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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

おしゃべり・・・弁舌

2021-03-04 18:32:43 | 無題

 私の父は話が上手だった。ひとと喧嘩するような話は聞いたことがない。小学校長として、の方たちを前に話す話はとても小学生の私が聞いても上手だと思う話ぶりだった。奉職して聞いた町長さんの話は何ともひどかった。それなら私でもしゃべれると思うほどだった。それが数年たったら結構聞けるようになった。上手になったのです。何でもそうですが、場数を踏めば、それなりに力が付いてくる。しかし、型通りの話を型どおりにできるようになるだけで、話の中にウイットを聞かせたり、笑いを取ることをしてみたりすることは、話し上手、弁舌にたけた人となる。それも考え抜いた原稿でなく、当意即妙に話せる人こそ弁舌にさわやかな人となるのでしよう。そんなことを思いながら自分を振り返る。何とも話し下手の情けなさがこみあげてくる。数えきれないくらい挨拶などはしていますが、上手にやれて良かったという思いでがない。其れよりも、話の途中で横道にそれてまとめるのにとんだ苦労をしたことの方が多い。
 最近は、挨拶をしなければならないような場面もなくなり、その必要が無いだけにますます頭の中が空洞化して、とてもまとまった挨拶もできないだろうと思うようになっている。弁舌はおろか、駄べりすらおぼつかない自分にあきれている。
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おしゃべり・・・おしゃべり上手

2021-03-03 19:15:14 | 無題

 東京五輪組織院長だった森さんが、女性は話したがり屋が多いから、女性の理事が多いと時間がかかるといったようなことを言ったということで、大変な仕事を取り上げられることになった。
男性と女性を比較してみると、絶対に女性の方がおしゃべりだ。男女の感性の違いなのでしようか。友達になるのも早い。一度どこかで知りあって少し話しただけなのに、しばらくたってあったら、昔からの友達みたいに話しを弾ませている。私にはできないことなのでいつも感心させられる。確かに女性には、家族のことも食事のこと、化粧のこと、着物のことなどなど男性にない共通の話題があり、話題の中にその人の特徴が出て印象に残るのかもしれない。
 それはそれとして、おしゃべりも上手にもなれるし、下手にもなる。どうも私は下手になるほうに属するみたいだ。性格に依るのでしょうか、人の中に入っ行って、積極的に話の仲間に入ることなのでしよう。人の話がつまらなければ話の方向を変えてやる位のことをすると変わってくるでしよう。話の輪の中に歯中心になる人がいて、その人を押しのけてまではなかなかできないのでしょうが、自分にも経験があったり、違う意見があったりする時にどこかでそれを発表していくのことができると良い。おしゃべりでも、そこに秘められたものがある。それを感じ取り、自分の話題をを膨らませるようにすればよい。それにしても話相手がいなければどうにもならない。今私は90歳間もなく91歳です。おしゃべりの機会が本当に少なくなっていて、おしゃべりを忘れるのではないかと心配しています。話し上手という人はいます。逆にに話し下手だった人が何年か合わないうちにとても上手になっていて驚かされることもあります。
 普通の駄べりと人前での挨拶があります。人前の挨拶は、上達が早いですね。
 最近とみに話が下手になってきている、書いてみましたが、継続して話をする時に、話の主題から離れると、覚えているはずの話の中身の名前が出てこなくなり話が壊れることが多いのです。おしゃべり下手の見本みたいな一文になりました。
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おしゃべり・・・お笑い

