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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

俺の昭和が遠くなる  9  ガリ板からワープロそしてPC

2016-12-17 19:24:03 | 随想
  昭和28年、教員になった。直ぐ印刷が必要になった。当時は謄写版印刷でした。謄写版は随分長い間続いた。ガリ版でやっと書き上げられると思った頃に字を間違ってだめにして初めからやり直すそんなことをずいぶんやったものでした。謄写版とワープロの間に青焼きのコピーが入りましたが、これはあまり続かなかった。

 昭和53年に札幌に転勤になってきたがこの時もまだ謄写版だった。55年ころに最初のワープロが登場した。ディスプレーが2行ほどしか出ないものでしたが、すぐ買い入れて使いました。ワープロは、出始めてから毎年のように新機種が登場しました。私は公務分担でPTAをはじめとする関係諸団体係りで、特に当時全国高等学校PTA連絡協議会北海道支部の事務局校になって、その仕事もしなければならず、ワープロは本当に助かりました。

 また、私は詩吟を美唄にいる時から始め、札幌で現役の時から詩吟の教室を持ちましたので、その吟譜をつくるのにすごく役に立ってくれました。


 退職の年までに5台くらい購入した記憶があります。使えなくなって変えたのではなく、機能の良い新しいものがほしかっただけです。使える古い機種は詩吟のお弟子さんに差し上げました。

 私はあまり字が上手でないので、ガリ版はとても苦労しました。でも懐かしい思い出になっています。

 退職して間もなくPCの時代になりました。そのころワープロは富士通を使っていたので、PCも富士通にしました。FMVでした。ワープロがやれたから直ぐ使えると思ったら甘かった。全く新しい機能で、同じに近いのがキーボードくらいのものです。でも普通の文書の書き込みは一人でやれるようになりました。ただ途中、当時電気店で有料の講習をしていましたので30分の指導を受けました。

 ホームページ最初は娘に立ち上げてもらいました。あとから自分で二本立ち上げたのですが、結局最初のg「手稲は最高」だけをもう10数年継続してほとんど毎日書き込んでいます。途中、中古を二台購入しましたがすぐ駄目になり、困っていたら娘から今の機種を進呈していただき助かっています。

俺の昭和が遠くなる 8   ”焼きを入れる!”  入れられた経験

2016-12-13 19:08:45 | 随想
 昭和20年の4月、私は永山農業学校に入学し、寮に入った。寮一棟に6人部屋が4つあり、それに食堂がついている。一部屋に3年生2名、2年生2名、一年生2名の6名が定員でした。勿論寮監の先生の住まいがついています。

 昭和20年、丁度終戦の年です。入学した時はまだ戦時中です。戦時中ですので、規律は軍隊並みに厳しくて、2年生は仏さん、3年生は神様といわれました。一年生はあらゆる仕事をしなければなりません。掃除、上級生の布団の上げ下ろし、食事の手配、上級生に命じられたことは反抗を許されません。上級生には全部「さん」づけで呼ばなければなりません。帽子や服装に格好をつけることは許されません。

 入寮して三日目くらいに初めての”焼き入れ”がありました。3年生が部屋から出てゆき、しばらくすると2年生が食堂に集められました。何か嫌な予感がしていました。間もなく一年生に食堂の前に集まれという知らせが入りました。一年生が食堂の前に集まって待っていると、食堂の中から怒鳴り声が聞こえ、ばし!ばし!という音か聞こえました。その後食堂に入れといわれて入ったらい列に並ばされました。そして、3年生の一人の方がすごい声で、「今、2年がどかんなことをされたかわかるか!たるんでいるので焼きを入れたのだ、焼きを入れるとはこういうことだ!}というなり一人づつ平手うちでビンタをはられたのです。そのうえで、これから心得て行かなければならないこと言われました。入寮して何か一つ偉くなったような気分でいたのがいっぺんに吹っ飛んで、命令に忠実に言葉遣いにも注意を払うようにしました。将に規律正しい生活をするようになりました。こんな状態の時、最初に家から手紙が届いたのですが、手紙を見ると泣けそうなのでトイレに入って読みました。

 私は、ビンタを食らったのはこの1回だけでしたが、仲間のほとんどは何回も呼び出されて殴られていました。

 これは、終戦後禁止されましたが、ほんの4か月くらいの間に軍隊式規律を教え込まれました。確かにつらいことでしたが、私自身とても良い経験だったと思っています。田舎で勝手気ままに過ごしていたものですから、此処で鍛えられ多くのことが身に着いたと思います。この寮生活がなかったらできなかったと思うようなことがあり、今の時代では許されないことだけれど、あの厳しい生活規律を身につけてくれたものとして、今の私は怨むより感謝しています。

