手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

64年前の今日・・・私は援農の終わった日でした

2009-08-15 20:43:13 | 身辺雑記

 昭和20年8月15日、6月から派遣されていた援農が終了した日でした。

 私は、永山農業学校の1年生でした。6月から3年生1名と私と同級の清水君と3名が、学校のある永山の町内の農家に泊り込みで援農に当っていました。

 長い援農、生まれて初めての農作業、でも食糧難の時代です、食事に白米が食べれることは嬉しいことでした。

 とにかく、その援農が終わり、翌日から夏休みが1週間ほどあるのです。朝、農家を辞し、先ず学校に戻りました。すると、重大放送があるから、職員室前の廊下に集合せょといわれ、行きました。事務室の窓のところにラジオが出されていて、天皇陛下のいわゆる玉音放送を聞きました。日本が降伏するとは全く考えていなかったので、多分、戦況は悪いけれど、更に頑張れと言っているのだと思っていました。

 終わって教室に帰ったら日本が降伏したのだと担任に教えられたのでした。

 その時の心境、ただ呆然としていました。それまで戦況はひどく悪く、つい数日前には旭川も空襲され、機銃掃射のすさまじい音に生きた気もしない思いをしたばかりでした。それでも、勝てるとは思わないまでも、負けるとも思わない、降参することは無いものと思っていて、国民全員が死ぬまで戦うのだと覚悟をしていた。

 それが、降伏したというのだから、何か信じられないような気がして、将に呆然としていたのです。後はなるようにしかならない、自分でどうする力も無い。ただ夏休みになったので午後の汽車で故郷に帰りました。

 新学期が始まり、学校の雰囲気がまったく変わりました。軍国主義教育から開放され、今までの雰囲気からがらりと変わりました。敬礼が先ず廃止され、上級生からの「やきいれ」=殴って指導する・・・も禁止されました。それでも寮では上級生からの強い指導は続きましたが、暴力だけは振るわれなくなりました。

 アメリカの占領軍が来たらどうなるのだろうと思ったりしましたが、意外に早く占領軍が無法な振る舞いをしないで、友好的に国民に対してくれていることがわかり戦争が終わったことに、嬉しさを感じるようになるのにはそれほど時間はかかりませんでした。

 15歳、まだ子供だったのですね。天皇陛下のために、最後の一人になるまで戦うのだと思いこんでいたのです。教育の恐ろしさを思います。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« お盆の14日・・・・静かです | トップ | お寺参り・・赤飯とオデン »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

身辺雑記」カテゴリの最新記事