「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20070616

2007-06-16 | 矮小布団圧縮袋

○JEサイトにアルバム「39」ジャケット紹介。なんつーか目出度いつーか伝統的に寿な柄だ。でも39つったらやっぱりこれですよ(笑)というわけでこともあろうかThe Cureのbloodflowers(2000)から「39」を(爆)かけ流し状態で自宅の掃除と洗濯と宿題の原稿入力と再放送NHK「風林火山」実況に励む(^^;;)所詮ひねくれ者のそれがしであった。しかし奇妙にも2000年頃といえばKinKiでいうと自分的にはC albumからD albumの間の頃の祭りだった時でその当時「bloodflowers」を買ってすぐには開けず少し経ってから聴いてハマったという不思議な経緯を辿っている。どうしてこのような傑作を買ってすぐ聴かなかったのかおかしい。あるいは自分はRobert Smith先生より歳下だからこの当時はまだこの問題が我が身に迫って感じられなかったのかもしれない。思い返すと1/2liveの反動でDOAやPSB云々から過去盤から新譜まで勢いづいて再聴しだし[si:]を経てE☆E付近から加速度をつけた感じで、さらにこの一年半位で日本のやつまで含めて買うCD量がまた増殖した。自分の素のBGMとして「格好よさ」の感覚に違和感がない音楽に正直に反応するということは、E☆Eもラジオでこないだ言ってたようなことだが、何のことはなく自分の子供の頃から現在まで一貫している音楽の聴き方であった。1997年のKinKiのA albumの時も、ふとテレビで流れて気になった曲が所収されているので買ってみたら実は流行りものだったとわかってきたくらいで、ましてやJ’sファンでもなく、本来「流行りものだから価値が高い」いう考え方自体が欠落している。流行り廃り関係なく音源が欲しくなればモノラルAM波でもいいからどんなもんやで流れるたったワンコーラスの「会いたいよ」とか「わかりました」などを張ってテープに録る、という「佳曲偏愛」者にすぎなかった。ある程度の期間そうしてKinKiをひょんな経緯でwatchingし続けることになってしまって、今改めて思うが、やはりそれを一つの切り口としてそれまで全然興味も関心も無く無縁だった現代社会全体の経済や政治にまで至る諸問題に関する様々な事象を野次馬の如く勉強することができた(そして何よりそうした情報に接しようとするだけで、専門教育も受けずにPCやinternetの技術に慣れた)点、意義深い。今自分の中にある○○歳の人間としての思考や批判の方法が形成されているとすれば、その一部のどこかに影響を与えているはずだ(以前の世捨て人であった世間知の皆無度はひどかったし、今でも世間知らずであることには変わりない)。…7月になったら、きっとそんな感慨とともに10年を振り返りながら、そして多分、他の幾つかの聴きたいアルバムとともに、「1997年の頃の自分と明らかに変化した2007年の自分の耳、しかしむしろ、1987年とも1977年とも明らかに連続した意味を持ってつながっていることが自覚的に見通せる2007年の自分の耳」が、改めて「39」を併聴することになるだろう、それもおもしろかろう、という予感がする。で、未収録トラックってこれだけですか?(^^;;)(2007616)

※(追記)↑Cure目的でbarksクリックしたら、奇しくもそこにも右端バーナーにsankakuが大量繁殖中(爆)はしかウイルスとかじゃなかろうが同じページに並ぶと無気味さ五割増しですな(笑)。
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