今日は、久しぶりに土田の浜に下りてみた。
散歩を楽しみ、また、潮風に身を任せて佇むために。
海に着くまで、誰にも会わなかった。
声の届かぬ、はるかな防波堤に、釣り人の姿が数人あった。
人の姿を見て、妙な安堵感を覚えた。
それとは何の関係もないことだが、渚に立ち止まって、眼前の風景を眺めているうちに、先日読んだ、まど・みちおさんの詩を思い出した。
うみとそら
うみは おとうと
そらは にいさん
あおい あおい
あおい ゆめを みてる
いつも いつも
ふたりで
うみは おとうと
そらは にいさん
あおい あおい
あおい うたを うたう
いつも いつも
ふたりで
うみは おとうと
そらは にいさん
あおい あおい
あおい あすを くれる
いつも いつも
みんなに
ひらがなだけの平易な詩。説明は不要である。
しかし、奥は深い。
波打際をたどって、突き当たりの丘に上がると、そこに一軒屋がある。
同級生のYさんの家である。
元気だろうかと、家に立ち寄ってみた。
先日の、Mさんの葬儀に姿のなかったことも気になっていた。
Mさんは、YさんのことをYAEちゃんと呼び、独り居のYさんを案じる情けを備えた人であった。それはYさんにも通じているはずである。
Yさん宅の庭先で、落日を眺めながら、三人で話したことが一度ある。
あれは、三年くらい前だっただろうか。
その後、土田の浜まで歩いたときには、折にYさんの家に立ち寄ったけれど、いつも留守だった。子供はすでに家を出て、ご主人の亡き後は独り身のYさんだから、私同様、留守のことが多くても、不思議はない。
が、今日は不在が、少々気になった。
葬儀の日に会わなかったこと、そして、今日も留守であることが…。
Yさんの前庭の花を眺めさせてもらった。
庭の手入れが行き届いている。
紅梅の枝々の遥かに、海が見え、絶え間なく潮騒が聞こえてきた。
ボケの花が咲き、クリスマスローズの花も咲いていた。
帰宅後、Yさんに二度電話してみたが、まだ通じない。