ぶらぶら人生

心の呟き

津和野稲荷神社から見た青野山

2008-05-10 | 旅日記
 稲荷神社が高所にあるので、そこから視界に入る青野山の姿は、町中から眺めるのとは、かなり異なっていた。(写真)
 かつて私が、日ごと、町の路地から眺めた青野山は、丸みを帯びて穏やかであった。 それが、私にとっては一番なじみ深く、脳裏に焼きついている青野山の姿である。
 しかし、高い位置から、山頂の近くを近景の山と一緒に眺めるのも、決して悪くない眺めではあった。

 山は見る位置によって、随分姿を変えるものだ。
 山だけに限らず、視点を変えることで、ものの見え方は、随分違ってくるのだろう。
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盛り上がる木々の彩り

2008-05-10 | 旅日記
 このところ、どこの山も美しい。
 山口からの帰り、山々によって、木の種類がかなり異なることに気づいた。それを感じさせるのは、新緑の季節であればこそ、なのであろう。

 山口周辺には、黄色い木々が目立つ。山の一部がまるで黄色に彩られているのだ。しかし、近辺の山々が同じ彩かといえばそうでもない。山によりけりであるのも面白い眺めであった……。植物の植生ということを思ってみたが、山の木々のことはよく分からない。

 山口線の沿線や国道周辺の山々には、四月、白い辛夷の花を沢山咲かせる山と、そうでない山とがあることに、近年気づいている。
 今年は、黄色い花を咲かせて盛り上がる山と、そうでない山とがあること、さらに、山によって黄色の粗密さにも、違いのあることに気づいた。
 何しろ、遠景なので、その花の実体は、よく分からないのだが…。

 津和野の稲荷神社の境内近くにも、やはりもこもこと花を咲かせた木があった。(写真)
 しかし、この木の花は、黄色より地味な色をしている。
 この時期、山々が生命力に溢れ、華やいで見えるのは、葉の色によるものばかりでなく、木々の花の色が、山の彩色に大きく関わっているようだ。
 友人も私も、木々の種類の見分け方に疎く、せっかく木々が、自らの個性を最も発揮しているこの時期なのに、その見分けのできないことを残念に思った。

 昨日、読売新聞に、あの黄色い木の正体を明かす記事があったと、友人から電話があった。
 <スダジイ>というらしい。
 早速、木の本を開いてみた。ブナ科のシイ属で、5、6月ごろ黄色の小さな花が枝先に集まり、穂状の花房を下げる、とある。なお、果実はドングリ、生で食べられる、とも記されている。
 友人の説明とほぼ同じである。
 花の咲く頃、匂いを発すると、友人の説明にはあったが、私の見た二冊の本には、その説明は載っていなかった。
 とにかく、山が黄色く見えるのは、スダジイの存在によるものに間違いあるまい。

 子供の頃、神社の森で、小ぶりのシイの実を拾って食べた。白い実を食べると、素朴な山の味がした。多分、あれは、スダジイの実だったのであろう。

 写真に収めた稲荷神社の木も、ブナ科のシイ属には違いないかもしれない。ただ、花の色からして、スダジイではなさそうだ。
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津和野 稲荷神社

2008-05-10 | 旅日記
 山口に出かけた翌日、帰途は友人の車に便乗、ドライブがてら、五月の稲荷神社に詣でた。朱塗りの社が、五月の陽光と緑に、ことのほか映えていた。(写真)

 遠い昔の話になるけれど、津和野に在住した四年間には、時折、散歩のつもりで長い階段を上った。その後にも、訪れることは幾度かあった。が、今回は実に久しぶりであった。

 稲荷神社は高所にあるので、見晴らしがいい。
 盆地の町を眼下に見下ろし、五月の風に吹かれながら、今在ることを喜びとし、一方、懐古の思いにも浸った。
 昔のように自分の足で、300余段を歩いて上ることは、もうないだろう。
 この日のような機会がない限り、訪れる日はないのかもしれない。

 社のある山まで、ささやかなドライブを楽しんで、連休明けの人気の少ない境内で、友人との語らいのひと時を楽しんだのだった。
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グラントワへ (『国立能楽堂コレクション展』)

