草花舎の庭に、今まで見かけなかった花が、二色咲いていた。(写真)
その名をYさんに尋ねると、「アゲラタム」、別名「カッコウソウ」ともいうと教えてくださった。覚えにくい名前である。庭から戻ると、すぐメモを取っておいた。
ネットで調べてみると、アゲラタムとはギリシャ語で<年をとらない>という、めでたい意味なのだと知った。なぜその名がつけられたのか、理由は記されていなかったので分らない。が、この花が、不老長寿を意味する名前をもらうとは!
キク科、カッコウアザミ属。
別名、「カッコウアザミ」、とも書いてあった。
花がアザミに似ており、、葉がシソ科のカッコウという植物に似ているからとか。
確かに似通ったところがある。
今日は、「コチア」や「アゲラタム」など、初めての植物との出会いもあったが、スーザンさんという外国の方とも言葉を交わすことになった。
日本語の会話を教えてほしいと頼まれて。
教えるなど、大それたことはできそうにもないが、一緒に話すくらいならと、草花舎でお会いしたのだ。幸い英語を自在に話せるTちゃんが、私とスーザンさんとの間を取り持ってくださるので、なんとか寛いでひと時を過ごすことができた。
前々からその話は出ていたので、先日、山口に行ったとき、手がかりとなる本はないかと探し、参考になりそうなテキストを二冊求めてきた。
スーザンさんの日本語会話が、少しでも上達するようにと工夫しながら語るうちに、今まで気づきもしなかった日本語の特色を改めて認識したり、日本語は随分複雑な言語であることなどを考えさせられたりした。
スーザンさんとの付き合いで、私自身も英会話ができるようになるといいのだが、なかなかそうは行かないだろう。ただ、耳を澄ましていると、完全に忘れていた語彙が少しずつ蘇るのが嬉しかった。
スーザンさんから日本語の発音が聞き取りやすいと誉められた。詩の朗読にふさわしい声だとも。
老いても、人に貶されるより、たとえ世辞と分っていても、誉められる方が嬉しい。
おめでたい話ではあるけれど……。
同じ町内に在住のスーザンさんと、一緒に帰ってきた。
互いの会話はスムーズには行かないのだが、視野に入るものの中から、幾つかの単語を日本語で示しながら……。
今日は、未知の体験をスタートさせた日でもあった。
「これはゲンペイソウ。赤と白が源氏と平家を表すの」
と、Yさんに教えてもらった。
あまりに花が小さく(特に赤い方の花はみすぼらしく)、愛らしいけれども、雑草と見間違いそうである。(写真)
京都の天龍寺で見た「源平桜」を思い出した。その桜は見事であった。
二色の花を咲かせる草や木に、源氏と平家の名を冠するのは、いかにも日本人らしい命名の仕方だ。
と、Yさんに教えてもらった。
あまりに花が小さく(特に赤い方の花はみすぼらしく)、愛らしいけれども、雑草と見間違いそうである。(写真)
京都の天龍寺で見た「源平桜」を思い出した。その桜は見事であった。
二色の花を咲かせる草や木に、源氏と平家の名を冠するのは、いかにも日本人らしい命名の仕方だ。
昨年初めて知った<ケムリの木>は、今年も風変わりな雰囲気で、庭に自らの存在を示していた。
「私は私です」と自己主張しながら、他とは異なる葉と花をつけているのが楽しい。(写真)
花は、これから時間をかけて、次第に<煙>の様に変化するのだ……。
「私は私です」と自己主張しながら、他とは異なる葉と花をつけているのが楽しい。(写真)
花は、これから時間をかけて、次第に<煙>の様に変化するのだ……。
オガタマの花が、昨年とは比べ物にならないほど、沢山の花をつけていた。ほのかな香を漂わせて。
Yさんは、成長しすぎた木を剪定し、もっとこじんまりとした木に育てたいのだ、と話しておられた。
つい最近まで、広々としていた草花舎の庭が、木々の葉が茂ると同時に、開き空間が狭くなった感じだ。
庭は、自然の芸術作品とも言える。
Yさんのイメージにそって、オガタマの木はどんなふうに形を変えるのだろうか、楽しみである。
Yさんは、成長しすぎた木を剪定し、もっとこじんまりとした木に育てたいのだ、と話しておられた。
つい最近まで、広々としていた草花舎の庭が、木々の葉が茂ると同時に、開き空間が狭くなった感じだ。
庭は、自然の芸術作品とも言える。
Yさんのイメージにそって、オガタマの木はどんなふうに形を変えるのだろうか、楽しみである。
柿若葉は、少し色の濃さを増していた。(写真)
一番美しい盛りは過ぎたのかもしれない。
草花舎の木々の中では、老木のうちに入るだろう。
それでも、柿若葉は、歳時記にも取り上げられており、新緑の美しさが、多くの木々の中で、抜きん出ていることは間違いない。
一番美しい盛りは過ぎたのかもしれない。
草花舎の木々の中では、老木のうちに入るだろう。
それでも、柿若葉は、歳時記にも取り上げられており、新緑の美しさが、多くの木々の中で、抜きん出ていることは間違いない。
草花舎の窓辺によって、外を眺めていた。
