手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

葛西柏仁先生が亡くなられた  

2020-08-14 19:36:54 | 詩吟関係

 8月9日、岩見沢の江本先生から電話が入って、葛西先生が無くなったと告げられた。
 岩見沢神宮奉賛吟詠講の講長を務めておられ、岩見沢を中心とする南空知の詩吟愛好者をとりまとめ月一度の神宮講を開催し、年に一度はホテルで吟詠大会を開催してこられた。
  象堂流の理事長を務めておられましたが、先の講長が象堂流の東聖堂先生で、東先生が不慮の事故で他界された年、象堂流を退会し東先生の遺志を継ぎ、神宮講の為尽くされて、
国風流の小野寺先生を助けながら、柏仁会という会を立ち上げ、特に象堂流のOBの方たちの面倒をみて来られました。そして、小野寺先生が講長を降りられた後を受け講長として
努力されていました。
葛西先生と私は特に申し合わせたわけではありませんが、同時に 象堂流を退会しました。これは東先生の無念を心に秘めてのものでした。
書きたいことは山ほどありますが、今、吟歴46年を書き始めちょっと触れるつもりが重たくなり始めました。そちらと重なりますので、ここでは葛西先生のご冥福をお祈りしてこれで留めておきます。
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吟歴46年・・・・8

2020-08-09 18:53:56 | 吟歴46年 

 13時から始まるのですが、12時30分ころ会場に到着しました。見渡したが東先生の顔が見当たらない。親しくしている方に東先生見えてないですね、と聞いてみた。すると小声で昨晩理事長と事務局長が東先生のお宅に行き宗家の命令「理事会、新年会に出ないでください」と告げてきたとの話を聞かされた。この言葉を聞いて、6月に退会を予定していましたが、これはすぐに実行しなければならないと決意しました。
 あとで分かりましたが、此の日の午前中いつもはクラウンに乗っておられるのに、軽自動車に乗って本屋さんに出掛け、自損事故の事故を起こし、意識不明で入院したとの連絡を受けました。
 即刻の余裕もない感じで、岡内嶺周先生にお会いして、4月から北詩連に加盟する手筈を整えました。丁度嶺周先生の弟さん嶺蒼先生が理事長ををされており、嶺蒼先生ともお会いして内諾をいただき、教室の方はも一月中に了解をいただき、2月11日に私と三教場の代表三人と四名で岩見沢の佐々木象堂先生の自宅に出掛け、全員の退会届を提出してきました。
 北詩連への入会は四月一日となりますので、それまでに移転に伴う諸問題を片付けなければなりません。北詩連の岡内嶺蒼先生他の方とお会いし、いろいろお指導をいただき、資格の扱いは一般会員は現在の資格を横滑りさせることででてもらうことになり、私は吟歴30年、指導歴20年ありましたから総範をいただいてもおかしくなかったのですが、錬師範に格下げされる形で認められました。会名をどうしようか迷いましたが、 象堂流の時の会名を文字を変えただけの碌峭会として、碌峭会平和教場、碌峭会手稲第一教場。碌峭会手稲第二教場、会員数38名で入会することになりました。
東先生は、そのまま他界され、供花に碌峭会の名前をはしめて使わせてもらいました。当然とは思いましたが、象堂流からは供花はもちろ、代表も出席していませんでした。・・・・・つづく/div>
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吟歴46年・・・・7

2020-08-08 18:59:05 | 詩吟関係

 10周年の折は使わせていただいた琴似のホテルヤマチが使えなくなっていて、会場探しに苦労しましたが、手稲記念館が使えるということで何とか乗り切れたのでした。
 佐々木 象堂先生が参加して下さらなかったことを前回書きました。佐々木先生は弟子がこのような会を開くことは不遜なことと考えていたのかもしれません。事前にこの企画について
お話をして許可をいただいていました。その上で改めて宗家に案内を差し上げてありました。でも、理事長に希望者がいれば連れて行ったあげなさいと手配はされてくださいました。
おかげで、70数名の会にすることが出来面目を保つことができました。
 前後になりますが、手稲にはほどほどの宴会場がなく、たまたま冠婚葬祭の「むすめや」が、友引の前の日は葬儀が行われないので16時くらいまで貸し出してくれるので、10周年の次の年、
11年目の交歓吟詠会を「娘や」で開催し、それ以来しばらく継続していました。11年からは、本部から東先生、葛西先生が必ず参加くださいまして、交歓会終了後二次会を本町の「スナック鷗」で
毎年開催していました。
 さて話が横にそれたのですが15周年のころから東先生に、「村川、あなたはもう独立しなさい。私が宗家になって全面的に面倒を見るから・・・」と勧められるようになりました。当時、 象堂流に対して
どうも許せない思いが募っていました。まず、恵山流日本吟道会(象堂流の前身)創立の功労者である素晴らしい先生方が次々に退会して行く状況を作っていた。理事会という会議がもたれるのにそこで
審議されることは、佐々木先生の所信をお聞きし、それを受け止めるだけで、会議でないということ。大会等の決算報告は一度もされない。要望を提出しても検討して置きますといって一度もそれに答えたことがない。
教本は流派の顔なのだから、教本修正委員会を作って検討させてほしいとお願いしたけれど聞入れられない。又、奥伝師範になってから師範に昇格させるやり方が(宗家の意志で決められていた)不透明で、教室を持ち
吟力もある方が、何年たっても正師範の免許をいただけないなどといったことがとてもいやで、悩んでいました。一流を立ち上げるには力もありません。東先生の厚意に甘えても、半端な努力では適はないことですから
ためらっていて、20周年目の正月、この年の6月に 象堂流の 競吟大会があります。それを終わったところで象堂流をやめる決意をしました。
 もちろん、やめてそのあとどうするの・・・・という問題があります。たまたま、 象堂流を退会して北詩連に移籍した大物の先生たちの話が伝わっ来ていました。又、私は札幌に転勤になって教室を立ち上げるとすぐに
手稲文化協会に加入しました。手稲文化協会に入りましたら、北詩連の岡内嶺周先生、長谷川北彩先生がおられ世話になってきました。ただ、お二人とも何年もしないうちに文化協会を退会されたのでした。しかし、その
縁がありますので、岡内嶺周先生をおたずねして、北詩連への橋渡しを。お願いして置きました。
 正月に年一度の理事会が開かれますので、その折東先生に私の決意をお話して進めるつもりで゛出掛けけました。・・・・・つづく
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吟歴46年・・・6

