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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

平成29年となる

2016-11-03 19:00:38 | 無題
  間もなく平成28年も終わり、29年になる。ということは昭和が終わってもう29年になるということだ。

 最近の流行歌に「昭和男歌」「俺の昭和が遠くなる」「昭和縄のれん」などと、昭和の時代を懐かしむ歌が増えている。

 ひと昔というのは10年が単位です。もう昭和は二昔も過ぎて三昔になろうとしている。本当に昭和は遠くなっているのです。

 実は私の現役の最後の年が平成2年でした。定年後の人生は今の年数と重なるのです。早生まれで、それも4月生まれでしたからほとんど1年他の人より現役が長かったといえます。今年86歳、年相応に体力も衰えていて、思いどおりにならない悔しさをかみしめる日々です。

 生まれて昭和を現役で締めくくったのでした。太平洋戦争、戦後の混乱期、学制改革では旧制最後、新制の一期として激動の昭和をくぐってきました。苦しいこともたくさんありました。でも、振り返る昭和は生き生きとしていました。

 あんまり褒められたものではないけれど、人生を楽しく過ごすことができました。今の世間を眺めて、本当によい時代に生きたのだと思う。

 煙草の吸い過ぎで、肺気腫となって定年になったのですが、肺気腫を抱えながら、詩吟の先生としてお弟子さんを教えてきている。今は教室に出かけることが大変なのですが教えることはしっかりできている。詩吟の教室は昭和の時代に開いたのですが、当時はお弟子さんがどんどん入ってくれていた。今は全くお弟子さんができない時代になっている。

 取り上げて書けば書ききれないいろいろのことがあった。その一つ一つが懐かしい、今の時代には経験のできないようなことが多いのだ。

昨日は日ハムの劇的勝利を見ていてblog書かなかった

2016-10-26 20:34:17 | 無題
  昨日の日ハムの勝利は感動的だった。今日も期待してみている。 エラーで1点取られていたけれど、4番中田の一発で同点。どうなるか心配だけれど、一寸書きに来た。これからまた応援です。

 日ハム勝利・・最後はひやひした。二アウトの後、満塁まで攻められて、二アウト満塁、カウント二・三,最後の一球で三振を取って勝利。これで対戦成績互角、明日の戦いがまたまた楽しみになった。

スタットレスタイヤ 一本を購入した  高いのに驚いた

2016-10-18 20:24:45 | 無題
  今年の春の雪も消えてからだから4月の初めころだったと思う。交差点の角のとがった縁石にタイヤをぶつけて破裂させてしまった。それでもすぐイエローハツトに出かけて、スタットレス一本を買おうとしてら、既に冬タイヤは店頭から姿を消していて買い換えることができなかった。

 季節は早くもスタットレスの季節となった。今日午前中に春に痛めたタイヤを新しくして、ついでにタイヤ交換もしようと冬タイヤを車に積んでイエローハットに出かけました。175-45というサイズのタイヤです。

 タイヤ交換は今予約で混んでいて、20日でなければできないというので、予約をしてきました。破損しているタイヤの組み換えすぐにできないといいます。夕方までに組みますので置いて行ってくださいという。

 16時に行きましたらタイヤは組まれていました。一本のタイヤを購入して付け替えるのに、何と18000何がしかの金額でした。4本セットでも2万円代で買えるものがあるのに、1本だけだと割高になるみたいです。ちょっとびっくりしました。

 明後日タイヤ交換になりますが、3600円かかるそうです。今まで自分で交換していたのです、無理すればできないこともないのですが、今年からはやめることにしました。

 体力が無くなっていて、特にタイヤを着けるのに持ち上げるのが大変なのです。元気なときなら30分とかからないでできたのです。つくづく歳の重さを感じるこの頃になりました。

暖かい日曜日  午前中畑のかたずけ 午後野球 日ハム大逆転勝利・・・素晴らしい

2016-10-16 20:38:05 | 無題
  第三日曜日です。新聞の回収日、ひと月分たまった新聞をまとめて歩道に出す、ダンボールも一緒に回収なので貯まっていた分をだす。

 9時過ぎからトマトの枝を支柱から外し、適当の長さに切って袋に詰め捨てる準備をしておきました。インゲンの棚も整理しようと思ったのですが、もう一週置くことにしました。 そのあと前の花畑の花の終わった芙蓉などの高い枝を刈って見やすくしました。大した仕事でないけれど、今の私には大仕事でした。

 そのあと家内の買い物のお供をして、昼食後は野球を見ることにしました。

 一回ソフトバンクいきなり4点をとったので、これは大変と思ったのだけれど、見事に逆転した。そして9回には大谷がマウンドに立った。栗山監督の気の利いたお膳立てで゛す。大谷何と165キロの日本の球界の新記録の投球を披露した。苦も無く三人をかたずけた。今度は広島との日本シリーズを戦うことになるけれど、おもしろい戦いになりそうです。

