波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

なぜか今宵も

2022年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム


新聞の川柳欄にあった『冷めた目でお手する犬を見てる猫』。従順に愛嬌振りまきながらお手していた自分を恥ずかしく思い出す若かりし時代、するとだんだん調子に乗ってくる相手を見極める観察機会だったのかなあと遅ればせながら思う。自分を冷めた目で見つめるには随分と時間がかかる。

家の裏のお兄ちゃんが小学生の波風氏にレコードを聞かせてくれた。今でも驚くが、高校生が自作したアンプとスピーカー、レコードはボサノバの『ブラジル66』。レコードも、ステレオも、ボサノバも初。お兄ちゃんのことをふと思い出し、トイレ掃除の後にブラジル66を聞く。良いなあ。最初に買ったレコードがブラジル66。心が柔らかな時の衝撃が半世紀間も影響を与え続けている。

画像は、餅(白は市販品、薄緑は草餅の波風製)を薄切りにしてかき餅に仕上げる下準備。乾燥したらママヨさんに油で揚げてもらう。塩か出汁醤油をふって食す。スーパーで売っている『江戸揚げ』より余程美味い。ところで、『江戸揚げ』って北海道固有の商品名らしい。

画像の本は図書館から借りてきた『小沢昭一 百景 なぜか今宵も ああ更けてゆく』(晶文社:小沢昭一著)。いましたよ、いましたよ、欲望に正直で、面白くて、下世話で、知的で、粋な語り口の文体で、戦争反対・憲法守れの芸人が。俺としたことが何故読まなかったのかと猛反省、嘘ですが。死ぬまでに読んでおく中に『小沢昭一』は入れて悔いはなさそう。勢いで、2冊も発注してしまい後悔(涙)。時々聞いていたラジオ『小沢昭一的こころ』でこと足りていたのが失敗。


TVドラマほぼ見ないがこのドラマは面白い。『だれかに話したくなる 山本周五郎 日替わりドラマ』。たった30分間なのに毎回「ほろっ」とさせられる。凜とした女性が良い ママヨさんが加藤周一著『羊の歌』を読んでいるのは、息子が座右の書としてユーチューブで深読みして紹介いるから。こういう種類の本を家族が読むのは何だか面白いなあ。

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バレンタインに 初恋の人

2022年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム

菓子メーカーのバレンタイン向け新聞広告。手作りや豪華なチョコでなく、我が社の高級指向商品をこの機会にどうぞが伝わる。「この世界に、エレガントなひとときを」のコピーにオードリー・ヘップバーン(1929-1993年)の美しい横顔、何の不思議さも感じずに見とれてしまう(笑)。印刷された顔なのに間違いなく私宛にオーラが照射されている、ふっ。

 

写真は髪型から『ローマの休日』(1953年作)のアン王女だろう。中学1年生の時に映画館で見てクマシカ(注)になった映画。後で、脚本のドルトントランボ、監督のウィリアム・ワイラー、相手役のグレゴリー・ペックのことを少し知り、あの時代に奇跡的に出来た映画だと思う。ヘップバーンあっての映画だが、若い時の反独レジスタンス協力、亡くなるまで国際的な人道支援に身を捧げたことも波風氏がクマシカから逃れられない理由になっている。
少し解説すると、波風氏は『ローマの休日』のアン王女が忘れられないのである。その他の出演映画は、アン王女ではないからイメージが混乱するので見なくて良いし実際避けている(笑)。坊主頭に制帽の12歳が暗闇で、新聞記者のグレゴリー・ペックに嫉妬し、悲恋に終わってほっとしたのだった。考えてみると、あれが初恋だったかもなあ。

 

人間の女の人に、ここまで美しい人がいるんだなあ。その後、そういう人にも、近い人にも会ったことがない(笑)。可愛かったり、優しかったり、愛らしかったり、賢かったり、整っていたり、色っぽかったりはあっても、ヘップバーンの美しさは人間離れしている。この広告の後、競争相手の広告が出た。ヘップバーンの後だと十人並み。前に、似たようなことをブログで書いたなあ。
このお姉さんなら近くにいるかもなあ、というコンセプトがこの広告の肝なんだろう。「エレガント」と「健康」の決戦。

