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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

紅白歌合戦 見たけれど・・・

2019-01-02 17:52:12 | 随想
 例年と同じように紅白を最後までみました。今年は今までと全く違う趣向になっていた。今のホップスが主体で、全面的にダンスを取り入れての構成で、にぎやかで、今の世代には大うけになると思う構成だった。

 私のようなウルトラ高齢者には、歌がなじめないし、あのダンスは驚かされるけれど、それぞれの違いが分からない。要するにあのリズムに体ごと乗っかれる人はいいのでしょうが、歌声は意味不明だし、あのテンポも私の体を動かしてくれなかった。時たま演歌が入るけれど、ハイテンポにアレンジ―され、演歌でなくなっていた。あの構成の中では、演歌はその存在感を出すのは難しいと思う。紅白の始まるまで年忘れ日本の歌を見ていました。会場に来いる人は高齢者ばかりだった。

 今の音楽というのは、主流は大観衆を集めてのライブなのでしよう。何万人もが一堂に集まって大音量の中て、ペンライトを振り、リズムに乗り声を張り上げる、その一体感のようなものが楽しさで、歌の意味とかはほとんど関係ないみたいなもののように思える。これは経験したものでなければわからないと思えが、演歌の世界とは全く次元が違う。カラオケボックスでは歌えても、昼カラには似合わない。しかし、そんな人の時代にるのですよね。

歌謡曲と詩吟

2018-11-18 18:27:08 | 随想
  最近歌謡吟が普及してきている。流行歌手の中にも歌謡吟をリリースする方が増えてきている。又歌謡吟のコンクールなども開催されている。今やカラオケはブームです。それに便乗して詩吟を好きになってもらおうといった魂胆かもしれません。しかし、そんなに期待できないと思う。歌謡吟も演歌の延長上に在り、詩吟をやる方で演歌の好きな方はそれなりに取り入れることができると思うけれど、詩吟のできない方は詩吟の部分で脱落するでしょう。聞いてみたいという人はいても、自分もやってみるということにはならないでしょう。詩吟の普及発展に歌謡吟を取り入れようという声も聞くけれどまず無理でしょう。

 特にロック、ポップスが主流の若い方たちには詩吟は歌の中はいらないしょう。新しい詩吟の会員を増やしたい。詩吟をやる方はみんなそう思っていると思います。今募集の張り紙を出しても、見向きもされない。今の若い方には詩吟という言葉さへ知らない方がいる。そんな現実の中での会員の増強は対人関係の中で興味を持ってもらい入ってもらうしか対策はない。出会いが必要なのです。

 私の経験からいいますと、各種の団体の中で一定の力を持ち、信頼を得て行くことがいい手段になる。私が教室を立ち上げた時は、たまたま高等学校の教師でPTA関係の校務を分担していて、PTAの方との接触が多く、亦、学校の公開講座に「詩吟入門」とか「漢詩の鑑賞」という講座を担当してみたりして会員を作った。又、町内会では副会長を5年ほどやることになったのですが、率先して行事を盛り上げる役をやり、会員の皆様との接触を多くした。又、或る居酒屋さんの常連として通い、そこからも会員を随分見つけたこともありました。もう歳になり、そうした人との接触の機会を持てなくなっている。詩吟を聞いてもらっただけで入ってもらうのは難しい。直接話し合い、信頼を受けて行かなければならない。そのための人との接触の機会をどのようにして作るか。若くなくては難しい。

 今の時代、会員を作るのは難しい。しかし、将来につなげる活動、普及活動=発表の機会を積極的につくる。これは個人では難しい。組織として道を開拓してゆくしかない。たとえば、私が二度やった小学生に詩吟を聞かせる活動なども、北詩連が活動方針として取り上げ、各学校にわたりをつけてやればどんどんできると思う。個人で一番困るのは、各学校の校長先生にお会いして、協力をお願いすることなのです。其れさへ出来れば道は開かれるのです。又、地域の文化祭などには必ず参加して聞いてもう活動もしたい。これらのことはトップダウンで進めなければ、個人としては難しい。手稲の駅のアイクル広場の通路部分でオカリナの演奏会をやっているのを何回か見たが、詩吟の路上ライブというものもあります、役員のトップの方がこんな構想を持ち、進んでみんなを引っ張ってくれたらよいと思うのです。

