山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

風がやっと止んだ

2008-02-24 23:40:59 | 未分類過去
2日間の強風が、今日の夜になってやっとやみました。
昨日は春一番だったそうですが、ぜんぜんかわいくない春一番でした。
危険なものが飛んでくるんじゃないか、自分が飛ばされるんじゃないかと、恐怖を感じる春一番でしたよ。電車も止まっちゃうしね。

ものすいごい風と砂埃のせいで、ベランダに洗濯物も干せません。
洗濯機の上もほこりまみれでした。
洗濯中にベランダに洗濯カゴを置いたら、5分もしないうちに砂だらけになってしまいました。
洗濯物は家の中に干しましたが、全部は干しきれないので、洗濯をしないままのものが残っています。

この週末は、ダイエットのために本格的ウォーキングでもしようと思っていたのにそれも中止です。
昨日はちょっと買物に出ましたが、ちょうど帰りにものすごい風が吹いてきて、目も開けていられないくらいでした。竜巻でも起こるんじゃないかと思ったくらいで、やっと家にたどりつき、中に駆け込んで、それからは2度と外には出ませんでした。

しかしね、風がやむときってどうなってるんでしょうね。
いつ止んだんだか不思議です。
だんだん弱まっていくものでしょうか、それとも一瞬にして吹かなくなるんでしょうか。
吹き始めだっていつから吹き始めたのかと思います。
ただ、昨日は出かけるときは普通だったのに、帰り道でいきなり大風が吹いてきたのを覚えています。
コンビニの店員さんが、ちょうどゴミ箱のゴミを片付けて新しい袋をセットしようとしていたのですが、替えのゴミ袋が天高く飛んで行ってしまいました。
ゴミ袋ははるか遠くに飛んで行き、もしかして車の走る道路にでも舞い降りたかもしれません。あぶないあぶない。
いきなり吹き始めるのなら、いきなり静かになるのかもしれませんね。

結局、この2日間は何もしない休日でした。
明日からまた仕事です。
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わかったこと

2008-02-24 18:20:38 | 未分類過去
求めると答えが得られるっていうのは、本当なんだな~
と驚いているしだいです。

江原さんの本を読んでいたら、私の場合、「適職」と「天職」をごちゃまぜにしていることに気がつきました。

「適職」とは、自分が持っている資質の中で、「お金を得ることができる技能を生かした職業」のことだそうだ。
一方、「天職」というのはお金とは関係なく、自分のたましいが喜ぶことなのだそうだ。
その両方のある人が充実した人生を送ることができるのだろう。

私の場合「適職」は今の文書校正の仕事であり、これは安いながらも一応安定した収入を得られる状況になっている。経営者側から見て、私くらいの働きの人間に対して正社員と同じ給料を払う価値があるかどうかと考えたら、微妙なところだろうな、と私自身思うわけだ。社会保険をつけてくれるだけでもありがたいというべきかもしれない。正社員に昇格するなら、誰から見てもはっきり感じられるほどの、それ相応の活躍をしなければいけないと思う。そして、そういう活躍の見通しが自分自身にも期待できないというのが最近の自分に対する問題だった。これ以上どういう成長のあり方があるのか、いきづまりを感じているのだ。しかし、これはこれでこのまま適当に成長しつつ、収入を得ていればいいんだ、という思いに至った。こっちは「適職」なんだ。
そして、これは私の「コリドラス」の部分なんだ。

一方、私は「天職」をみつけ、それに力をいれなくてはいけないんじゃないか?こっちは収入なんか関係ない、自分の魂が喜ぶことである。
これについては詳しくは書かないが、つまりこっちの部分は「山本飛鳥」の部分だと思う。

だから、「がんばれコリドラス」じゃなくて、「がんばれ飛鳥」ということで、力を入れてみようかと思ったしだいだ。
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花を飾ること

2008-02-24 16:50:20 | 未分類過去
江原さんの本を読んでいたら、家の中に観葉植物などを置くのはよいことだそうだ。
そこから生命の浄化力のようなものが発生するのだろう。

我が家は非常に狭いので、観葉植物を置くような場所がない。
置けるのはせいぜい仏壇の切花くらいなのだが、それもお金の節約のために切らしていることが多い。
会社帰りに花屋さんの前を通り、きれいだな~何か買おうかな~と思っても、ついついけちってやめてしまう。最近も桃と菜の花の束に惹かれたが、けっこう高いのでやめてしまった。それで、今仏壇の花びんの中には、正月の花束の中にあった千両の葉っぱだけが残っている状態だ。

でも、本を読んでいて、ふと気がついた。
たとえば、月に1000円は仏壇の花に使おうと思って、そこに予算を取るならば、けっしてそれ以上にはならないわけだ。例えば、500円の花を2週間に1回買うとすれば、それである程度の日数、花を飾っておくことができる。
1000円というのは、ほぼ私の時給だから、月に働く120時間のうちの1時間分の労働を花を買うために働くとしても、ほんとうに大したことではないのだ。

