「理論家」と「実務家」の違いも興味深いところ。

例えば。

ある種のサイコパスは「非常に魅力的な存在」だったりするけれど
この世界もどこかそれに似て。

「個人の特異な能力」は決して「マニュアル」には出来ないもの。
それ以上に「こうした場所」に「踏み込む」かどうかがポイントのような。

土居健郎、小此木啓吾といった名前が懐かしく(いずれも故人)、
北山修や妙木浩之の名前も出てくる(知ってる人を挙げただけ)。

「世界の複雑さ」に対して圧倒的に無力であることの「対処法」である微妙さ。
もっともこの「いかがわしさ」こそわれわれの「基本」であることを忘れずに。

「心を病む」というのはもちろん「防御策」でもある一方
そのようになってしまう事実は「この世がジャングルであること」の証明かも。

個人的に理解しやすいのは「投影」か。

あまり他人を嫌いになることはないのだけれど
そうなった時の自分の反応はといえば「相手が自分を嫌っているかも」という形式。

「自分が相手を嫌っていること」を「相手」に見てしまうシンプルさよ。
事ここに関しては実にわかりやすい。

アル中ニコ中活字中であることを思えば
「何事かに依存しなければ生きられない体質」もありそうで。

どうやら「狂えない卑怯さ」を維持しているらしい。
いずれ「病人」であることは確かか。

あれこれ「やらかした過去」はあり。
たまたまそれが「犯罪」にはなっていないだけのことだろう。

さて。

「ヘンなおぢさん」は今宵下の妹の娘の感想文の手伝いなどさせられ。
この期に及んでマンガを感想文にしない理由を不思議に思うのみ。

それが活字本であろうとマンガであろうと
何も言いたくない作品について長々と書かなければいけないのは「苦痛」なだけ。

そもそも「表現力もしくは母国語の語彙の少なさ」が「基本」である現在ではなおさら。
せめて「好きなもの」について語らせてはどうか。

この「当然」がなぜか「現実」にならず。
「下らない活字本」以上に素敵なマンガはいくらでもあり。

「説明するのはメンドくさい」という「経済」が普通になって久しいのだから
「何事かを言いたくなる作品」についてはもっと多種多様であっていいはず。

すでに「言語の世界」を拒絶する子どもたちが少なくない現実を知っておきたいもの。
彼ら彼女らは「神経を集中したつもり」でも「魂が飛ぶ」のが「基本」。
コメント
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