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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

盆踊りの太鼓が聞こえる

2017-08-05 19:08:38 | 随想

 一夜だけの子供盆踊りの太鼓の音が聞こえている。今は見学に行く気にもならない。

 盆太鼓を聞くとじっとしていられない時代もあった。小学生の時から大人の人と混じって盆踊りに熱中し、大学生のころは、仲間と遠征してまで踊ったものだった。

 いつ頃からでしたでしょうか、子供が大人と一緒になって夜遅くまで踊っていることは、風紀上良くないという主張が出てきて、子供盆踊り成るものが生まれ、子供と大人を切り離した盆踊りになってきた。子供を家において親が踊りに行っていることもできません。そんなことが、盆踊りを庶民の生活から切り離すようになってきました。それに輪をかけたのが少子化問題でした。「踊る阿呆に見る阿呆、どうせ阿保なら踊らにゃ損,損」と歌われたように、大勢の踊り手に見学者が群れて、初秋の夜を暑くしていたのでした。昭和の時代にはまだそんな名残のようなものがありましたが、今はまさに昭和は遠くなりにけりです。盆太鼓に心をゆすられることもなくなりました。でも、内地にはまだ徹夜の踊りが残っているようですね。


ヨサコイソーラン祭りが始まった

2017-06-08 19:42:49 | 随想

 札幌の夏はヨサコイから始まる。昔は札幌祭りが学生の夏服になる目途だった。すっかり温暖化が進み、衣替えの時期が早まっている。

 それにしてもこのヨサコイ祭り、すごい祭りとなったものだ。始まったころは私もまだ若かったから、毎年のように見学に出向いていた。三越の辺りで半日も眺めていた思い出がある。素朴だったが、今までにない新鮮な踊りの行列が楽しかった。それが毎年派手になり、さらに出演チームが北海道だけ出なく、全国規模へと広がりを見せている。今年は海外からも参加があるようだ。もう随分前から見学はテレビだけにしている。テレビから伝わる迫力も凄い。踊っている方たちの熱気が画面にあふれている。この体験は、もう病みつきになると思う。お神輿担ぎの熱気以上のものがありそうだ。

 五日間にわたるお祭りです。参加人数も半端でない。この祭りの札幌にもたらす経済効果も半端でないと思う。北大の学生たちの中から生まれてきたみたいだけれど、こんなすごい祭りに成長するなんて思ってもいなかったかもしれない。私ははじめの頃、道内の市町村がみんな顔をそろえるようになるのではと思っていたけれど、市町村は飛び越えてしまった。又各チームの踊りの構成などは普通の人ではとても無理だと思うのだけれど、年を重ねる中で積み上げられたチームのリーダーたちの発想で出来上がっているのかもしれない。とにかくすごい祭りが生まれたものだ。

 


学を求める  

2017-05-11 19:47:04 | 随想

 戸時代を見てみると、各藩ごとに藩校を作り特に武士の子弟教育が広く行われていた。江戸幕府直轄の学問所,昌平坂学問所=昌平黌の教学の理念が各藩の教育理念になっていた。そんな中でも、私塾がどんどん増え、藩学に飽き足らない多くの若者は、優れた指導者を求めて学問にはげんでいた。

 広瀬淡窓の桂林荘雑詠などを読むと、大分県まで全国から教えを受けたくて集まっていたことがうかがわれる。藩学ももともとは藩士の子弟の教育が目的だったが、次第に一般庶民も受け入れるようになっていったようだ。

 江戸幕府の鎖国政策で、海外の様子が分からなかったとはいうものの、欧米諸国の植民地活動をかなり良く理解している向きも多く、攘夷の備えに当たっていた藩も多かった。特に御三家筆頭水戸藩は積極的に諸藩にも攘夷の備えをさせる運動をしていたようだ。幕府が率先して攘夷の運動に取り組まなければならない中で、将軍継嗣問題と絡み、尊王攘夷の運動へと発展していった。特に安政の大獄は桜田門外の変へとつながり、尊王攘夷に討幕が重なることになった。

 あの黒船問題の中で、日本が植民地の対象とならず貿易の対象国として遇されることになったのは、いろいろな理由があると思うけれど、日本人の学問の高さが、例えば中国でのアヘン戦争のような侵攻も日本では通用しないとみていたからではないだろうか。