 

俺の昭和が遠くなる  7  昭和28年

2016-12-10 21:12:42 | 随想
 昭和28年4月、沼田高等学校に赴任した。学校のすぐ裏にぽろな寮がありその一室に同じ大学の同級生と相部屋で済むことになった。

 給料は6950円だった。赴任して間もなく、先輩先生から教えられた。金が足りなくなったら事務長に話しなさい。給料とかボーナ返済で借りることができるというのです。これはありがたかった。

 先輩たちは夜な夜な飲みに出かけるのです。終戦間もない時代でしたが、沼田には炭鉱もあり、かなり大きな料亭が二つあり、適当な飲み屋も結構あった。高校の先生はよいお客のようでした。また、ビリヤード屋さんがあって、私も1本(50点)で打つようになった頃閉店になってしまった。囲碁もここで覚えた。成沢先生と毎日楽しみ、毎年沼田で開催されていた北空知の囲碁大会などにも参加したものだった。

 だんだん慣れてくるとボーナスは殆ど借金払いに回ってしまうありさまだったけれど、学生時代にはできなかった遊びの世界があり青春を楽しんだ。同じ部屋に入っていた石川さんは全くお酒の付き合いをする人でなく、多分迷惑もかけたと思うけれども嫌な顔をすることもなく付き合ってくれた。

 先生としては褒められたことではないけれど、そんな勤務以外の楽しみがあり、沼田で務めた11年は年以上に長く感じている。本当に良い所だった。

俺の昭和が遠くなる  6 貧乏だったが楽しかった

2016-12-08 19:43:25 | 随想
  10人兄弟だから戦後の我が家の生活は大変だった。両親がどんな苦労をしていたのか私にはよくわかりません。私の進学には大変苦労もしたのだろうと思います。

 ただ、終戦直後ですから買うものもなく、遊ぶところもないのですから、それほどお金に困ったという感じはありませんでした。大学に進学したころになるとかなり世の中が落ち着き、戦時中にはなかった娯楽が広まってきました。映画館は満員、パチンコ屋が出来、キャバレーができ、酒場もはやり始めました。又ダンスホールもにぎわっていて私もしばしば金子君に連れられて出かけた記憶があります。アルバイトもやりました。主に新旭川にあるパルプ工場でした。ほかに小学生の家庭教師などもやりました。愈々、お金に困って時計を質に入れたりすることもありました。

 そんな貧乏な私でしたから女性の友達を作ることは考えも及びませんでした。でも大学の三年のころからですか、金子君に連れてゆかれたスナックのような飲み屋さん、昼から店は開けているのです。そして私と同じくらいの女性の従業員がいて、親しくしてくれ、昼間暇なときはそこに行きレコード係りをしてあげておしゃべりをしたりした記憶があります。

 結局結婚も見合い結婚で、恋愛という経験もない青春でした。就職したころはよく飲みに出かけ、従業員と恋愛の真似事みたいなことはいくつかありましたがレはそれなりに楽しかった。でも結婚は見合いだったのです。正月にお見合いをして11月までお付き合いをして結婚したのでしたから、その間は恋愛をしていたといえばいえるのでしょう。借金をもっての結婚でしたが、少しの波風を立てながらもこの年まで二人の子供を育ててこの歳になっている。これは昭和という良い時代に現役時代があたからでしょう。やっぱり昭和は良い時代だった。

俺の昭和が遠くなる  5  渓流釣り

2016-12-07 18:43:13 | 随想
  釣りを趣味にしている方は多いと思う。私の釣りはそんなに熱中する釣りではなかったが、私の人生の1ページにはなる。

 釣りというものを始めたのは小学校の3年くらいに、仲間と近くにあった小川でドジョウ釣りが出発です。ドジョウといっても私の住んでいたところでは、確かな名前は知りませんがたしか「仏ドジョウ」とか言われたように思う。今の土壌鍋になったりするドジョウはめっにいなくて、そのドジョウは内地ドジョウと言われていた。もちろん釣っても食べるわけではなく釣ることだけが楽しみだったのです。その後カジカ釣りをするようになりました。「かまくらみみず」といっていましたが、ミミズの太いやつです。これの中に糸を通して束ねた数珠というものを棒の先につけて、護岸の「じゃかご」の隙間に入れて、大きな口で食いつくのを引き上げるのです。近くの安足間川で小学生時代は遊びました。一度一緒に行っていた、お店の同級生太郎さんといっていた時、太郎さんがどうしたはずみか川に落ちたのです。「ジヤカゴ」は本流が岸にぶつかるところに作られていますから流れが急なのです。どうしてよいのかもわかりません。アッ!アッ!と思ったら10メートルくらい流されて向かいの浅瀬に立ち上がりました。そのあとどうしたのか記憶に定かでないけれど、本当に自分が助かったくらいに嬉しかった記憶が残っている。

