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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

十六夜の月

2017-10-05 18:51:40 | 無題

 昨日が十五夜だった。二階の仕事部屋の窓越しに眺めていた。昨日の健幸くらぶの詩吟の皆様には、今晩が十五夜ですと話してあげたのですが、何人眺めたでしょう。

 今晩は十六夜の月、昨日より空が晴れ渡っている。もう少ししたら外に出て眺めてみようと思う。最近きれいな星空も見ていない。今日は星もきれいに見えるかもしれない。キリギリスの鳴き声でも聞こえたら最高なのだけれど、この住宅街では虫の声が全く聴けない。

 「明月や池をめぐりて夜もすがら 芭蕉」という句がある。池には月影が浮かんでいるのでしょう。その池のふちに筵を引いて月見の酒を酌み交わしているのかもしれない。真上に十五夜の月がかかり、池にはその月影が煌めいている。最高に盛り上がった月見、一晩中こうして楽しんでいたいというのだと思う。そのまま解釈すれば、一晩中池の周りを歩きなが月を楽しんでいたいということになる。一晩中歩いていることはできないけれど、それくらいに素晴らしい月夜だとは解釈できる。

 十五夜の月で一つだけ思い出がある。もう30年も前だと思う。このころは飲みに出歩くことが多かった。そんなある夜、たまたま一緒に飲んで楽しんでいた方と一緒に店を出た。丁度十五夜で煌々と月が冴えていた。その方は私の家より結構遠い方でいつもは車で帰られるのですが、月が美しいから歩いて帰ろうよと一緒に歩いた。歩き出した、人一人見えない道を歩き出したら言葉を失った。15分ほどで別れる場所に着いた。じゃあね・・・といって、さよならも言わずに別れた。さよならも言わずに別れた人のことを今も思いだす。


いじめ  

2017-09-07 19:43:36 | 無題

 今「いじめ」が大きな問題なっている。「いじめ」られて、自らの命を絶つ子供もできている。

 私は87年生きてきたのだけれど、「いじめ」とどんな関わり方をしていたのだろう。私の世代は国策として、「生めや増やせや」といわれる時代で、貧しかったが子供は多かった。私は10人兄弟だし、家内は6人兄弟だ。「いじめ」は仲間はずれにされることがそれだと思う。周りに人が多いと嫌な人と付き合わなくても付き合える人はいくらでもいるから仲間はずれということで困るようなことはなかったように思う。

 小学校は田舎の複式小学校で同級生も少なかった。私は今でそうなのだけれど、群れて人の悪口を言ったり、悪ふざけをしたりすることが嫌いで、同期生より一年上の方と友達になって過ごすことが多かった。農業学校に昭和20年に入学し、寮に入った。当時はまだ戦時中だったので、上級生からの「しごき」などがあり随分ひどい目に逢わされた仲間もいた。そんな中で、私は上級生にも同級生にも、一目違った扱いをされていたように思う。一寸大人だったかもしれない。いろんなことがあったけれど、信条として「和して同ぜず」を胸に渡ってきた。どちらかといえば”悪”だったと思うが、悪の仲間からもちょっと違う目でみられ、別のいい友達もいた。

 今までの人生を振り返って、いじめられもしなかったし、いじめることもしなかった。それが「ずる」がしこい生き方にはなっていなかったと思う。柔軟性があったといえばそれまでかもしれない。


秋は来ぬ

2017-08-31 18:14:46 | 無題

 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」と詠われているように、家の中では半袖で間に会っているのに、庭先に出てみると風が肌を刺している。

 まだ8月なのにと思ったりするけれど、最近の気象状況は想像を絶するものがある。とんでもない大雨が降り、洪水を引き起こしたり、長雨が続いたり、かつて経験をしたことのないような状況に見舞われたりしている。

 農業だけでなく、漁業も今まで取れていたサンマが取れなくなったり、溢れるほど取れていたスルメイカが取れなくなったりしている。

 昨日、ちょっと気を許したら喉が腫れて痛み出した。風邪かと思ったら「葛根湯」という。すかさず飲んでみた。心配だったので寝る前にも一服飲んで寝た。今朝かなり落ち着いていたけれど、朝もう一服飲んでおいたら今は回復している。もう風邪を心配しなければならなくなっているのです。なんとなくこれからもまだ暑い日が来そうな気もするけれど、来ても一日か二日でしょう。もう夏物はかたずけてよいのかもしれません。

 秋は文化行事が多くなる。詩吟もこれから忙しくなる。9月は定期審査と手稲神社の祭典奉納吟の二つです。頑張ります。

 


北の弾道ミサイルが予告なしに国土の上空を

2017-08-30 19:55:20 | 無題

 先日はグァム周辺を標的に我が国の上空を通過させるという予告があったが、実際には延期になった。ところが今朝本道の太平洋岸の上空を越えて千数百キロ先の太平洋に着弾したという。

