ぶらぶら人生

心の呟き

久々の大塚散歩

2017-09-19 | 散歩道
夕食の前に、1000歩の散歩に出かけた。
曼珠沙華が咲いていた。
(家の庭にも咲いているのだろうか?)


道辺の花


施設の前に


民家の庭に
私の背丈より高いケイトウの花

朝日は美しかったのに、
日中は、重い雲の広がる一日となった。
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4階の住人

2017-09-19 | 身辺雑記
9月19日
十分寝たはずなのに、
朝から頭が冴えない。
目ざめると、カーテンの裾から
夜明けの兆しが入り込んでいる。

元気を奮いたたせて、
起き上がる。
(これが、家での生活と異なるところ。)
カーテンを開け、洗顔。
再び、窓辺に立つと、
朝日は、すでに山の端を離れていた。



河口の部屋にいると、
時間帯によっては、
深閑として、
ひとりこの世に生きている感じを覚える。

(肉声が聞こえないという意味では、
家の方が、もっと徹底しているけれど。)


8時過ぎから、施設の人が回って体調伺いなどしてくださる。
トン、トン、トンと、3回ノックして、
各部屋を回られる。

私は、声の聞き分けには、敏感な方だと思っている。
が、今朝の声からは、
訪問してくださる人をイメージできなかった。
ドアを開けると、初めてお会いする方だった。
名札をちらっと見て、
Yさんとおっしゃるのだな、と記憶する。

その後は、昼食を届けていただくまで、
人の声を直接聞くことは、まずない。

ただ、私の部屋のやや斜めの位置に、
ソファーが一つと、椅子3脚が置かれており、
そこで話す人の声は、耳に届く。
話の内容はわからないけれど。

4階の、社交場の一つである。(下の写真)






毎日、10時前後に、老女の話し声が聞こえる。
最近になって、10号室のOBさんと、OBさんの介助に来られる人との対話であることがわかった。
介助者は、廊下の散歩相手をしたり、話し相手になったり…、私の知らない諸々の援助をなさっているのだろう。

4階で、人の集える場所は、他にもある。
談話室もあるし、南廊下にはテーブルとソファー、椅子などが置かれている。
私自身、今では施設の生活に慣れ、そのテーブルまで、山陰中央新報を読みに行くことを日課にしている。

今日、新聞を読んでいるとき、人の気配を感じて目をあげた。
6号室のOKさんらしい、とすぐ分かった。
やはり付き添いの人と一緒だった。
(食膳棚に記名があるので、何号室に何という方がおられるというのは知っている。
けれども、いまだにお顔を知らない人がある。)

初対面の挨拶をし、お年を尋ねると、「3年生まれ」と答えられた。
昭和3年のことだろう。
私の亡き兄と同年である。

昨日、新聞を読み終えて、自室に戻ろうとしたところ、ソファーに15号室のNKさんが、端然と座っておられた。
「お久しぶりです。花火大会の日以来ですね…」
と言いつつ、座れと言われるままに、ソファーにかけて話す。
二人だけで話をするのは、初めてである。

NKさんも、介護の方にお世話にっておられるのだという。
見た目より、体調は、良くない様子である。

話しているうちに、同じ女学校に学んだことがわかった。
ただ昭和4年生まれと8年生まれなので、完全なすれ違いである。
私は終戦の年の4月に入学、NKさんは、その年の春に卒業されている。

「終戦までは大変でした。戦後しばらくも…」と話すと、
「私たちは、勤労奉仕ばかりで、何も勉強しなっかたの」
「青春時代は台無しだった」とも、語られた。

今の容姿から察して、女学生時代は、きっと爽やかな美少女だっただろう。
「転勤族の主人についてまわり、定年地に家を建てたの。でも、主人の実家、私の実家、夫婦で建てた家、3軒とも、今は空き家なの」とも、話された。
今の時代にはあり得る話だ。

一時代の歴史を背負って来られたような方だ。
この施設の4階の住人は、戦後生まれのKさんを除けば、戦前戦中を生きてきた人ばかりだ。
周囲を見ていると、様々な心身の苦痛を背負っておられ、<幸せな老後>とは言えそうにもない。

だが、この恵まれた施設で過ごせる感謝の気持ちは、入居者みんなの心にたたまれているに違いない。
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