 高等科に入ってからヤマメ釣りに入りました。少年時代を過ごした上川の東雲という処は、大きな川が石狩川と安足間川の二本あり、更にその支流があっての近くはヤマメと雨鱒がつれ、更に奥に行くと岩魚が釣れるのです。大学時代にヤマメを釣って旭川の闇市にもっていって、売ってもらったことがあります。

 最初赴任した沼田には雨竜川が流れていましたが、ウグイだけでヤマメはいません。それでもうわさを聞いて自転車で2時間くらい走るところまで釣りに出かけたものでした。

 美唄に転勤になってからは、仲間は海釣り方がほとんどで、そのお供もしたものですが、美唄では車も手に入れましたので、浜益の方まで釣りに出かけたものです。

 札幌に来てからもしばらくは、浜益が私の釣り場でしたが、ある時赤井川が紹介され、其れからは毎年赤井川に出かけていました。

 パークゴルフの仲間の大島君が俺はヤマメ釣りの名人だと豪語したので、一緒に行ってみようと誘って赤井川に連れて行き、釣り場の橋のところで、私は一寸上の方へ行ってくるから、この橋の下手で釣っていて、といって分かれ、40分ほどして戻ってきたら最初に別れたところにポツンといて、全く魚がいないといって憮然としている。そんなことないといって私のびくを見せる。私は40分ほどで30匹くらい釣っています。すぐ手前にここにだっているからといって目の前で釣って見せました。大島君とは3年くらい一緒しました。いつも私の一割くらいしか釣れないのです。その後、大島さんは一人で出かけ、支流の水田の用水路みたいなところで釣れることが分かり、そこの水田の主人とも仲良くなってよく出かけていたようです。

 最後、10年ほど前に弟と一緒に出かけたとき、笹藪をこがなければならないことがあり、それでなくても肺気腫が進んでいたのに、この無理がたたって右目の動脈梗塞を発症し、それ以来ヤマメ釣りもやめている。

 悪いこともした記憶がある。豊平川へのヤマメの放流の報道を聞き出かけて豊平橋の上手の水路にある水門の処に何人か釣り人がいたけれど、そこの仲間に入って私が釣ってしまったことがある。

 ヤマメのあのきれいな魚体は山女という言葉にびっりだ。まだ釣り竿を投げないでいるけれど、懐かしい昭和が目に浮かぶ。

俺の昭和が遠くなる  4  昭和50年代の手稲

2016-12-06 20:53:10 | 随想
 昭和54年、開校3年目の札幌西陵高校へ転勤となった。一学年10学級のマンモス高校でした。前年、手稲に我が家を立てたばかりでしかも車で25分程度のところですからありがたかった。仕事は大変だったけれど、とても良い友達がすぐ出来た。学校のことを書こうとしているのではありません。学校を離れ、手稲での生活の一部を書いてみたい。

 手稲の我が家の周囲には数軒あるだけで、道路ももちろん舗装されていなく、しかも泥炭地ですから、砂利が敷かれてもどんどん沈んで行って何ともひどい有様だった。でも、2年目に舗装と下水工事がされて、一気に住みやすくなった。茶の間に座ったまま手稲山を眺めることができたのです。又、今のドリームビーチ元は大浜と呼ばれていましたが、車で10分とかからないで行けるのです。夏休み、進学講座などを終えて帰宅したら、直ぐ大浜に行って泳ぎ、車の運転席に、ビニールを敷いて水泳パンツそりのままで帰ってきたのしたものです。今は周囲に空地が無くなりました。来た当時は虫の鳴き声も聞けたのですが、今は聞けなくなりました。

 又、手稲の街はこじんまりしていますが、適当な飲み屋さんがたくさんあって、私は飲み歩くことの楽しさを知らなかったのですが、同じ手稲に住居を構えたF先生がなかなかの社交家で、楽しい飲み屋さんを見つけては誘ってくれるのです。ほかに私の初任校から一年前に西陵に来ていた酒豪のTさんが仲間になり、三人での飲み屋詣でが始まりました。初任地の沼田では独身時代良く成沢先生と二人で飲んだものでしたが、美唄の15年はまともに飲みに出たことはなかった。何かの二次会などで行くことはあったものの、飲んで楽しむことを忘れていた。