 少年和太鼓集団のようなものがある。「詩吟少年団」を作る。また「少年論語素読会」などを作るというのも面白いと思う。北詩連で考えてみてはどうでしょう。

江戸城無血開城

2018-09-30 19:12:50 | 随想
  戊辰戦争が始まってすぐ、錦の御旗を政府軍が掲げたところで、将軍慶喜が戦わずに江戸に戻り寛永寺に蟄居した。その後官軍の江戸攻撃を勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸城無血開城になったことを歴史では教えられていたと思う。勝と西郷のやりとりで戦争が回避されることになったその内実を知らされていなかった。

 私は勝が慶喜の意を汲んで西郷との会談に持ち込んだと思っていた。そして、その裏には朝敵として戦って負けたなら徳川が消滅することになるそれを回避したい思いが慶喜にはあったのだとみていた。しかし、このドラマの中でフランスが幕府に武器の調達から軍の応援までを持ち掛け勝利の後は薩摩をフランス領にしてほしいと持ちかけていた場面があったこれは私の知らないことだった。、薩長同盟にはイギリスから武器が調達されていた。慶喜はフランスの要望を聞き入れなかった。この戦いが今までの反幕府軍を討つといった性質のものでなく、外国の思惑も入り混じる内戦へつながる戦いになることを慶喜は見てとっていて、幕府が恭順し戦を回避することが最良の道と踏んでいたのが分かった。勝海舟も同感で西郷との会談を実現したのだった。慶喜の西郷と知り合った頃の生活ぶりに見られた柔軟性はこんな場面での決断へとつながって居るのだと思いました。

 このころの欧米ロシヤのアジヤ諸国への侵略はすさまじく、最後が日本だったかも知れません。そして、日本での利権を得るためのいろいろの策略がめぐらされてきたようです。まず、欧米にとってロシヤの極東進出がもっとも邪魔で、その防波堤に日本をする力が働くようになったとおもいます。そしてそれがうまくいったとき日本が邪魔になってくる。太平洋戦争の準備はもうこのあたりから始まっているのでしょう。

百人一首

2018-07-07 18:27:18 | 随想
 先日詩吟の教室で、「百人一首」の読みて手となって、読んだのを覚えているかと聞いてみたら、読んだことがないし、わからないという答えだった。北海道の「下の句カルタ」誰もが経験していることとおもったりしたが後期高齢者でもやったことのない人が結構多いのに驚いた。

 私は小学生のころから正月の遊びとして覚えてきた。下の句を読んで、下の句を書いた板の札を取る。それを特におかしいとも思わないでやっていた。ただ、私は読み手になることが結構好きだった。試合開始の時、一枚を空読みをして本番に入ります。その時普通は「まずは空読み一枚」といって下の句一枚を読みます、そして二枚目から本番になるのですが、私が読み手になったときは、一枚目を上の句から読んであげるようにしていました。そして、できるだけ自分で上の句も覚えようとしていました。

 一度だけ、上の句から読む本来のカルタ会をした経験があります。札幌西陵高校の現役の時、学校の公開講座で私が「百人一首の解釈と鑑賞」という講座を開いた時のことです。10数名の方が受講してくださったのですが、中に本州で育って、子供のころ上の句カルタをやったことがある方がいらっしゃった。この講座の打ち上げで、食事会をすることになり、その折みんなで上の句カルタをやってみましょうということになった。やはり経験者にはかなわなかったけれど、結構楽しむことができた。