 北朝鮮のミサイルはまだ実験中で、いつトラブルを起こすかわからないのだ。日本の監視システムも向上していて、発射から着弾までとらえていたという。万一日本に着弾するような体制の場合は迎撃する体制が敷かれていたようだ。

 何とも迷惑な話だ。戦争はおろか、原爆も廃棄する方向を世界中が望んでいるときに原爆の製造、原爆を運ぶミサイルの開発をしている。世界の非難を問題にしないで、活動をエスカレートしている。まさか無差別に使うことはないと思うけれど、凶器を持たせては危険と見なされている国なのだ。それに対応する防御システムとか、対抗兵器の開発をしなければならない。特に日本は拉致問題などでこじれているだけに、敵対される可能性は強い。そんな事態が起きたときに対応する自衛隊の装備も必要になってくる。

 今や原爆保有国となっているのかもしれない。とすれば、もう対話で核を放棄することはしないでしょう。核保有国として世界が認定し、仲間と認めてゆく。そんなことができるのだろうか。しかし、其れしか道が無くなるのかもしれない。今科している制裁も解除する。でも、今振りかざしている拳をどうやって下せばいいのたろう。

 武力で解決となれば世界戦争になりかねない。恐ろしい・・・。

 

 

 


遅い台風が本土をかけ上がりはじめた

2017-08-06 21:00:52 | 無題

 長いこと同じところをうろついていたような台風が、沖縄を巻き込み、そして九州へと向かっている。この後本州を太平洋岸沿いに進むみたいだ。大風に大雨を揃えて進むのでしょう。

 温暖化の影響が何ともひどい形で表れている。かつてなかった豪雨、何百年も平穏だったところが、ある日大洪水に襲われ、壊滅的な被害をこうむる現象が相次いでいる。特に谷間の村落は全く安心できない時代になっている。大雨は同時に雷をともう。洪水にならなくても、落雷で停電なんてことも起きる。今や日本中どこも安全といえるところは無くなった。


北朝鮮のミサイルで思うこと

2017-07-30 19:24:47 | 無題

 経済制裁がかなり厳しくなされているはずなのに、こんなに立て続けにミサイルの発射をしていることに不思議さを感じる。あのミサイルを北朝鮮は総て国内で製造組み立てているのだろうか。かなりの精密機器製造の工場が無ければならない。そんな工場を揃えているように思えない。しかし現実としてどんどん性能も高度化したミサイルへと進んでいるのだ。

 国際的な経済制裁措置が取られているけれど、抜け道はいくらでもあり、経済制裁に入っていない国だってある。結局制裁措置は機能していないに等しいのかもしれない。ただ、北朝鮮の国民の生活には、特に底辺層の国民へのしわ寄せはひどいものがあると思う。一定の核軍備がそろったら、たとえアメリカでも軍事力で抑えることはむつかしくなるでしょう。そこを狙っていると思うけれど、核を持たない韓国は対抗しようもなくなるかもしれない。まあ、韓国も日本と同じようにアメリカの核の下に在りますから、無茶なことはできないと思うけれど今の北の軍国主義化は決して侮れない。

 


夏休みになったのだ

2017-07-26 19:10:35 | 無題

 現役の時まで夏休みは待ち遠しかった。いろいろな思い出もある。

 夏休みになると直ぐ一週間ほどは進学補修講座があり、午前中は講座に出かけなければならなかった。昼近く帰ってくる。焼けつくような暑さ、直ぐ「海に浸かってくる」といって、ドリームビーチへ車を走らせ、30分くらい泳いで、車のシートにビニールを敷いて海水パンツのまま帰ってきてすぐシャワーを浴びるようなことをしたこともある。そして、8月3日にはキャンプに出かけていた。当時は軽自動車だったけれど、それに家族4人乗っかって、三角テントを持ってのキャンプだった。今もそのテントが捨てきれないで保管されている。今はもう使う人はいないでしょう。そのうちに燃えないゴミにでも出します。

 キャンプから帰るともう秋風を感じることが多かった。最近はお盆が過ぎても夏日がつづいたりして秋が長くなっている。

 我が家のお墓は両親が旭川の観音台に建てました。毎年お盆のお墓参りに家族で出かけるのですが、 今年は13日の日曜日を選んだ。此のお墓参りが最近は我が家の一大行事になっている。お参りをして、留萌に回り海沿いに帰ってくるのです。