2008-05-10 | 身辺雑記
 街へ出て、グラントワの建物の中にある<ポニイ>に寄ったついでに、『国立能楽堂コレクション展』を観て帰ることにした。
 中庭で演じられている神楽舞を横目に見て。(写真)

 能や狂言そのものを観るのではなく、それに付随した衣装や面などを見ることに、どれほどの意味があるのだろうかと、やや懐疑的であったが、知らなかった世界を間近に見ることは無駄なことではなかった。
 華やかな能装束、それとは対照的な、地味で控えめな狂言装束。
 能と狂言の、異なる芸能の、それぞれが持つ特色が、そうした衣装にも現れているのが面白い。
 能面と狂言面の世界も、間近に見る楽しみがあった。
 写真という映像記録の残せなかった時代に、丁寧に書き残された絵画や文献も展示されていて、伝承のあり方の変遷といったことにも思い及んだ。

 何しろ、本格的な能や狂言は、学生時代に一度見ただけである。
 当時、古典芸能への関心も知識も乏しく、能はすこぶる退屈な芸能だと思った。狂言の方は、なじみのない言葉でありながら、その所作から、十分おかしみを感じることができたのだったけれども……。

 それ以来、積極的に能狂言に親しもうという意欲も湧かないままに、現在に至った。この日、展示物を観ながら、機会があるなら、その世界に浸ってみるのも、意義のあることだろうと思い始めた。
 あまりにも無知なので、ミュージアムショップで、本を三冊求めて帰った。
 その道の素人に、楽に入門の役を果たしてくれそうな二冊、
 「あらすじで読む名作能50」と「あらすじで読む名作狂言50」。
 単に代表作のあらすじ紹介に終わらず、能狂言についての解説も、かなり添えられている。
 もう一冊は、世阿弥著「風姿花伝」。
 こちらは、蔵書を持っているけれど、古典文学全集の一部になっていて、物々しい。そこで、気の向くままに読めそうな岩波文庫を求めてきた。
 野上豊一郎・西尾実校訂の本である。入手した本は、昭和33年に校訂されたもので、本の末尾に、西尾実の<校訂者のことば>が添えられている。
 昭和33年といえば、全く偶然のことであるが、その年に一度だけ、西尾実先生にお会いしたことがある。不思議なご縁だと思いながら、<校訂者のことば>を読んだ。

 また、「風姿花伝」と言えば思い出す、数少ない言葉、
 <秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず>
 との言葉を文中に見つけて嬉しくなった。
 能楽の世界を超えて、味わうべき言葉が、この書の中には、沢山潜んでいるように思う。
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グラントワへ (レストラン「ポニイ」で)

2008-05-10 | 身辺雑記
 もう四日前のことになるが、初夏の日差しに誘われるように、街に出た。
 髪の手入れが主目的だった。が、あいにく休業日だったので、グラントワに向かって歩いた。どこかで、コーヒーを飲んで一休みしたい、との思いがあって……。

 レストラン<ポニイ>には、<準備中>の札が下がっていた。しかし、開店の準備はすでに整っているらしい中の様子を伺っていると、店員に「どうぞ」と言われ、開店前のお店に入れてもらった。

 前庭の見える位置の座席に座り、戸外を眺めた。
 五月の木々の緑が、目にさわやかである。
 わざわざ街に出てきた目的は達せられなかったが、コーヒーを飲みながら、この日にしか出会えない風景との対話を快く思った。

 グラントワの中庭では、神楽舞が演じられるらしく、太鼓の音が響いていた。
 神楽舞の好きな人は多いらしい。私は、子どもの時になじまなかったせいか、大人になった今も、神楽との縁は疎遠である。この際、中庭に設置された特設の舞台で演じられる舞を、見てみようかという気持ちも湧いてはこなかった。

 その代わりというわけではないが、街に出たついでに、現在、石見美術館で行われている『国立能楽堂コレクション展』をのぞいてみようと、座席を立った。
 レジに行こうとしたとき、花瓶に活けられた花に目が止まった。
 私の好きなピンクのカスミソウを主に、紫のあやめ(?)とカラーがあしらってあった。(写真)
 一つの花瓶に、さりげなく活けられた五月の花々を快く眺め、店を出た。

 5月6日のことであった。
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