 そんな日本が維新で開国し、諸外国との交流が始まるとすごい勢いで西洋文化を取り入れ、亦教育制度もどんどんと新しいものへと変わっていった。

 終戦後新学制が施行されるまでの学制は角帽を頂点として、中学、高等学校は憧れの対象だった。単に学力の問題だけでなく経済的にも厳しい時代だったから、高嶺の花のように思えた人も多かったと思うけれど、中学生の帽子の白線だとか、高等学校の生徒の長鍔帽子にあこがれたものだった。今、高等学校も大学も昔のようなあこがれの対象ではなくなっているように感じる。学問にあこがれてではなく将来の就職のための手段として大学を選ぶ時代になっているように思う。高等学校での勉強の楽しみ、大学での勉強での楽しみ、そんなものが何か薄れてきているように思える


伝統芸能の衰退

2017-05-07 19:05:04 | 随想

 嘗て私が手稲文化協会の事務局長をしている時、文化協会の事業が年一度の文化祭の開催だけであることに疑問を感じ、丁度有珠山の噴火災害の起きた年、そのチャリティ行事として「伝統芸能祭」を開催することを提案し、開催に当たって手稲区の後援をいただき、区民センターの使用料減免を承認いただいた。その文化協会加盟団体の中伝統芸能にかかわる団体として、謡曲、筝曲各一団体、詩吟、詩舞4団体、日舞10団体、民謡10団体が参加した。出演人数も170数名で大変な盛り上がりを見せ、益金13万余円をチャリティとして寄贈した記憶がある。

 現在謡曲の団体は無くなり、民謡も半減して5団体になっている。又日舞も団体数は7団体あるのだけれど、会員数は激減していて存続が危ぶまれる会も多い。詩吟は5団体になっているが人数はやはり大きく減少している。此の年が平成12年でしたから17年目になるわけですが、増えているのはカラオケの団体だけです。

 老人の数は大きく増えているけれど、老後の趣味として伝統芸能を選ぶ人は極めて少ないのが現状だ。伝統芸能の存在はわかっていても、習うことが結構むつかしく、それなりの出費も必要ですから、安易なカラオケとかパークゴルフなどに向かい、伝統芸能は敬遠されている。

 それでもまだ詩吟は何とか楽しめるだけの人数は確保できていますが、今後についてはとても不安です。保存芸能になってしまうまでにはまだ間がありましょうが新会員ができないまま、会員がいなくなり、廃部となる会も多くなって行くと思います。寂しいことだけれどこれが現実なのですね。

 


昭和の時代が懐かしい

2017-02-22 19:07:18 | 随想

 年は平成28年だ。昭和が終わってもう28年目になる。10年一昔というけれど、昭和は三昔のことになりつつある。

 昭和5年生まれの私は昭和の時代の辛さも楽しさも体に染みついている。貧しいけれど暖かい時代がありました。10人兄弟の私です、どこの家も子だくさんだから周りは友達だらけ。家族が多いから当然生活も苦しい。でもそんな中だからみんなが助け合う空気が流れていて、暖かかった。

 振り返ってみると、学制の旧制と新制のはざまを通りました。戦闘帽が正帽であったときから、学帽に替わり、旧制高等学校に位置した第三師範の本科一年では旧制高等学校生の生き様を垣間見ることができた。新制大学一年の時は憧れであった角帽も被ることができた。

 昭和28年沼田高等学校に奉職したのでしたが、初任給は6950円でした。安給料だったけれど、勤めは勤めとして楽しい生活をおくることができた。東京オリンピックの年に美唄東高校に転勤なった。転勤して驚いたのは美唄東高校が一学年10学級、30学級というマンモス高校だったことでした。更に丁度前の年に美唄の三井炭鉱が閉山し、続いて三菱炭鉱も閉山になって、瞬く間に炭鉱住宅ががら空きになっていって、安普請の炭鉱住宅から灯が消えて、みるみるさびれていくのを見ることになりました。しかし、私たちの給料は毎年のベースアップで車まで持てる生活へと変わってきたのでした。一方家庭では産児制限が始まり、普通の家庭は子供は二人までの時代になっていった。また、人口移動が激しくなり都市に集中するようになり、札幌はものすごいスピードで膨らんでいっていた。昭和53年に札幌西陵高校に転勤になったのだが,新設3年目の学校だったが一学年10クラスの30学級というマンモス高校になっていた。そして60歳定年を西陵で迎えたのだが、ここが平成元年になり、私の教員生活は昭和できりが付いたのです。