2021-03-01 19:33:53 | 無題

 コロナが始まって家に居ることが多くなり、テレビを見ることが多くなった。中でもお笑い番組が幅をきかせていて、ついつい見てしまうことが多くなっている。困ったことに、これも歳のせいで耳が遠くなっていて、テレビの音声が良く聞取れないのです。でも今まで知らなかった名前を覚えたりしています。昔の漫才師とか講談師、落語だとかはとても良く笑わせられたり、泣かせられたりしたものでしたが、今の若い漫才師の話は私を笑わせるような中身でない。今一番の笑いは笑点です。 昨年だったと思いますが、娘が札幌落語シリーズの入場券を持ってきてくれた、札幌芸術劇場での落語でした。3階の席でした。身振り手振りはもとより声も聞こえない何ともつらい時間でした。落語は小劇場でなきゃだめですね。笑ったといえば、もう何十年か前てすが、当時文化講演会などを町が企画し、小説家とか、作曲家だとか、有名人を招いての講演会が年一度くらい開催されていた。この人たちの話は、いろいろなエピソートを盛り込んだリアリティのある話が多く、涙を流しながら笑って聞いたものでした。今のテレビのお笑いでは笑うこともありません。歌手のホテルでのデイナーショウなども何回かいったことがありますが、お客を前に鍛えてきた方たちです。やっぱりトークが人をひきつけ楽しい会にしてくれます。中央区にいれば機会があるのでしようが、手稲だと一年中目を凝らし新聞の広告を見つめていれば素晴らしい機会にも恵まれるのでしょうが、それも面倒になっています。
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おしゃべり・・・・小学生のころ

2021-02-28 19:48:03 | 無題

 小学校に入学したのが昭和12年、日中戦争(̪支那事変)の始まった年です。学校に在る本は戦争ものばかりです。数が少ないからすぐ読みつくしてしまう。それでも、小学校3年生のころ、吉田先生が一冊の厚い子供向けの中身の本をお持ちになって、時間を割いて読んで下さるのです。それが本当に楽しく待ち遠しかった。この吉田先生が一度詩吟を聞かせてくれた。それが忘れられず、結局私の後半生を形成することになった。本を読みたくて父の書棚を調べたけれど、子供の読める小説はなかった。ただ、青色の装丁の大衆文学全集全7巻があり、これが小学生時代の読書の対象でした。此の当時蓄音機がありましたが歌は軍歌ばかり、ほかは浪花節でした。浪花節は良く聞きました。廣澤寅蔵の次郎長もの等を聞いて楽しんでいました。演歌が好きなのもこんな生活からきているのかも知れませんね。
 終戦が永山の一年生の時でした。終戦後の混乱は教科書を墨で塗りつぶすようなところから始まって、整然とした学校の雰囲気がこわれ、社会基盤もこわれて、ようやく新しい時代を感じられるようになったのは二年後くらいからだったと思います。新しい書物や、映画も復活し新しい時代が来たのですが、私は本を買うような余裕もありません。師範の本科に入ったころから、少しづつ本を読んだり映画を見たりして、新しい時代を受け入れるようになったのですが、故郷の青年団に入り、インテリぶって文芸誌を作ったり、演劇をやったり、フォークダンスを教えてあげたりすることに熱中した思い出があります。
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おしゃべり・・・友達

2021-02-27 18:58:22 | 無題

 本当の友達・・・いません。ライバルとして共に学び、教え合い助け合い何十年かの人生を、まさに苦楽を共にするような付き合いをしてきた友達を、親友=友達といえるのでしよう。私にはライバルとして張り合うような友達がいなかった。私がいけないのです。何事もとことん本気で追及する何物ももたなかったからなのです。人生の中の何年かという間の友達は何人もいます。多くの人がそうかもしれません。
 一人とても不思議な縁の友達がいました。先日稲苑大学のことを書きましたが、12期に応募して抽選で落ちて、13期になったということを書きました。その12期にいた方で「よしさん」で通っていた方です。
知りあったのは「いの平」でした。12期を卒業し、これからOB会で楽しめるという時に、OB会を退会したのです。高等学校は札幌西でした。卒業後国鉄に就職して定年まで勤め、定年退職後鍼灸治療士の資格を取ったという方です。足腰を鍛えるといって新聞配達の仕事をづけておられました。とても人を引き付ける性格の方で、私が詩吟をやり、漢詩を作ったりするのを認めてくれての友達だったのかもしれません。とにかく話が合い一緒すると私は10時に帰ることにしていましたが、いつも帰るまで話し相手になってもらっていました。あるとき、書き溜めていた随筆を持参して読んでみてくださいという。現役の時に書かれたものや、退職後のことを雑文と銘をつけて書いたものでした。読んで、そのまま返すのに何かもったいなくなり、「私の雑文集」というタイトルで、PCで印刷して冊子にしました。そして、次の日にでも「いの平」であって、差し上げようと思い電話を入れました。これが初めての電話でした。電話に弟さんが出て「兄は夕べ亡くなり今晩葬式なのです」という。え!といったきり言葉をつづけることも出来ない驚きでした。前の晩、やはり「いの平」に行っていて、他の友達と二次会に出掛け、その帰りぎわに滑って転び階段に頭を打ち他界したといいます。いい友達だったのですが、折角作って上げた雑文集も見てもらえぬままに別れてしまいました。
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 おしゃべり・・・山菜とり