(注)『クマシカ』とは、心に傷を負う『トラウマ』の対義語で、心が一皮剥けて全く新しい素敵な感覚が深く宿ること。もちろん波風氏の造語(笑)。


『海街diary』に続く『詩歌川百景2』(吉田秋生作:小学館)読む。久しぶりなので人物の相関を時々確かめながら。小説みたいでいて小説では描けない叙情の世界 家事の合間に小沢昭一氏の随筆集読む。海舟と小吉の後がこれ。ラジオとは違う人間性、哲学者の鶴見俊輔氏を思う。格好つけずに大事なことを言葉にできる人は良いなあ。

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死を思う の返信

2022年02月11日 | 新聞感想

新聞投書(2/7朝日朝刊)読み、この歳で死を思いそれを文章にまとめ投稿しているのに驚く。これを目にした後、小説『燃え上がる緑の樹』(大江健三郎著)を思い出しながら『死』を考えた。死が悲しみでなく、恐ろしいのか・・・・。

死は恐いのか
自分がいないのに世界が続いているのが怖いという14歳の少年に主人公が、それに同意しつつそれまでの人生で忘れられない「一瞬よりいくらか長く続く間」(=信号待ちで赤が青に変わるぐらいの時間)の体験の有無が怖さを克服できるかどうかの分かれ道だと話する場面がある。また、君が生まれる前に世界はあるのに君はなぜ怖くないのか?と聞く場面も忘れがたい。
生きる長さ(様々な経験)では無く質(永遠を捉えたという確信)が生死の間際に問われる価値だと。

何をどう祈るのか
主人公が、『祈り』とはひたすら『集中』することでありその対象はわからないと語る。「魂のことをする」主人公に「神に祈るのか?」という支持者の問いに対して、蛾の飛び立った後の空っぽの繭みたいな光り輝くものに集中することが祈りだと語る。小説は、宗教の成立過程を思わせ、神のいない教会、福音書、祈り、がいちいち新鮮。難しい小説だが、信仰とは何かを考えさせる。暮らしの中に、ある人(ある人たち)のことを注意深く思うならそれは祈りだと言ってくれるから。死の悲しみを祈りが救ってくれるかもしれないのだ。

やっぱり  よくわからない
キリスト教信徒の詩。
愛なる神よ/人は どうして/一人残らず/死ぬのでしょう/それは 生きることより/もっとすばらしい世界が/死後にあるので/生きたほうびに/与えて下さるということでしょうか/幼い者 老いた者/中年の者/順序不同に召したまいます/疑うことなく/恐れることなく/天に召されるように/力を与えて下さいませ (「三浦綾子 祈りの言葉」から)。波風氏はこの意味が分からない。しかし、死を前にした人の救いにはなるのだろう。


パンデミックで、世界中の人たちとつながっている感覚と、孤立していく実感を同時進行で体験中。それは、意味のある生と死を思うこと 民放社長が、独善的経営と経費乱用で辞任。金と権威の扱い間違い、いつでも何処でも耳にする。

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働かないオジサン

2022年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 

はあちこちに働かないオジサンがいた。広い道路の端で三角ベースをやっていたらボーっと見ていたオジサン、町内子供会に鼓笛隊を作ってお祭りに町内隅々を廻らせていた雑貨屋のオジサン(店番や配達は奥さん。子どもたちに「ご苦労さま」と配る菓子は当然売り物)、ぼくたちに正しく生きることを話してくれたPTA会長さんも全然働いてなかった。働いているはずだけれど、夕方に酒飲んで真っ赤な顔でヨロヨロしながら自転車に乗っていたオジサン(側溝に落ちて大怪我していた)や、橋の上から釣り糸を垂らして工場排水で汚れたウグイを釣っていたオジサン、中学校の野球部の練習を土手に座っていつも見ていた常連のオジサン。オジイサンより若くオニイサンではない働きざかりの働いてないオジサンたち。

 

のオジサンたちは、理由があって働けないのか、働きたくないのかは分からないが、どこか飄々としていて子どもに近い感じがした。こんなことを思ったのは、TVの朝ドラ『カムカム エヴリバディ』に出てくる、働かないトランぺッーター大月錠一郎の言動が妙に心を揺さぶるからだ。トランペッターとしての才能は抜群だが吹けない、描く絵が独特で面白い、言葉が優しくて深い、家業の手伝いが全く出来ない、しかし家族に信頼され、周囲にも「そういう人なんです」と愛されている。波風氏はこのオジサンにはハマってる(笑)。こういう生き方があったか・・・今からでも遅くないか・・・・・今目ざしているのはこれか?なんて思いながら。