 定年退職後4年講師として勤めましたが、5年目は私から辞退させてもらいました。平成生まれの子供達は昭和生まれとかなり違ってきていました。昭和生まれの、とりわけ一けた時代の私たちには重たい子供たちなっていたのです。

 社会の様相もすっかり変わりました。昭和の時代は懐かしい思い出の時代となっています。


稲田防衛大臣の靖国神社参拝

2016-12-29 19:38:02 | 随想
  稲田防衛大臣が靖国神社を参拝した。すかさず、中国と、韓国から批判のメッセージが流された。

 確かに、安倍首相の真珠湾への弔問、「和解」が大きく報道された直後だけに、効果的だったと思う。

 今だに靖国問題を取り上げ日本に対する抗日運動を繰り広げているこの国にとって、メンツにかけても言わなければならないのでしょうが、戦争裁判で国際的に裁かれ、命で償った戦犯です。

 戦勝国である多くの国の中で、許すことができないと息巻くのはこの二国だけだ。サンフランシスコ講和条約を批准している各国はその時点で戦争にピリオドを打っている。日本は定められた賠償を果たし、その上各種支援を続けてきているのです。靖国神社参拝で軍国主義国家に日本がまた戻り、侵略国家になると本当に思っているのだろうか。戦後70年の日本の姿を見ているはずです。

 今回の真珠湾での日米首脳による「和解」の重さを知ったら、あの国が大きな問題にしている事件は、戦争という不条理のなかでの出来事として、もっと大きな世界平和に向かって努力する道を追求しようと言わなければならないでしょう。しかし、靖国に固執するのです。固執する姿を見させる効果があったのでしょう。今更靖国容認に走ることもできないのでしょうが、その姿がとても卑小に見える。

首相の真珠湾訪問  素晴らしい

2016-12-28 19:08:26 | 随想
 今回の安倍首相の真珠湾訪問はその中身におて称賛されてよいと思う。

 真珠湾への奇襲攻撃が太平洋戦争の始まりだった。此の真珠湾はアメリカ人にとっては日本憎悪の象徴だったと思う。今回、安倍総理はオバマ大統領と同行した。これは多分安倍総理から同行を願ったものだと思うけれどそれはどうでもよい。この二人がそろったということは此の訪問をとても実り多いものにした。世界の歴史に残るような出来事になった。

 アメリカ人の心情の中には、日本の首相が真珠湾に来て謝れという思いは強くあると思う。しかし、今回の訪問で謝るということはしなかった。そして、「和解」という言葉がクローズアップされた。

 戦争を始めたのは日本である。だからといってあの非人道的な原爆で広島・長崎を一瞬にして焼き尽くしたことを正当化することはできないと思う。近代の戦争は道義を放棄してなされている。したがって戦争にかかわった国は、戦争を引き起こしたかどうかは問題でなく、渦中ではどちらも非人道的事例を抱えていると思う。

 戦争は決して認められない。世界から戦争をなくそう。そう言えるのは、戦勝国と敗戦国が和解する・・・人種を越えて人間として、戦争は無くそうと誓い合う以外にないのだ。憎しみを乗り越えて、戦争をなくそうと誓い合うオバマ、安倍の両首脳の言葉には感激した。

 戦争という異常な状況にあったことは、謝る、謝らないではない。そこを越えた人間としての理性の高さを示すのが「和解」だ。どこかの国の人にしっかりかみしめてほしい言葉だ。

師走も残りわずか   私の漢字一字 「削」

2016-12-22 18:54:38 | 随想
  今年の漢字一字・・・・私はと考えてみた。「削」が適当みたいだ。現役を定年退職した年に40年吸っていたタバコをやめて、それ以来そんなに意識しなかったが、年々できなくなることが多くなってきていた。今まで身につけてきたものが「削」られていくのです。それを嫌というほど感じたのが今年でした。

 まず運動とも思わなかったパークゴルフができなくなったのです。コースを歩くことが容易でなく5月に三回ほど出かけただけであきらめました。

 次に車のタイヤ交換ができなくなった。 

 酒もやめたに等しくなってきた。昨年まではまだ手稲の街に飲みに出かけることがあったけれど、今年は行く元気が無くなった。

 一番肝心な詩吟で二本だと声が続かなくなることが分かった。

 今までに削ぎ落してきたものは多々ある。何か最後まで大事にしていたものまで削がれて行っているようなありさまだ。年賀状に「我猶健」と書いたけれど、見かけだけは「健」なのです。顔のしわもまだ目立たないし、姿勢も悪くない。詩吟の教室でも声が出なくなってきているというそぶりは見せていない。カラオケに行っても高い声が出せるので驚かれたりする。

