旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

木村政彦

2015年03月11日 08時50分29秒 | Weblog

フタバ図書で増田俊也著「木村政彦は なぜ力道山を 殺さなかったのか」(新潮社)が目に留まった。2011年9月30日発行の22刷だから戦後格闘技ものにしては比較的に新しい著作だ。主要参考文献もほぼ網羅している。目次の第24章は、「大山倍達の虚実」とあった。そのページをめくってみて購入を決めた。ハードカバーで700ページにおよぶ大著だ。後半部についてはほぼ読み終えた。
柔道家木村政彦はともかく、元関脇プロレスラー力道山と漫画「空手バカ一代」の大山にはマスコミによってつくられた伝説と実像との間に大きな落差がある、来歴が朝鮮半島であることから生じた誤解や偏見も入り混じってその実像を掴みにくい。ところが、日本柔道選手権12連覇の木村政彦はその来歴を掴むことが比較的に容易で解り易い人物だ。著者は、力道山や大山倍達についてもその実像について詳しく実証的に解説・言及しようと試みる。

 

 木村政彦

 

     大山倍達   力道山

古流柔術が廃れていくなか、加納治五郎が明治15年に講道館柔道を立ち上げ、実験的に「当て身(打撃法)なしの乱取り」を作ってそれを試合にも採用した。講道館は実験でしかない打撃なしルールのまま競技人口を増やして隆盛を極め、国内の他の格闘技を駆逐してゆく。結果、昭和に入る頃にはすでに日本の格闘技は史上空前の「打撃技法空白時代」に陥っていた。それでも加納は沖縄空手やボクシングの技術を取り入れようと必死に模索し続けるが、理想を実現できぬまま昭和13年に逝く。柔道家たちが、格闘技には格闘技打撃法がないように思いこむ陥塀に陥っている頃、ベースにボクシングを持つ大山倍達は空手を習い、ウェイトトレーニングを取り入れて体をつくり、街中で実践を繰り返し、試行錯誤しながら自流を立ち上げた。確かにまだ原始的な空手ではあった。しかし、少なくともあの時代、大山は日本屈指のストライカーだったのではないか。』 増田俊也著「木村政彦は なぜ力道山を 殺さなかったのか」より抜粋。


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