 

かないのはもの凄く悪いこと、仕事をやめるのは根性が無いから、退職後も働かないと悲惨な老後、なんていう言葉がまことしやかに語られている。70歳、80歳でカフェで接客やってますとか、器用な手先でミシンを使ってもの作りなんていう特殊な方々をTV番組で見せられ、「働きたいのに働き口が無い人をどう思っているのかなあ?」なんて思う。老人が「今も元気に働いています」みたいのが昔から苦手なのは、自分でアンチエイジングの宣伝しているみたいだからだ。どうして、(本音でなくても)働かないオジサンに早くなりたい、一日中遊んでいるオバサンになりたいと言えないのかなあ。
学校ごっこ、先生ごっこをやっとやり終えて(この打ち止め感が大事だと思う)、死ぬまで続く「働かないオジサンごっこ」という新しい遊びで、ついに「ヘンナオジサン」になれるかもしれないと思う波風氏である。


オリンピックが楽しみで無いのは商業主義・政治主義が鼻につくから。犠牲になる選手が可哀想。期間中、大事なことが隠されている感じもして今日、7000歩。前より疲労感少ない。録画してテレビ体操もやってみるかなラジオをステレオにしようともう1個スピーカをつないで感電した小学生の時。

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詩のある暮らし

2022年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

あ・い・た・く・て   という詩のことを書いたブログ記事(『工藤直子詩「あいたくて」』)。この5年間ほぼ毎日誰かが読んでくれていているが理由は不明。掲載詩集の巻末に、「なににあいたいのだろう・・・迷子の気分というのは昔も今もこれからもずうっとあるんじゃないかなあ・・・迷子の気分は、じつは、好きです。とても、なにかに『あいたく』なるから。そして『あえてうれしい』から。」と作者の言葉。
このブログも、手のなかににぎりしめていることづけを、誰かに手わたしたいからかもなあ。そうだろうなあ。

 

こだまでしょうか   は東日本震災直後のテレビCMで流れ続けた金子みすゞさんの詩。

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。
 
そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだましょうか、
いいえ、誰でも。

「こだまでしょうか」と「いいえ、誰でも」が呼応しているが、「誰でも」は誰を指しているのだろう?ママヨさんは、自分が誰かに(誰にでも)かけた言葉がその気持ちとともに伝わり相手から反ってくると言う。ふーんと思いながら、「いいえ、〇〇さんでも」「いいえ、△△さんでも」「いいえ、ママヨさんでも」と読み替えているうちに合点。言葉の重さと重なる人間信頼を感じるね。ちらっと、「誰でもありません」(=それはあなたの心の言葉)というのは捨てがたいが。

 

小さな渦巻き(茨木のり子  詩)の一か所の言葉。

ひとりの人間の真摯な仕事は
おもいもかけない遠いところで
小さな小さな渦巻きをつくる

それは風に運ばれる種子よりも自由に
好きな進路をとり
すきなところに花を咲かせる

 

ずうっと昔、京都出身の教育家が、京都の教育の真髄が当地に伝わって教育の花を咲かせたと聞いたことがあった。愛媛で平均年齢75歳(当時)の方々が当地に来られてソーランを踊られた。その時に1度だけ、指導されている方とお会いし今も親交が続いている。「ふしぎな磁力でひきよせられた」という詩の言葉に立ち止まる。

この3つの詩のどれもと重なるご夫婦を思う。当地で、文化の渦巻きをつくられた方たち。今は閉じられてしまったが、そこに集った人々がいろいろなところで花を咲かせ芽を出そうとしている、いや出しているはず。この懐かしい感情の記憶は、我ながら詩のようにシンプルで美しい。画像は最後に訪れ帰り際に振り向いた時の、渦巻きの核『あとりえ華』。一番星が大きく光っていた。


波風氏の読書ジャンルに欠かせない『詩』。小説や評論では足りず、それを埋めてくれる感じ  エンゲル係数減らそうとしたら、真っ先にオヤツがなくなった(涙)。ママヨさんは、カステラやパウンドケーキやアンパン、波風氏は、梅ゼリーや玉子プリンせっせと作る。別の係数が心配。

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