2021-02-26 19:22:43 | 無題

 上川にいたころは学生時代、戦時中から終戦後の一番ひどい時代でした。米がなくてジャガイモとかかぼちゃが主食になることもしばしばでした。そんな中いちばん先に食べられる野草が ヤチブキ  でした。堅雪を渡って川淵に行くとまだあたりは雪なのに雪の解けた川縁に鮮やかな緑が姿を現しているのです。撮ってきてほしいといわれたわけでないが、取って帰ったものでした。本格的に山菜取りをしたのは結婚してからです。家内の義兄が月形にいて、山菜採りの名人みたいな人でした。月形近在の山菜場所をよく知っていて、時期になると誘ってくれました。アイヌネギから始まって、独活、蕗、竹の子、キノコまで毎年楽しませてもらいました。山間に入ってゆきます。鶯の鳴き声が沢一杯を包みます。あの声を聞くだけで 十分です。山菜もさる事ながら、あの鶯の声をもう一度聞きたいものだ。
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おしゃべり・・・・釣り

2021-02-25 19:21:07 | 無題

 大雪山の麓、上川郡上川村字東雲というところが私の育ったところだ。このは全部水田農家で戸数は20軒に満たなかったと思う。ただ別に、安足間発電所がありその従業員の官舎が一棟二戸6棟が一塊であって、ここの方たちがいわばインテリー層と思われるだった。そのの小学校長が父だった。
 この小さなは水に恵まれていて、石狩川の本流が流れ、更に愛山渓を源とする安足間川が流れのはずれで石狩川と合流していた。更にこの二つの流れの真ん中を水力発電の水路が掘られている。石狩川、安足間川のどちらにも支流が流れこんでいて、その支流が私たちの釣りの場所だった。釣れるのはヤマメと雨鱒、イワナ(おしょろこま)です。小学校の5年生くらいからヤマメ釣りを覚えた。
 自分ではヤマメ釣りは名人だとおもっていた。奉職してから先々で友達をヤマメ釣りに誘ったけれどまともに競争できる人はいなかった。それが、札幌に来て覆らされた。仕掛けが違うのです。その仕掛けを使うと素晴らしいのです。それ以来、今までの仕掛けを捨てて、この仕掛けをまねしてやってきました。
 札幌に来た頃は浜益まで出掛けていましたが、赤井川を教えられ、其れからは毎年赤井川に出かけていました。6月ころは越年ものの良いサイズのものが釣れます、10月になると新子が釣れるのです。
あのヤマメ・・・私たちの小さい時はヤマベと読んでいました、漢字で書くと山乙女と書きますがきれいな魚です。もう釣りをやめて何年になるのでしよう・・・。
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おしゃべり・・・囲碁 段はもらわなかった