 それが、ほとんど毎週一度は飲みに出て、しかもはしご酒を楽しんだのです。私の現役は昭和で終わりました。楽しい思い出が山ほどあります。それが平成になってどんどん飲み屋さんが無くなり、最後「いの平」という居酒屋さんだけが残ったのですが、私の詩吟のお弟子さんだったり私のダンスの良いパートナーだった小野ママが亡くなって私の酒場がよいも終わった。

 

俺の昭和が遠くなる 3 今の我が家を建てたころ

2016-12-05 19:47:30 | 随想
 美唄東高校に勤務していた時だった。美唄も12年になるので転勤を考えなくちゃならないと思い始めた 出来れば札幌にでたいという気持ちがあった。丁度、長女が大学進学を迎えているので、進学が決まれば冬一人で過ごさせてもよいと思い札幌に家を求めることにした。

 札幌に家を求めるのにどこが良いか特別の希望はなかったのだけれど、何となく手稲方面に気が向いていた。家内と暇を見てみて歩いた。新川方面から手稲と見て回った。丁度稲積に建売住宅が建ち始めていた。しかし、建売は狭くどうも気に入らなかった。

 実は現在の我が家の建てられている土地は、義兄が知人から勧められ購入することにしたのだけれど、半分40坪を私に投資の意味で買わないか進めてくれて購入していたのです。行き着いた結論はこの土地に家を建てさせてもらい、半分の地代は後に時価で買い取るという約束で義兄の承諾を取り建てることにしたのです。

 丁度この決心をしたとき、家内の出身地から工務店に勤務している大工さんがいることがわかり、その方に話したら大喜びで引き受けてくれました。私が設計して立ててもらいました。

 手持ちの資金は手付金ほどしかなく、住宅金融公庫の融資を受けての建築でした。返済計画を立てたら、一年に払う金額は、当時毎年ベースアップがあり、一年たてばベイスアップでまかなえ、残額は退職金から払えば済むというとても楽に建てることができました。

 一冬は娘が過ごしましたが、翌年に希望がかなって札幌へ転勤となり現在に至っています。兄との約束の土地代もそれほど高くならないうちに返済でき助かりました。

 我家を建てたときは土地は゛泥炭地でスコップ一つ掘れば水がわきだす有様でした。それが入った翌年に下水工事がされたら、泥炭地が水が抜けました。元が泥炭ですから乾いたら有機質の良い土地になりました。でも地盤沈下が20センチくらい起こったようでした。

 耐震建築法ができる前でしたからハスカイなども入っていないのですが、知り合いの大工さんでしたので材木はしっかりしたものがつかわれていて、今までの大地震などでもびくともしないで来ています。土台も普通の家の三倍くらい高く作りました。これも結果としてよかったようです。

 バブル期、本当にありがたい時に我が家を持つことができました。

俺の昭和がし遠くなる  美瑛の丘   2

2016-12-03 18:46:30 | 随想
 私の父は上川村字東雲の小学校校長でした。昭和12年に赴任して、太平洋戦争などもあり転勤がないまま15年ほど勤め、転勤になった二校目が美瑛町の二股小中学校でした。

 二股は美馬牛という駅から9キロ奥に入ったところにあり、今は美瑛の丘として観光の目玉になったりしていますが、当時は大変な僻地でした。私は当時学芸大学旭川分校の2年で、ここから夏の間は通学をしたのです。自転車をこいで美馬牛まで行くのですが、途中大曲(おおまがり)という坂があり自転車はおして上らなければなりません。帰りは楽ですが行く時は本当に大変でした。大曲から美馬牛までの間はいくつものなだらかな丘がづいていました。此の大曲を降りたところに続くが二股だったのです。

 20年ほど前に家内と義姉を連れてドライブをした時、上富良野から二股に抜けてみました。全く様変わりしているのに驚きました。上富良野方面の丘はきれいな花畑に変身していました。二股に入ると、私がいたころの様子と全く変わっていました。藪だった所もきれいになっていました。私がヤマメ釣りをした川は無くなっていました。

 に入ってみると人の気配を感じないのです。父の勤めた学校に寄りましたら今は廃校になっていて、それでも何かの記念館のようになっていました。学校の前にお店があったのもなくなっていたし、学校のそばには教員住宅もあったのですが、それもなくなっていて人の気配もありませんでした。ただ、校庭は整理されていて草畑みたいになっていないのは嬉しかった。