 夏休みに入り良い天気が続いている。きっと海水浴場も大変な人出でしょう。海も山も縁遠くなり夏休みの楽しさを待ちわびることもなくなったが、思い出だけは蘇る。


7月7日  たなばた

2017-07-08 19:11:18 | 無題

 昨日は七夕でした。7月7日という日に合わせた七夕で、節季としての七夕とは程遠いのです。旧暦の7月7日が七夕なのですから、一月以上も早いのです。

 でも七夕の空を見ようと、二階の窓を開けたら、真ん丸な黄色い月が見えていた。涼み方々外に出てらためて眺めてみました。月はきれいだったけれど、星はいくつか見えるものの天の川は確認できなかった。ちなみに、夕べの月は14日の月でした。今日が満月です。

 私の子供のころは、8月の7日が七夕祭りでした。季節感では8月の方が感じが出ます。子供のころの七夕は提灯をともして楽しんだものでした。浴衣に提灯。「ローソクダセ ダーセェヨ タサネバカッチャゾ」そんな声が聞こえてきそうだ


ローカル列車が無くなって行く

2017-06-04 19:08:12 | 無題

 昭和5年生まれの私には鉄道の思い出はいろいろとある。生まれた土地は石北線の上川だった。初めて汽車に乗ったのは6歳の時だと思う。

 上川小学校の解体現場に遊びに行っていたら上から板が落ちてきて頭らぶつかった。悪いことに釘がついていて、それが頭に刺さったのです。その治療のため旭川まで連れてゆかれた。病人として連れてゆかれたのだから、外の景色を眺めることもならない汽車の旅だったのです。

 小学1年の八月に父が東雲小学校の校長として赴任した。石北線の上川と安足間の間で、住宅は小学校の職員室の隣だった。線路はすぐ近くを走っていて、汽車の走る音は良く聞こえていた。もちろん蒸気機関車です。子供のころよく線路のあたりで遊ぶとき、線路に耳を当てて列車が近づてくるのを確かめて遊んだこともある。

 貨物列車もありましたが、貨物と客車が一緒になってたものもあった。石北線の貨物列車には丸太を積んだものが多かった。昭和20年に永山農業学校に入学して終戦を迎え、戦後の混乱期、石炭が足りなくなって薪を焚いて走る機関車まであった。戦後の復興期に入ると石炭列車が随分走るようになった。列車はほとんど満員だった。修学旅行が復活したのは昭和30年代に入ってからのように思う。私は23年卒業で修学旅行はできなかった。28年に高等学校に勤めることになった。修学旅行の引率は36年に初めて行った。汽車はの旅は疲れた。時間はかかる、寝ることもならない。通路に新聞を引いて寝たりもした。辛い旅だった記憶がある。

 ほとんど各駅停車の鈍行でした。それでも列車が無くなるなんて考えたこともなかった。蒸気機関車からジーゼル列車に替わり、電車に替わるというように瞬く間に変わってきた。各駅停車は短距離だけで、長距離は急行、特急となり、ローカル列車の乗客はどんどん減少していった。そして今、採算の取れなくなった路線が多くなって、路線廃止が始まっている。

 人口の減少、若者の都会集中などで、地方は過疎がどんどん進んでいる。車の普及も列車の利用者を少なくさせている。

 あの大きな車両に2~3人の乗客を乗せてでは廃線も仕方ないように思える。昭和も遠くなった、平成ももう29年なのだ。

 蒸気機関車が汽笛を鳴らし、がったんごっとん走っていた昭和の時代は貧しかったが、活気もあったし、楽しかった。

 

 


且井君が亡くなった

2017-02-15 19:31:27 | 無題

 美唄東高校に勤務していた時、紋別から転勤してきた。トラックに軽自動車を積んできたことでみんなを驚かせた。なかなかの人で、私より二歳若かったけれど何かにつけてリーダーシップを発揮していた。当時の森浦校長先生にも信頼が厚く、教頭試験を最初に推薦されて昇任されたのでした。私が札幌西陵高校に転勤になってきているときに札幌西高校の教頭となってこられ、丁度その時西陵高校が全国高等学校PTA連合会 の事務局校となりした(その時の西陵のPTA事務局長が私だったのです)、そしてたまたまこの時に全国高P連大会が札幌で開催されることとなりました、且井先生は、その大会実行委員の中心となって活躍されていました。その後恵庭高校の校長先生を務めて退職し、福井に家を建てて住まわれていたのです。

 退職後も美唄東の仲間何人かに声をかけて、第二美東会(第一美東会は私が中心になって集まっていた会です)みたいな会を開いていて、私も何回か呼ばれた。

 その時集まっていた尾崎先生も伊藤先生も亡くなってしまっている。一番元気そうだった且井さんがなくなられたとは驚きです。お会いしなくなって5年以上もたっているし、夜、車を運転することがきつくなっているので、悪かったけれど葬儀は失礼させてもらいました。でも教育局関係とか、西高関係とか、恵庭関係とか多くの会葬者で立派な葬儀になったと思います。