庭の木々が、みな若葉色をしている。それぞれに異なる、個の色をして。
外に出て、木々を眺めた。
楠若葉が、赤みがかった、若やいだ葉を青空に掲げていた。(写真)
草花舎の楠は若木である。艶やかな美しさは、若さゆえ? と、少々羨ましい。
歳時記を見ると、【若葉】の項に、次のような言葉が並んでいる。
<谷若葉・里若葉・山若葉・窓若葉・若葉時・若葉風・若葉雨・朴若葉・蔦若葉・柿若葉・椎若葉・樫若葉・楠若葉・若葉寒>
みな味わいのある言葉である。
楠若葉もあり、窓若葉という言葉もある。
若葉寒という言葉さえ、あるのだ。なるほどと思った。というのは、昨日など、朝から晩まで、私は暖房のお世話になったのであった。もう立夏も過ぎたというのに。
季語として存在するくらいだから、昔から季節はずれの寒さはあったらしい。
庭の木々が、みな若葉色をしている。それぞれに異なる、個の色をして。
外に出て、木々を眺めた。
楠若葉が、赤みがかった、若やいだ葉を青空に掲げていた。(写真)
草花舎の楠は若木である。艶やかな美しさは、若さゆえ? と、少々羨ましい。
歳時記を見ると、【若葉】の項に、次のような言葉が並んでいる。
<谷若葉・里若葉・山若葉・窓若葉・若葉時・若葉風・若葉雨・朴若葉・蔦若葉・柿若葉・椎若葉・樫若葉・楠若葉・若葉寒>
みな味わいのある言葉である。
楠若葉もあり、窓若葉という言葉もある。
若葉寒という言葉さえ、あるのだ。なるほどと思った。というのは、昨日など、朝から晩まで、私は暖房のお世話になったのであった。もう立夏も過ぎたというのに。
季語として存在するくらいだから、昔から季節はずれの寒さはあったらしい。
草花舎の庭の、奥まったところに、前々から気になる老木があった。
それが、花を咲かせていることに、今日気づいた。
毎年、花をつけていたのかどうか、気づいたのは今年が初めてである。
老木なのに、枝先に可憐なピンクの花房をつけているのだ。(写真)
<老いてなお>と見上げたのは、わが身の老いを思い起してのことであった。
葉も花も繊細。
名木に違いないと思うのだが、残念ながら名前が分からない。
(追記 5月23日、古木の名前が判明した。題名から?を外し、「ギョリュウ」とした。)
それが、花を咲かせていることに、今日気づいた。
毎年、花をつけていたのかどうか、気づいたのは今年が初めてである。
老木なのに、枝先に可憐なピンクの花房をつけているのだ。(写真)
<老いてなお>と見上げたのは、わが身の老いを思い起してのことであった。
葉も花も繊細。
名木に違いないと思うのだが、残念ながら名前が分からない。
(追記 5月23日、古木の名前が判明した。題名から?を外し、「ギョリュウ」とした。)
草花舎の庭に、今年もサンザシの花が咲いた。(写真 後方に見える花はウツギ)
サンザシという音の響きが気に入っている。
中国原産のサンザシは、元来白色のものが多いらしい。
草花舎のサンザシは、深紅である。
「メイフラワー」とも呼ばれる<西洋サンザシ>には、白以外に紅色のものもあるというから、それの類なのだろう。
サンザシという音の響きが気に入っている。
中国原産のサンザシは、元来白色のものが多いらしい。
草花舎のサンザシは、深紅である。
「メイフラワー」とも呼ばれる<西洋サンザシ>には、白以外に紅色のものもあるというから、それの類なのだろう。
草花舎に出かけた。
食事の前後、庭を歩く。
5月の陽光のあふれる庭を。
初めて見る植物に出会った。
寄せ植えの鉢の中に、白銀色をして、ひょろりと伸びた植物があった。
ひときわ目を惹く風情である。
鉢の前に腰を下ろすと、札が添えてあった。
その名は、<コチア ダイヤモンドダスト>。(写真)
確かに細氷を身にまとったかのような姿である。
季節にはそぐわないが、クリスマスツリーのようにも見える。
私の好きな作家の一人、南木佳士の初期の作品に、「ダイヤモンドダスト」(芥川賞受賞昨)のあったことを思い出した。
それは、私にとって、南木佳士という作家との出会いであった。
南木佳士は、医者であり作家でもある。氏の作品には、医師としての体験が、色濃く影を落としている。
食事の前後、庭を歩く。
5月の陽光のあふれる庭を。
初めて見る植物に出会った。
寄せ植えの鉢の中に、白銀色をして、ひょろりと伸びた植物があった。
ひときわ目を惹く風情である。
鉢の前に腰を下ろすと、札が添えてあった。
その名は、<コチア ダイヤモンドダスト>。(写真)
確かに細氷を身にまとったかのような姿である。
季節にはそぐわないが、クリスマスツリーのようにも見える。
私の好きな作家の一人、南木佳士の初期の作品に、「ダイヤモンドダスト」(芥川賞受賞昨)のあったことを思い出した。
それは、私にとって、南木佳士という作家との出会いであった。
南木佳士は、医者であり作家でもある。氏の作品には、医師としての体験が、色濃く影を落としている。