 それなのにだめなのです。肺気腫という病気が進み、肺活量がめっきり落ちているのです。根源は此処なのです。 これを今年は嫌というほど感じてきたのです。

 カラオケで「ルンバ」などを聞くと体がき動出す。ダンスでルンバが一番好きだった。 

 川の流れのテレビの画面を見ると、ヤマメの姿を連想する。ゴルフを見るとパークゴルフに夢中になっていた頃が懐かしくなる。

 いろいろなことに挑戦し、人並み以上なことをしてきている。老いはそれらをだんだん削って行く。

 これからは、残されているものを大事に一年でも長く持ちこたえる努力をしなければならない。それが新年の抱負となるのでしょう。

明日は冬至だ   

2016-12-20 19:29:17 | 随想
  一番夜の長い日になる。ということは、あすからほんのすこしづつ夜が短くなるということですね。

 冬はこれからが本番なのだけれど、一番嫌な峠に上がっているのだからどこかやれやれという思いもある。これから一月、4週間我慢をしたら春めく光を感じることができるようになる。一月というと長い感じだけれど、4週間といえばなんとなく長くもない感じになる。あと5週間程辛抱したら立春が来るのだと思うと辛抱もしがいがある。

 今年の冬の様子がどこか変です。冬至の今日小雨が降っていた。12月になって2回ほど結構な雪が来たけれど、それ以来ほとんど降っていない。塀のところの歩道に積まれた雪の山もかなり低くなっている。明日、排雪の契約をしている業者が来て全部捨ててくれる。

 今年は夜雪が降る予報の時はロードヒーティングを入れて置くことにした。二回あった大雪の時も、玄関前から歩道、車庫前まできれいに溶けていた。

 道路の端にブルトーザーが置いて行った雪は、ロードヒーティングで解けた玄関前に散らばして置いたら余熱で解ける。上から下に落とすような作業だから、それほど体力を使わないで済む。昨年までは灯油を節約するために、ロート゜ヒーティングを使わず、ブルトーザーが寄せて行った雪を必死になって塀の外に積み上げていたのです。

  今年は、塀の前に積む体力が無くなっているので、灯油のことはけちらないでロードヒーティングを使うことにした。毎年一週間にダンプ一台くらいの雪を積んでいたのですが、その作業をしなくなったのです。それでも排雪を業者に依頼したのですが来年からは頼まなくてもよいかもしれません。明日最初の排雪が来ます。様子を見ていて来年のことゆっくり考えます。

俺の昭和が遠くなる 10  お見合い結婚

2016-12-18 20:24:13 | 随想
  書かないつもりでいたのだけれど、ちょっと触れてみます。大学生のころ母親から27歳くらいに結婚するのが一番いいという話を聞いていた。それがどんな根拠があってのことかわからないけれど、頭の隅に残っていた。

 沼田高校に奉職して5年目の正月美瑛の実家に帰郷する前に月形高校から転勤してきていた鹿角校長先生から見合いをしなさいと勧められ、丁度いい時期かと思い勧めを受けて帰った。ところが両親からも見合いの話が用意されていた。見合いだからすぐ返事をすることもないし、断るのも簡単なので、沼田に帰る日にお会いして、写真をいただいて沼田に帰った。すると次の日、校長住宅に呼ばれて出かけたら、現在の家内が姉と一緒に来ていて、お見合いということになった。二人とも私にとっては異論がなかったのです。そうなると仕えている校長先生が中に立ってくれている現在の家内を選ぶこととなりました。美瑛の方には直ぐ写真を送り返してお詫びをしました。見合いの後半年くらいお付き合いしてみなさいと勧められ交際を始め、結局11月に結婚式を挙げたのだった。

 此の当時は仲人となってくれる方がいて、相応の年となると世話をしてくれるのが一般的でした。今は婚活といった集団見合いみたいなことがなされているが、昔のように仲人になってくれる人がない時代だと、私みたいな臆病なものは自分で見つけることができなく独身を通すことになるのかもしれない。

 ともかくいい時代に生きたおかげで、家庭を持ち、それなりの人生を送ることができた。結婚記念日すら忘れるような生活だけれど平穏に老いを迎えている昭和5年と7年生まれの二人です。 </font>