手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

手稲は最高・・・群馬だより・・

2024-06-03 14:55:48 | 身辺雑記

群馬駅北口の広場に新田義貞の像がある、初めて見たとき、小学校で学んだ「稲埼将軍の剣投ぜし古戦場」という歌を思い出し、将軍が群馬の人だったことを知りうれしくなった。

そして群馬での新田義貞について少し理解を深めたく思い始めました。そのころ道路標識に「足利」とあるのを見て、足利尊氏の出身地がすぐ近くなのだと知りました。とてもうれしく思いました。

足利尊氏の足利学校が見れるということと、義貞と建武の中興にともに活躍した人ですから義貞をさらに理解する手掛かりになると思ったからでした。

間もなく足利学校の見学に連れて行っていただきました。この時まで、足利学校は、足利尊氏の藩校と勝手に思っていたのが間違いと分かりました。

それにもまして、学校という表札がはじめて日本で使われたのがここだとわかり、あの表札の重さを感じました。しかも時代は平安時代にさかのぼるのもに驚きとでした。

この見学を契機に足利尊氏と新田義貞か親戚だということをしり、しかし、鎌倉幕府とのつながりは全く違っていて、中興成立後、皇室にさら反旗を翻し、室町幕府創立に向かう

尊氏と皇室に背くことなくついに福井で倒れた義貞の姿に何か重たいものをかんじる。

この一連の流れの中で義貞が150騎で倒幕への出陣の旗揚げをしたのが、生品神社で現存することを知り、義貞が最後に住まったのが反町で、今は堀が現存するが、邸宅は

すでに神社になり面影すら見ることもできなくなっているのを見学してきました。さらに、新田義貞神社が金山に建てられていることを知りました。さらに、新田氏は群馬県太田市の

大半の荘園主だったようですが、義貞公がこのよう結果となった後を同じ新田の血統となる岩松氏が金山城を建て、新田の荘をまとめ、そのあとを由良氏がつい゛戦国の動乱を

潜り抜けて行ったようです。        ・・・・  新田義貞の銅像をきっかけに私の新田への理解が深められていく過程が、群馬での生活の深まりでした。


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