おりとりてはらりとおもきすすきかな  蛇笏

2016-09-17 20:44:18 | 無題
  今日は平和教場でした。この頃車で一番遠くに走るのが西区平和の詩吟の教室に行くことです。これが今の私のドライブです。そして、季節を感じさせてもらうのもこのドライブです。

 今日はススキが道端に豊かな穂をなびかせているのを看ながら、蛇笏の一句を思い浮かべていました。西野の第二の道路ぶちに植えられているナナカマドは実が次第に赤さを増してきています。

 涼しくなりました。とても寝やすくなり嬉しいのですが、まなく大変な雪の季節が迫って居るのです。短い秋、楽しみたいのだけれど、何せ歩くことがつらい身にっている。

 これから結構お酒を飲める機会が用意されているのですが、飲むことに問題はないのですが、お酒を飲むと50メートル歩くのもやっととなります。まあ帰宅をハイヤーにすればいいのですが、札幌の街からだとやはりためらわれます。

 「俺の昭和か遠くなる」という新沼謙治の歌をこの頃覚えたけれど、本当に元気溢れていた昭和が遠くなりました。いろとりどりに輝いた俺の昭和が遠くなる。

 「はらりと重い」すすきの穂のおもたさは私の86年の重たさなのだ。

9月9日  重陽

2016-09-09 19:01:46 | 無題
  中国で9月9日は重陽の節句だった。(もちろん旧暦)陰陽道で9は最高の良い数字とされていて、その9が重なる日が、重陽と呼ばれたようだ。別に菊の節句とも言われたみたいだ。

 この日は一家そろって高いところへ上り、菊を浮かべた酒を飲み、祝ったという。

 そんな素晴らしい日が北朝鮮の建国記念日で、今日その日、建国を祝ってか、原爆弾頭の地下爆発実験を、世界の猛反対がされている中で実施した。

 今年に入って立て続けにミサイル発射を繰り返してきていた。そのミサイルに装てんする弾頭の実験をやったというのだ。

 核廃絶に向かおうとしている世界の趨勢に反して核武装を進めている北朝鮮。かなり厳しい経済制裁を受けている北朝鮮です。これだけのミサイル、原爆を装備するのにどれだけお金が使われているのでしょう。北朝鮮はそんなにお金持ちなのでしょうか。脱北者が絶えないのは経済的に困窮している証拠でもあります。国内経済、国民の生活を犠牲にしての核武装です。

 一党独裁の共産主義国家北朝鮮、その指導者たちは、その権力を維持するためには、なりふり構わぬ権力強化に走らざるを得ないのでしょう。

 これまで経済的制裁を受けながらこれができるということは不思議に思う。北朝鮮と国交を結んでいる国も多い。お隣は共産党国家中国です。いわば親戚同士なのだ。何だかんだといっても抜け道は多いのかもしれない。

 今までも制裁に加わってきた国は更なる厳しい制裁を用意するといっているが出来るのでしょうか。今や北朝鮮は開き直っている。文句があるならかかってこい、いつでも核で見舞ってやると言っているように聞こえる。小さい国だけれど、核武装した国です。力で抑えることはもはやできなくなっている。それだけに怖い。

 とんだ重陽の日となった。

24時間テレビ 「愛は地球を救う」 ところどころ見てきました

2016-08-28 20:25:38 | 無題
 24時間マラソンに笑点のレギーラ林家たい平が今年は走っている。ゴールの日本武道館には笑点メンバーが迎えにすでに入っている。是非時間内にゴールをしてくれるように祈っています。

 先ほど、盲、聾の子供たちが、ヨサコイを稽古してきたのを発表していた。大学生と一緒に踊ったのだけれど、全く完璧な踊りだった。見ていて感動し涙がこぼれた。目の見えない子、音の聞こえない子、それがあのヨサコイソーランを踊りきったのです。練習の情景も放映されていたけれど、必死についてゆく努力をしていた姿にも感動したが、見事にやりあげた姿は感動そのものだった。

昨日の雨  大変な被害をもたらしたところも多いという  お見舞い申し上げます

2016-08-18 19:56:55 | 無題
  昨日のブログに書きましたが、私一家は旭川の墓参りをして、留萌を回り浜益経由で帰宅しました。

 ひどい雨だとこぼすこともなく、予定通りに済ませました。帰路、厚田から石狩にかけては結構な雨でした。

 留萌を出るころでしたか、突然携帯が唸りだし、開いたら風水害の注意連絡でした。こんなサービスが始まっているのですね。     
 放送は聞きましたが、特に気に留める状況でもありませんでした。今朝になってニュースでひどい水害を受けた地域のあることが判りました。札幌でも南区の方では被害もあったみたいです。

 あの天気図だと台風は北海道の真ん中を突き切って行く感じだったのですが、どうやら太平洋岸から道東方面よりを通ったのですね。

 ともあれ被害合われた方にはお見舞いを申し上げます。

 台風一過、お盆も終わりました。明日からは私も詩吟の教室が始まります。詩吟はこれから行事が立て込んでいて、忙しい思いをします。整理しようにもしようがありません。粛々とこなしてゆだけです。

