手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

西郷南洲について  自分の理解の甘さに驚いている

2014-10-02 17:46:23 | 随想
  西郷隆盛(南洲)について私の理解の甘さを改めて知った。明治維新は南洲により達成された。そして「征韓論」に敗れ新政府から身を引き故郷で私学校を開き、明治10年西南戦争をいわば政府の挑発に乗るような形ではじめ、敗れ故郷城山で自刃した。そこが中心で島津斉彬に大抜擢されて活躍し、安政の大獄で幕府に追われる身となり、僧月照と薩摩に戻り、庇護を願ったが認められず国外追放となりその途中月照と海に身を投げ、月照が死に、南洲は助けられ奄美大島に島流しになった。しかし、久光公の上洛がなされることになったとき、仲間からの要請で呼び戻され、上洛の共をすることとなり、先遣を命ぜられ、この時命令に従わなかったということで今度はまさに罪人として沖永良島に島流しになった。その後、また政治の緊迫する中で呼び戻され、薩長同盟を締結し、戊辰戦争の総指揮官として勝利し、徳川幕府を完全に打ち破った。そんなくらいの知識しかなかった。二度の島流しといわれるけれど、奄美大島は島流しといえないこと、征韓論の中身も言葉通りの理解は間違いなのだということが分かった。

 新政府が誕生した時、西郷は薩摩に帰っていたが、新政府が廃藩置県を実行するのに西郷の力を借りなければならないと考えて鹿児島まで出向いて西郷を説得し、西郷の力で廃藩置県が実行できた、そのいきさつなど知らないことが多かった。戊辰戦争が終わって江戸に有った各藩の藩邸はすべて新政府のものとなり、その藩邸を薩長の新政府要人が手に入れ贅沢を極めるような役人も多かったみたいだ。そんな中、新政府の新しい政策を次々に進め一定の成果の定まったとき、いわゆる「征韓論」の問題となるのだけれど、どうもわたしの理解していた征韓論は間違いだみたいだ。

 また薩摩での私学校の教育の中身もよく理解していなかった。国に大事が起きたとき先頭に立って戦う軍人教育が中心だった。これは一地方の教育としてはやりすぎで、当時各地で起きていた反政府の乱からして、政府に睨まれても仕方のない状況だったといえそうだ。結局、政府の挑発に乗るような形で西南戦争に入った。半年以上の戦いの末、西郷の自刃で幕が閉じられた。

 西南戦争で、新政府が確固たるものになったのだ。西郷は自分の手で幕府を倒し、明治新政府を作り上げ、自分の死で新政府をゆるぎないものにさせたことになる。

 一応の歴史では語られない内実が調べるといろいろ出てくる。事実は小説よりも奇なり、というけれど本当にそうだ。
コメント
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