 下の句カルタは北海道の風土に合っていたのかもしれない。上の句からだと和歌百句を暗記しなくてはならない。大変手間がかかる。手っ取り早くとなれば下の句カルタだ。暗記力の強さは言うまでもないけれど、感の鋭い人にかなわない。数枚になって二人が最後の勝負をするそんな時、次に読まれる札の頭の文字のアクセントが頭高型か平板型かで読み手の読みの余韻の最後が微妙に変化するその変化を感じ取って取るような凄い人がいる。そんな感覚を研ぎ澄ますために、畳をばんばんと叩いて気合を入れたりする。まるで格闘技のような感じさへ出てくる。「ひやくにんいっしゅ」が正しいけれど「ひゃくにんしゅ」で通ってきているのも北海道らしい。

俺の昭和が遠くなる・・・

2018-05-13 19:44:48 | 随想
  平成30年も5月・・・平成になって30年なのだ。4月2日生まれですので4月一日まだ60歳になっていなかったので、定年が一年遅くなったような、儲けたような感じで平成3年に退職したのでした。あれから27年過ぎて、御年88歳になっている。

 今更ながら歳月の流れは水の如しと感ずる。生きる苦しさを感じる暇もなかったということでとても素晴らしい人生を送らせていただいている。定年退職後の27年間、27年というと、生まれて大学も卒業して就職して職場にもなじんでいる頃になる。まるで人生を二度経験しているようなことになる。60歳の後半に一時期社交ダンスの会に入った。その時の男性の先生が82歳だった。82歳でよく出来るなあ・・と感心しながら教えをいただいていたことが思い出される。私は何と88歳で詩吟を教えている。まだ暫く続けられそうに思っている。不思議な感じです。今日ののど自慢に81歳の方が出ていたけれど、私と比較すると私の方が10歳以上若く見えそうに思った。

 88歳無病息災ではないのです、肺気腫が判明してから28年になります。この肺気腫という病気、入院したりすることもないし、薬を沢山飲まなければならないわけでもない。ただ、肺活量が減少していて、普通の人並みの活動・・走れない、階段は登れない、重いものは持てない、労働はまるでだめなのです。それでも詩吟を教えることはできるし、カラオケは同じ年齢の方には負けない声で歌えるのです。

 先日カラオケで久しぶりに「俺の昭和が遠くなる」を歌ってきましたが、本当に遠くなった。何軒もはしごで飲み歩いた時代が懐かしい。本当に(戦時中は除いて)いい時代でした。

老人クラブ 雑考

2018-04-05 19:52:03 | 随想

 以前の老人クラブと現状のクラブとは全く変わっていることを意識した運営になっているのだろうかと疑問を感じている。

 嘗ては町内会での老人の数がとても少なかった。しかし、今は老人の方が多いくらいの会員構成になっている。

 老人の少ない時は、長年活動してきた長老にご苦労様という意識で、労をねぎらうことが主眼だったように思う。従って慰安を主とした行事が組まれていた。町内会の活動を担う人も既に老人クラブに所属している方になったりしている。若い人が老人慰安するといった構図ではなくなっている。一方高齢化が進み、老人の中には慰安会のような会合に出ることがむつかしい方も多くなっている。独居老人も増えている。私の町内会の老人クラブは市の助成を受けるクラブで、そのために年間3回の研修会を設定しなければならなくなっている。中身は特別のこともなく、主眼はそのあとに用意されている懇親会となっている。研修会という言葉自体を重たく感じる人も多いし、懇親会でお酒をいただき楽しむことももう興味の外になっている方も多くなっている。サークル的な活動の助成もしているけれど、その活動は助成をするにふさわしいとは言えないような活動だ。こんな現実に向き合って、なすすべを失っている感じがする。現実を良く見つめ、より多くの方が喜んで参加できる活動を作り出すべきだと思う。今一番会員の参加するのは町内会の公園清掃だといいます。これをまず一つ取り上げ、より集まれて、なおかつ楽しかったといえるものにする方策を考えてはいかがかと思う。たとえば、二つの公園を手分けして清掃する。更に町内会を半分に分け、ゴミを拾いながら歩く班も作る。その中にあらかじめ育てたリーダーを配置して、活動の後話し合える用意をし、みんなが何か一言話すように設定する。お茶を飲みながら、自己紹介だけでもいいのです。更に話の輪を広げる対策を考える。何かそんなことをきっかけとしてのコミニュケーションが深まる活動へと広げることが大切だと思ったりします。


何ができるのか? 