日本侵略国家呼ばわりするけれど・・・・

2016-05-21 19:33:13 | 無題
  日本を侵略国家として攻撃してきている国、隣の韓国と中国くらいじゃないでしょうか。

 世界の歴史の中で、イギリスやフランスの侵略は世界制覇に近い侵略をしていたはずだ。中国だってアヘン戦争などでたたかれ、香港を奪われてしまっている。韓国だって日露戦争で日本がロシヤに勝利したからロシヤに征服されなかっただけのはずだ。日露戦争のきっかけは、ロシヤの手が朝鮮半島に伸びたとき、このままだと朝鮮から次は日本が標的になることが見え見えだったから開戦したはずだ。当時の朝鮮にはロシヤを抑える力がなかった。結果ロシヤに替わって日本が侵略したことになるのだけれど、日本は略奪や破壊はしていない。

 アジヤ諸国にも太平洋戦争で進攻したが、これは植民地支配をしていた英仏を追いだし、戦後の独立に寄与する力となったはずでこれらの国からは侵略国呼ばわりをされていないのだ。

 太平洋戦争は日本が引き起こした戦争だし、その責任は追及された。歴史上例を見ない戦争裁判にかけられ、代償をしっかり払ったのだ。戦後もいち早く立ち直った日本は多くの国の支援をしてきている。今の中国や韓国の経済発展にも大変な寄与をしているはずだ。

 明治維新で日本が欧米諸国と肩を並べるような国へと道を開いた。その時日本が植民地とならなかったというか、欧米が日本を植民地にする行動に出なかった理由がよくわからないけれど、うがった見方をすれば、日本をロシヤの極東侵攻の防波堤にしようとしていたといえないだろうか。その視点から見ると、日露戦争は仕組まれていたものといえる。その後の日本の軍国主義化は欧米にとって想定外だったかもしれない。それを抑えるために掛けた圧力に耐えきれなくなって戦争へと日本は走った。これは民主主義国家になるための大きな戦いだったことになる。

 戦争の虚しさ、大きな代償を払って手に入れた民主主義を二度と手放すことはしない、そんな日本になっている。ここに自信を持たなければならない。今、9条問題がいろいろでているけれど日本の政治は自ら戦争を起こす道には決して進まないと私は確信する。それを今政府は戦争を望んで居るような言い方をする人がいるけれどそんなことは決してない。守りだけはきっちりしとかなければならないのは当然でしょう。

18歳選挙権  政治への目覚め

2016-05-01 19:34:20 | 無題
 18歳で選挙権が与えられるようになった。此の歳で今更思い返すこともないのだけれど、自分の政治に関しての目覚めはとても遅かったように思う。

 15歳で敗戦を迎えた。アメリカの占領下に日本は置かれた。15・16・17と、ひもじい思いをしながら過ごした。政治には全くなんなの関心も持たないでいた。それでも私の住むに発電所があって、そこの職員はの中ではエリートのように見られていた。その方たちの中に共産主義のような活動をしている人を見て、何か畏敬の念みたいなものを感じていた。しかし、一方で共産主義に対する何か本能的な反発心があり、いわゆるレットパージを文句なく受け入れる自分を見ていた。
 
 村では村会議員が選出されるようになっていった。その時に父と同僚だった先生が村会議員になったのを見て、先生から村会議員になることもできるのだと思ったことがあった。そして、何時か自分も先生になって村会議員になろうかと思うこともあった。

 選挙権を手にして以来、選挙をしなかったことはない。でも初めのころは誰に、どの党の人をという信念ができていなく、父が先生で社会党の方に投票するのを見ていた。当時、組合活動が盛んで、北教組は社会党を押していた。そんなこともあって共産党は嫌だけけれど社会党ならいいかくらいの思いで投票していた。わたしの友達の多くが、似たような状態で選挙になってもだれに投票するかといった話もまったくなかった。

  30を過ぎてBd市に転勤になって、初めて組合活動、政党政治に関心を持たざるを得なくなった。北教組と高教組が違う政党を支持していることを知ったのもそのころだった。組合活動、教育のあり方などについて、ずいぶん話し合った。そん中でそれぞれの思想信条が問われることになったけれど、私は共産党的思想を受け入れることができなかった。逆にその思想に命を懸けるという方が何人も出てきた。その方たちは教師として素晴らしい活躍をし、生徒から本当に慕われていた。

 私がダメ先生で終わったのは、ある思想に命をかけてもよいという決断ができない優柔不断さがそうしたのかもしれない。そんな仲間と詩吟も一緒に始めたのだけれど、最後まで詩吟をやっているのは私だけです。ただ私は転勤したけれど、ほかの方は転勤をしなかった。詩吟で扱う詩文の中に天皇制崇拝的なものがあり、それを吟じることはできないということから、かなり続けていた詩吟までやめてしまったのだといいます。自分の信条に反する詩を吟じさせられることに耐えられなかったという。そこまで徹底した生き方は尊敬できるけれど私には一寸ついてゆけない強さです。