父の命日は1日、義母の命日は14日だから、その日に合わせるといいかもしれない。
あるいは、もっと小さくて安い花を毎週買うのでもいい。一輪だっていいはずだ。

いつもいつも花を買う余裕はないと思いつつ、花を飾らずに暮らしていることが、心のまずしさにつながっていることに気がついた。

本当に花を買うお金がないほど貧しいわけでもないのにね。

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神秘的な出来事

2008-02-24 01:52:18 | 未分類過去
今、江原啓之さんの「スピリチュアルワーキングブック」を読んでいる。
なんとなく、仕事の方向性に不安を感じるからでもある。
本屋さんでばったり出会って買ってきた。
「適職と天職の違いについて」また「働けることへの感謝」など、考えてみればあたりまえのことながら、大切なことを忘れ、自分よがりな考えをしていたなと気付かされることもあった。

この本には、オーラの泉に出てくるような、前世とかの話は出てこないのだが、
スピリチュアルなというか、精神的な、そして何か計り知れない神秘的な力を感じることがあるということを思い出した。

私は守護霊というものを感じることがある。自分が求めている物事にタイミングよく出会うということも少なくはない。

ところで、私は中国というものには何か深い関係があるように感じることがあった。どう考えても、欧米ではなく、中国方面に魂が引き寄せられるのだ。
私は中国の人とは数人、個人的に付き合ったこともある。
魯迅と日本留学時代の藤野先生のことも、中国人から教わった。

それで、以前魯迅の小説を読んでいたことがあったのだが、そのとき、深夜に小説を読み終え、その作品について魯迅自身が書いた添え書きのようなものを読んでいた。

そして、そこに日付が記されていたのだが、なんとその日付が偶然にも私がそれを読んだその日と同じだった。

鳥肌がたちました。
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呼び覚まされる無限の記憶

2008-02-24 01:19:44 | 未分類過去
人間の脳ってのは、自分が見たものを克明に覚えているものだ、というのを聞いたことがある。実際には記憶にないと思っていても、実はテレビ画面のように、その隅に映っているものさえ脳裏に記録されているとかいう。
それは正直言って信じられない。そのときに意識もしないものが脳裏に焼き付けられているはずはない。

しかし、自分の視界に入ったもののうち、無意識のうちに記憶されているものがないとは言えない。

だから、目を閉じてじっと思い起こすと、映像として記憶によみがえってくるものがあるのだ。
たとえば、「なかまゆきえ」ってどういう字を書くんだったかな?と思った時に、目をつぶると、テレビドラマの字幕なんかが思い出されてきて、そこに仲間由紀恵という文字が浮かび上がる。由紀絵でも由紀枝でもなかったということが、映像として現われるのだ。
これは、視覚のみならず、聴覚の記憶でもあることだろう。

私が不思議だと思うのは、毎日仕事をしている最中に、過去の視覚の再現が起こることが度々ある。それは、仕事で文書を読みながら誤字や脱字を探しているときに起こるのだが、何年も前に仕事で街中を歩き回っていたときの映像が脳裏に現れるのである。
それが、そのときそのときによって違う場所であり、どこかの路地の景色だったり、ビルの前だったり、あるマンションの廊下だったり、川べりだったり、公園だったりと、それはそれは様々な景色が勝手に映し出されるのである。
私は文章の内容も一応追っている。しかし、その文章の内容と景色とは、何かの言葉の連想でつながっているわけでもなく、無作為に出てくるものだから、どういう相関関係があるのかさっぱりわからない。
読んでいる波長と歩いている波長が同じなのかなと思うこともある。

そして、出てきた景色が、どうして記憶に残っていたのかもまるでわからないのだ。とくにそこで何か出来事があったわけでもなく、印象深い場所であったわけでもない。その場所を覚えていたという意識もないのに、どこかしらその歩き回った様々な場所が出てくるのである。
ということは、やっぱり私の脳みそは数限りなくすべての歩き回った景色を記憶しているのかもしれないと思う。
思い出される景色は、必ず歩き回る仕事をしていたときのもので、そのほかの仕事や遊びで出かけて行った景色が現われることはない。

黙々と歩き回ることと、黙々と読み続けることは、脳波に共通するものがあるのかもしれない。

そして、もしかしたら今度は、私の脳みそは読んでいる文書の中の言葉を、数限りなく覚えているのかもしれない。
今度、別の仕事をしたときに、つぎつぎに文書の言葉が現われたりしたらどうしよう。

記憶力がなくて困っている私であるが、無意識のうちに記憶されるものが無限にあると思うと、不思議でもあり、恐ろしい気もする。

記憶していないと思うのは、実は記憶していないのではなく、記憶したものが意識の上に出てこないだけのことなのかもしれない。

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