旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

我妻栄

2007年11月20日 09時01分13秒 | Weblog


まずもって文章のうまさ、着眼点と説得力、思考の強靭さ。故我妻栄、法学者なのですが本物の教養を感じます。

昨日は地元の中学校長から学力の向上について話を聞きました。できる子はほおっておいてもできる。困難なのはabcも知らないで中学を卒業してゆくような生徒。昨今では本を読むことすらできないような生徒が2割から3割に達することを憂慮している由。

京大上司に早稲田部下の話に関連して最近、(受験)勉強ができる人には頭が悪いのが多い。勉強ができなかった人の中に、いい頭をしてるなあと感じることが多い。


我妻栄

明治30年4月1日米沢市鉄砲屋町に生まれた。

 父又次郎は米沢中学校で、明治28年から大正11年まで28年間英語教師として教鞭をとり、母つるは、山形師範学校の第一回卒業生で、興譲小学校で長く教壇に立っていた。

 我妻は、明治43年興譲小学校を卒業後米沢中学に進み、終始特待生で通した。級友には、生涯親交を続けた元米沢市会議長の本田吉馬のほか、児童文学者の浜田広介、海軍少将の山森亀之助らがいた。先輩の矢尾板誠策、小林仁、北沢敬二郎らに伍して、我妻は米沢中学の4秀才の一人に数えられ、語り草となった俊秀である。

 大正3年米沢中学卒業後、第一高等学校に進み、同6年東京帝国大学法科大学独法科に入学したが、一高・東大時代を通し、元総理大臣岸信介とは首席を争う好敵手であった。

 大正8年、大学在学中に高等文官試験に合格したが、鳩山秀夫教授に嘱望されて大学に残り、同9年東京帝国大学特選給費生、同10年助手、同11年助教授、そして昭和2年教授に昇格した。

 その間、大正12年から14年にかけて、ドイツ・フランス・イギリス・スイス・アメリカに留学している。帰国後大正15年に「私法の方法論に関する一考察」という論文を発表して以来、『民法総則』『物権法』『担保物権法』『債権各論』『親族法』『民法講義』『民法大意』『民法案内』『民法研究』等多くの著書を刊行し、伝統的な法律学に社会学的方法をとり入れた我妻民法体系を結実させた。

 昭和20年、終戦後最初の法学部長に就任、南原総長を補佐して難局に当り、同32年定年退官、東京大学名誉教授となった。この間多くの学者を育成している。

西暦1897~1972
(明治30~昭和48)
 我妻は、明治から大正にかけ、一応の形成を見た民法体系を、判例を中心として日本の社会的現実のつながりの中で充実発展させ、今日の民法学の基礎を固めたが、『民法講義』は五部まで刊行され、死去の年まで完成を見なかった。他方、そのライフ・ワークとして「資本主義の発展に伴う私法の変遷」というテーマのもとに、『近代法における債権の優越的地位』『経済再建と統制立法』を発表している。

 研究や教育以外にも、戦後の民法改正(家族法の改正・旧家族制度の廃止)で指導的役割を果したのをはじめ、多数の立法過程に重要な役割を果したた司法法制審議委員会、臨時司法制度調査会会長のほか、日本学術会議副会長や日本学士院会員として活躍、憲法問題研究会には積極的に参加した。

 日米安保条約が批准された昭和35年6月7日、朝日新聞紙上に「岸信介君に与える」という我妻の手記が発表された。かつての学友の岸は、敗戦で戦犯となり巣鴨刑務所に入ったが、その時我妻は、友人として釈放の嘆願書に名前を連ねた。が、安保条約の是非で二人の意見は完全に分かれてしまった。

 「君は定めし、いまの外交路線を強めていくことが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられるでしょう。その信念を疑いはいたしません。しかし、戦前君はドイツと組んで、中国と英米を敵として大東亜戦争を断行することが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられた。それはとんでもないあやまりだったのです。君はまた同じあやまりを繰り返しているように、私には思われてりつ然とします。今日君に残された道は、ただ一つ、それは政界を退いて、魚釣りの日を送ることです。」

 真の良識と勇気の言言句句である。岸信介は安保条約が成立すると政界を去った。一国の首相も、賢哲の英知の前にはシャッポを脱がざる得なかったのである。

 昭和46年4月には、裁判官の新・再任拒否、修習生の罷免という最高裁がとった一連の処分について、我妻は、「最高裁に望む」という論説を発表し、その血も涙もない形式論理をつき、「最高裁は、せめて再任拒否と不採用の理由を明示すべき」ことを訴えた。

 この岸総理退陣勧告といい、最高裁に対する警告の文面といい、そこには我妻の控え目ながら、学者としての使命感と社会的役割の自覚が躍動している。

 昭和39年11月3日、民法学界に尽した功績が認められ文化勲章を授与された。又、同月米沢市では、伊藤忠太博士に続いて、我妻を米沢市名誉市民に推戴した。

 我妻の母校興譲館高校には、昭和41年「自頼奨学財団」が設立されたが、ここに文化勲章の年金及び多くの私財(約1,600万円)を寄付し、現在では約3,000万円に達している。この他同校には、我妻寄贈による「自頼文庫」も作られている。更に、母校の興譲小学校にも、昭和44年5月、児童向けの本724冊や書架を寄贈、「まがき文庫」が設立され、前記自頼財団より毎年十数万円の図書購入費が贈り続けられている。
 我妻は又、小学校時代の恩師赤井運次郎に対し、生涯弟子の礼をもって謝恩と敬師の誠意を尽した。年老いた恩師に接する情愛には、上杉鷹山が恩師細井平洲に捧げた親愛敬慕の念にも通じる温かいものがあった。

 我妻は興譲館高校の創設80周年記念の折講演し、次ぎのように後輩を激励した。

 「…即効性のある化学肥料とちがって、堆肥というのはすぐには効かないが、2年、3年とやっている間に土質を改良することさえやりかねない。人間もこの堆肥型でなければならない。田舎に育った者は、堆肥でなければその責任を全う出来ない。息の長い人間になることだ…」

 我妻の生涯は、まさに努力研鑽の着実な積み重ねであり、天賦の英知を完全に活かしきった一生であった。

 昭和48年10月21日没

 長井市名誉市民第一号の法学博士孫田秀春は、我妻の義兄である。


続 米澤人國記<近・現代編> 米沢市史編集資料より

  


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