2021-02-23 19:05:59 | 無題

 囲碁・将棋・・・趣味の定番、囲碁は2段でうってもいいといわれたが、初段の免許ももらわなかった。奉職した沼田高校で英語のNA先生と、囲碁友達となった。二人とも初心者で白黒を奪い合いながら楽しんだ。7~8 ,年で4~5級になったころ、沼田で北空知囲碁大会が開催されていました。4勝または5勝一敗で予選通過となります。有段者の部と級位の部があり、二人で挑戦したこともありました。徹夜の大会になります。プロ棋士がいらっしゃっていて、何人も一度に相手にして打ってくれる。有料だけど、負けても点数に関係なく勝と一勝をもらえるだから三勝するとプロの先生にお願いすることになります二人とも結局予選通過できなかった思い出があります。
 美唄東に転勤になったら、強い方が沢山いらっしゃいました。中で5段をお持ちの方がいて、良く相手にしてくれたのですが、5目おいて相手にしてもらうのですが、かなわないのです。あるときの勝負で初めに「5目勝つからね」といわれてほんとに5目負けたことなどいまも思いだされる。札幌西陵に転勤になって、一番の友達だった友成先生は6段で、四目でいいよといって、四目置きで相手にしてくれた。ほとんど勝てなかった。それでも、初段の免許申請してあげるといわれたけれど、断りました。二段で打ってもいいよといわれていたけれど、定石の勉強もしていない状態では免状が泣くと思って断った。碁盤は自分で買った練り物一台と美瑛の義弟に貰った新品のトドマツの7寸の厚さにきれいな木目の入ったものがあったけれど、使うこともなく詩吟のお弟子さんで強い方がいましたので、二台とも進呈しました。退職後暫く老人福祉センターの囲碁・将棋の部屋に通いましたが詩吟が忙しくなりやめました。今は誘われても打てないでしょう。
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おしゃべり・・・・マージャン

2021-02-22 19:01:23 | 無題

 退職の年、北大で肺の無料検査をしてくれるというのを聞き、応募しました。普通の検査にない内視鏡まで入れての検査を無料でやってもらいました。結果、肺気腫です。煙草やめなさい。と診断されました。でもすぐタバコをやめないでいたのですが、たまたまテレビで病院の廊下を酸素ボンベを引きづって何人もの人が歩いている姿が放映された。これを見て即座にタバコをやめました。60歳の時です。それ以来、北大の呼吸器科へ毎月検査に出かけることになりました。担当が西村先生でした。当時はまだ教授になっていませんでしたが、途中から教授に出世され、定年退職の時まで世話になりました。途中西村先生が指導されていたCOPDコホート研究会の協力員になるよう頼まれて5年間お手伝いして、感謝状をもらいました。西村先生の退職と同時に、かかりつけの病院を渓仁会に移してもらいました。
 60で肺気腫、お気づきだと思います.麻雀なのです。大学生のころから覚えて虜になりました。煙草はつきものです。そのつけが肺気腫だったのです。麻雀は強かった。でも、タバコをやめると同時に麻雀もやめました。麻雀の自慢をする人と随分お会いしていますが、その話し相手にはなりませんでした。
 それにしても随分長生きしています。肺気腫で最近は歩くこともままならなくなっていますが、それでも詩吟の教室一つはちゃんとキープしています。ただコロナでカラオケができなくなり、生きがいの一つを失っています。
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おしゃべり・・・・パークゴルフ

2021-02-20 19:56:55 | 無題

 退職して2年目くらいからパークゴルフに取りつかれた。ゴルフはお金もかかるし、相棒もいないので初めから諦めていた。そこでパークゴルフを知り、はまりました。町内会でもやっている人は殆どいなかった。朝6時に稲積公園に行き、一時間ほど遊び、帰宅して朝食が終わると森林公園に出かけて、時によっては午後まで通して遊んだりしていました。そのうちに山口西(バッタコース)ができて、バッタクラブというクラブもできたと聞いて、早速仲間入りしました。このバッタクラブは会員200名くらいいまして、私の町内会から他に三人の四人が入会しました。毎月大会が開催されます。長いこと在籍していましたが、優勝したのは1回だけでした。パークゴルフをやりはじめて、これは運動にもならないと思ったりしていましたが、85歳を超えたあたりから、今度は18H回るのがやっとになってきました。88歳の時やめることにしました。それでも道具一式車に積んだままで、まだ未練が残っているようです。しかし、酸素ボンベ引っ張って行く気にはなれません。そこそこ活躍しましたが上手にはなれなかった。いい友達もいたのですが、今は名前も思いだせなくなっている。
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