2018-04-04 19:14:12 | 随想

 何らかの責任のある地位に在れば、それなりにやることはあり、そこそこやれる自信はある。しかし、既に組織の役職につく年齢をはるかに超えていて、望んでも与えられないのが現実だ。

 詩吟の教師として、三年前は週五日詩吟を教えたりして多忙だったけれど、詩吟の会員も減少し、教室も統合したりして碌峭会という直轄の教室は一つになった。ほかに老人福祉センターの詩吟講師を今年も継続させてもらっている。しかし、昨年まで町内会の老人クラブ(健幸くらぶ)のサークルして活動してきた、健幸くらぶ詩吟が今年はサークルとして認められなくなり、会名も返上することになった。それでも5月から月二回のクラブ活動を続ける手はずができたようだ。それにしても、とても手持無沙汰な毎日になってる。

 残された詩吟の活動は当然きっちりやって行きますが、時間を持て余す状況です。週一日は午後カラオケに出かけますが、ほかは暇なのです。肺気腫がかなり進んでいますから、歩くこと、力仕事はだめです。少し前からもう疲れてだめだと思いながら小説を読みだしました。二冊ほど読み上げて今三冊目に懸っています。結構楽しんでいます。書棚には購入したけれど読んでいない書物がたくさんあります。今まで暇なときはソフアに横になってテレビを見ているだけだったのですが、読書の楽しみに時間を割くことにしてみようかと思い返しています。どこまで続くか判らないのですが、88歳読書を楽しむ余裕があることに気付きました。

 


西郷どん  面白い!

2018-03-21 18:58:23 | 随想

 西郷どん」とても面白い。あちらこちらから断片的に入っていた西郷の姿が肉付けされていく思いです。斉彬公について、きっと暗殺されたのでないかと想像していたけれど、江戸薩摩藩邸で毒を盛られていた話始めて聞きました。有りうることだと思った。毒を盛られていると疑った西郷が橋本佐内に判定してもらった話驚いた。徳川慶喜公の人となりをかいまみせてくれているが、きっとかなり近い話だと思う。こんな方だから、最後、戊申の乱で大阪から逃げて江戸に戻り謹慎して、結果的に江戸を戦火に巻き込まず、徳川の栄誉を守り通すことができたのだと思う。戊申の乱がおこり、薩長が錦の御旗を立てたとき、江戸に逃げずにまともに戦かったら、戊申内乱になりどんな日本になったかわからないのです。朝敵の汚名をこうむらずに徳川をまもり、新しい時代に道筋をつけたといってもいいのかもしれない。そんなことを思いながら見ているととても面白いし、勉強になる。

 西郷が斉彬公の江戸詰めの折同行を命ぜられ、職務が庭番だったということは知っていたけれど、その実を知らなかった。間もなく安政の大獄になる。とても楽しみだ。


多趣味は、趣味無しと同じ

2018-03-17 19:13:38 | 随想

 人生の最晩年となり、一生の趣味について振り返ってみる。1930年生まれの私の生きてきた時代は波瀾の時代で、じっくり何かの趣味に没頭することの難しい時代だった。生まれ育った環境も田舎ので趣味を見つけることもむつかしかったように思う。