2020-08-03 19:25:45 | 詩吟関係

 

 騄象会創立10周年記念交歓吟詠会をホテルヤマチで平成7年10月に開催しました。 象堂流の仲間と前年度まで続けた三道場交歓会のメンバー、それに手稲老人福祉センターの講座受講者やOBの方たちも参加いただき、70数名が参加くださり、私も初めて袴を着用して参加しました。残念だったことには、宗家が参加してくれなかったということでした。この10年目騄象会の会員数は40名になっていました。 
この10年目、記念大会を祝うがごとく、象堂流の 競吟大会で初めて総合優勝をしたのです。 競吟大会では宗家が指導している栗山会が常勝で、どこの会がその壁を破るかということが話題になっていました。結局、騄象会が会員数がものを言う形で総合優勝を勝ち取ったのでした。
 この10周年に40名の会員がいたのが騄象会の最盛期だったのかもしれません。これまで素晴らしい勢いで会員が増加したのでしたが、この年あたりから減った分が補充される形で40名を維持するのが漸くになっていました。この後も毎年交歓吟詠会を開催して、15周年記念交歓吟詠会は平成12年に手稲記念会館で開催しました。この時も宗家は不参加でした。このことに、東先生がひどく気分を害されていて、弟子がこんな素晴らしい会を開催できるようになったのを喜んでやらないでどうするのだとおっしゃっていました。この前から私も宗家の会の運営に問題を感じ理事会でいろいろ提案していましたが、何一つ取り上げて対処してくれることはありませんでした。・・・つづく
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吟歴46年・・・その5

2020-08-02 19:26:49 | 詩吟関係

 西陵高校の公開講座をきっかけに詩吟の教室を立ち上げることができた。土曜日の午後、平和第二会館を借りて稽古をすることになりました。上川管内の小学校校長を退職して福井に居を構えていた滝口さんが初代の会長で、15名くらいの会員で始まったのです。その後、会員の皆様の努力もあって会員数が見る見る増えて3年目には手稲吟友会も立ち上がりました。
 教室ができてわかったのですが、札幌東区に宗家の教室「札幌会」があったのです。平和吟友会、葳松会・札幌会と 象堂流の教室が三つとなりましたので、私が声を上げて三道場交歓吟詠会をやることになりました。当番持ち回り゛開催したのですが、5回目あたりから平和教場(手稲も含む]は20人以上の会員が参加するのですが、他の二つの教室が三名とか五名の参加で、交歓吟詠会にならない、平和を盛り上げる会のようになるのです。それで10周年が平和教場の当番でしてので、平和吟友会創立10周年記念大会として開催し、これまでの三教場交歓の看板を降ろすことにしました。又本部の規約改正かあり流派名が恵山流から 象堂流に変更になりました。それを受けて、平和吟友会を騄象会と変更しました。
 第11回から騄象会交歓吟詠会として、平和教場、手稲第一教場、手稲第二教場と老人福祉センター詩吟講座受講者の交歓会として、本部から何人か来ていただいて開催してきました。・・・・・つづく
 
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吟歴46年・・・その4

2020-08-01 18:52:35 | 詩吟関係

 生徒の詩吟同好会、結局2年続けました。二年目に 象堂流の 競吟大会にも出させていただき、初心者の部で斉藤裕子さんが三位に入賞しました。(高校生ということで多分かなり甘い審査をしてくれたのだとは思います)必修クラブには何回か宗家の佐々木象堂先生に来ていただき吟を披露してもらいました。その時の先生の声が校舎中を突き抜けるような声で、多くの先生方も聞き耳を立てられ、それがきっかけで先生方の同好会を立ち上げることになりました。
先に書きましたが、私は手稲で詩吟学院剣風会手稲に入会していましたが、岩見沢に生徒を連れて通ううちに先生も復帰して続けたらという誘がかかるようになりました。そこで先生方の詩吟の会を立ち上げて私も象堂流に復帰することを考えました。既に生徒と共に詩吟を始めていたTOさんと相談し、TOさん宅で月一度佐々木 象堂先生に指導を戴く、ということで、葳松会という会を立ち上げました。TO先生の奥様も入会し、先生方5名くらい入会いただき私も中伝から続けさせていただくことになりました。そして4年ほどで準師範の資格をいただきました。
 一方、公務の方で、公開講座の開講を主導ていましたので、昭和59年度の講座に「詩吟入門」を立ち上げてみました。すると前期12名後期7名の方が参加くださり、前期の加藤しづえさんが中心となり平和吟友会という同好会が立ち上げられました。ここで、私は剣風会の方を退会させてらいました。その後昭和61年1月から正式に 平和吟友会として象堂流に入会することにしました。・・・・ つづく
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