 このは水稲栽培が中心で、この時も水田は広がっていましたが人家は点在するだけでした。

 学生で青春真っ盛りで、の青年と一緒にいろいろな活動をしたことが思い出されます。お盆には校庭でにぎやかに盆踊りが催され、私もそんな輪の中で楽しんだのでした。楽しかった。 正月には何軒かの友達の家でカルタ取りに興じたことも懐かしく思い出される。お茶菓子なんてなくて、凍ったミカンを食べたりしたものでした。

 中の人が知り合いで、友達でとても仲良く、そんな点では今の時代よりづっと心豊かな暖かい時代だったと思います。いじめなんて言葉は全くかったのです。

 今更に、「俺の昭和は遠くなる」をしみじみ感じます。

俺の昭和が遠くなる 1

2016-12-02 19:14:02 | 随想
  私は1930年(昭和5年)生まれです。平成も29年を迎えます。昭和はもう28年も前に終わっていることになります。最近演歌の中に昭和を懐かしむものが目立つようになっています。此の随想の題は新沼謙治さんの歌の題をそのまま使いました。

 今北海道の鉄道の半分は廃線しなければJR北海道はやって行けなくなるということです。

 私の鉄道の思い出は高校と大学の途中までの汽車通にあります。昭和20年に永山農業学校に入学して一年目は寮で暮らしましたが、2年目から汽車通をすることにしました。私の家は石北線の安足間と上川の間に位置する上川村字東雲という処でした。ただ、駅は安足間までだと2キロですが、上川は4キロになるので、隣村となる安足間からの通学でした。

 安足間を6時30分ころ発の汽車に乗り、新旭川で宗谷線に乗り換えて永山まで行くのです。夏は下駄をはいて、冬はボロ長靴を履いて、マントという外套を着用しての通学でした。

 この一番列車は通学列車みたいなもので、旭川中学(旭中)、工業(旭工)、商業(旭商)、そして私たちの永農、上級学校で旭川師範の本科生が相乗りとなります。それぞれ学校ごとに分かれて乗ります。旭中は小学6年からの進学、工業・商業・農業は実業学校で高等科2年を卒業しての進学です。自然とできている序列のようなものがありました。旭中に一目置くような意識があったように思います。女学生もいたはずなのですが、記憶に在りません。安足間からは旭川師範の方が二人通っていられ、私は時折話をさせていただいていました。そして、旭川師範への進学を望むようになっていったのでした。

 当然ですが蒸気機関車に引っ張られる汽車です。終戦直後で石炭が少なく、薪を焚いての運行もありました。寒い日には蒸気が上がらないといって、汽車が遅れることもありました。又冬わざと乗り越し、東雲で雪の中に飛び降りたりしたこともありました。

 高等科2年まで学んだ東雲小学校は廃校になっています。そして、石北線もそのうちに廃線となるのでしょうか。ますます昭和が遠くなります。

 

自分史 未来編 そんな考え方があるのだ・・・

2016-11-24 20:16:08 | 随想
 昨日だったでしょうか、何気なく見ていたテレビで「終活」の体験報道がされていて、70代のご夫婦の旦那さんが棺桶の中に入り5分ほどふたを閉められている場面があった。そのあと、自分史 未来編を書くという事が出てた来た。何のことはない、自分の短い余生をいかに生きるかということを自分史として書くということなのだ。 漠然と思い描いている余生を締めくくる、自分自身への約束なのだ。これは、すごいことだと思う。

 私もパソコンを始め、ブログを書き始めて間もなく自分史を作ることにして書いてみた。でも自費出版なんてことは全く考えず、自分で編集して、A4の両面印画紙を使って33ページの自分史を作ってある。作ってからもう10数年たっているから、追補の必要がある。又、書かなかったこともたくさんある。都合の悪いことは書いていない。

 特に反省し、追補すべきことは家内とのの結婚生活についてだと思う。また、人に見られるものだから自分の恥はあまり書かないで来ている。これじゃ自分史というのには程遠いものといわさざるを得ない。

 主題の未来編ということだが、87歳を迎えるのです。余生を何年と想定するかがむつかしいけれど、皆様に東京オリムピックは見てみたいと話している。90歳までは何年もありません。いわば現役としての活動の場がここだとすれば、私の未来史は、今の詩吟の会「碌峭会」の引継ぎで完結することになる。それまでの道筋を設計して実行していくシナリオになるのでしょう。1920年、後三年です。車の免許が1920年の4月1日までのはずです。車をやめることが潮時となるのかもしれません。

 今突然書いているけれど、書いたことに責任を持つ三年間のシナリオをしっかり書き上げる決心をしよう。