 小学校に入学したのが日中戦争の始まった昭和12年で、永山農業学校に入学したのが敗戦の年昭和20年だった。

 小学校は体育館もない複式のの学校だった。同級生も15人ほどだった。同級生はほとんどが農家の児で、お店の太郎さんと校長先生の息子の私が異色だったかもしれない。球技の道具は全くなく、夏は川で泳ぐか魚釣り、冬はスキーとも言えないスキーを履いてのスキーを少し。戦時中だから本もまともに買えない。私は父の買っていた大衆文学全集青表紙全7巻?を繰り返し読んでいた。蓄音機があったが、レコードは軍歌か浪花節、私は浪花節が好きでよく聞いていた。

 お店の太郎さんは御家が裕福で、良く本を買ってもらっていて、時折見せてもらったりしていた。しかし、我が家は本を買う余裕はなかったのです。

 神社に土俵が作られていたけれど、お祭りに子供相撲がやられるくらいで、普段は使われていなかった。

 高等科のころ、同級生の一人が将棋を覚えてきて、教えてくれた。へぼ将棋だけれど、学生時代寮で囲碁を教えられた。むつかしい。それで将棋をやろうといって将棋を私が教えることになった。囲碁は難しく負けてばかり、将棋では私が上で時に王だけ残してみんな取るなんてことをやって相手を怒らせたりしたこともある。又、結婚してから家内の関係のおじいさんと将棋を指してこともある。この時も私が勝ったりした。囲碁は沼田高校に奉職してから本格的にやりだして、初段くらいまでになっていた。しかし、きちんと指導を受けたり、基本的な勉強をしなかったので、美唄東高校で初段に推薦すると同僚の高段者の先生から初段の免許を取ることを進めらたが、基本的な勉強もしていないで段をもらっても仕方がないと思っていただかなかった。そのころは2段で打っても通用するょといわれていたが、札幌に出てからは囲碁から遠ざかり、昔やったというだけの趣味になった。

 美唄にいたとき碁盤と碁石を買った。更に札幌に来てから、美瑛の義弟がトド松のきれいな木目の厚さは八寸くらいの素晴らしい碁盤を呉れた。しかし、それで一度も打たないまま二面とも当時詩吟のお弟子さんだった方に呉れてあげました。結局囲碁もやったことがあるというところで終わりました。いろいろのことに手を出してて来ましたが趣味といえるまでのものは今も続けている詩吟だけのようです。


今年の秋も過ぎる

2017-11-09 19:04:49 | 随想

 11月も上旬を過ぎようとしている。もう初雪が降ってもおかしくないけれど、まだ根雪になる気温にはなっていない。手稲の山頂につもっていた雪も増えたり減ったりしている。

 秋の終わりを飾るのが銀杏(イチョウ)の黄色だ。北海道大学の構内の銀杏並木の黄葉のトンネルは素晴らしい。これに比較できる銀杏並木は北海道で他に見ることはできない。手稲では稲積公園通りの並木として結構育ってきていて綺麗だ。秋の終わり黄色い葉が地上に散り敷いて、朔風に吹かれ舞うのを見ながら間もなく雪なのだと思わされる日が来ている。

 今年の冬の雪はどうなのだろうと心配しています。昨年は少なくて助かりました。ロードヒーティングが大活躍でした。雪の心配な夜は8時過ぎから自動運転にして入れておくと、ヒーターの入っているところは綺麗に溶けて、車道のブルトーザーの残してゆく雪が残るけれど、量は解けた歩道に落としてやれば間に合った。塀の前に積んだ雪は一週間に一度排雪してもらうことにしていますが、車道につもっているブルトーザーの通った後に降った分をゆっくり積むことだけやっています。とにかく、ショベル一回振ると息が切れる。雪を押してゆくのも軽いショベルでゆっくり、ゆっくりやっています。それを見かねて手伝ってくださる近所の方がいて本当に感謝です。

 車の運転も冬平和まで行くのが少し辛くなっているので、詩吟の平和教場を来年から解散することにしました。解散後の始末もうまく出来たようで安心しています。