旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

水戸学と三島由紀夫

2008年05月24日 09時35分44秒 | Weblog
小島毅著「近代日本の陽明学」の中に、震災にあって崩れかかった家屋の下敷きになった母親を救い出そうとして、藤田東湖が梁の下敷きになって圧死したことが記されている。攘夷派の頭目であった東湖が急逝したことによって藩に内紛が生じ、江戸にいた水戸藩主水戸慶篤に代わってその内紛を収拾するために派遣されたのが常陸宍戸藩主松平頼徳であった。

松平頼徳は過激派「天狗党」と対立する穏健派「諸生党」と一戦を交えて幕府の介入を招いた責任を取らされて切腹させられる。東湖の遺児である天狗党の藤田小四郎も処刑された。松平頼徳の妹の高子(高姫)は6年間座敷牢に置かれ。のち幕臣永井家の後妻に入って夏子という娘を産む。この騒動から60年後の大正14年に夏子に初孫の平岡公威(三島由紀夫)誕生。血筋でつながる三島と水戸学との因縁である。

小島毅著「近代日本の陽明学」

2008年05月24日 01時01分02秒 | Weblog
紀伊国屋で小島毅著「近代日本の陽明学」が目に止まった。立ち読みをしてみた。この種の本にしては文章が明快なので買った。この書は、江戸時代末期の大塩中斎の反乱に始まり三島由紀夫の割腹に至る時代を通じて、儒学の素養をもつ知識人たちがどのように陽明学と関わったかを明らかにしようと目論んでいる。

「三島由紀夫と陽明学」の解明に際して、ニーチェが「悲劇の誕生」の中で明らかにした、アポロン的な表象とディオニッソスな行動という表現が、突如として躊躇もなく出てくるところには少々戸惑った。が、学者の著作にしては全般に表現が易しくヒュウモアに富んでいる点は大いに好感が持てる。

後半に至り、三島由紀夫(平岡公威)と山川菊枝(社会主義者山川均の妻)の家4から5世代前に水戸学や水戸藩の指導層に属する先祖がいることに着目して、日本の陽明学が水戸学と深く関わってきたことを解明してゆく。

三島の陽明学は予想通りというべきか余りに付焼刃的であったことを明言されている。三島が大学アカデミズムの陽明学研究においてその業績に言及されることのない安岡正篤にあてた書簡は、「書斎派の朱子学に対する敵愾心に溢れ、『知行合一』の陽明学に東洋の真髄をみる立場」に立つ。幕末以来の日本陽明学の心性を見事に表現していると言わざるを得ないと括る。

2時間ほどかけて流し読みをした。勤務先の近くに記念館がある頼山陽、水戸学の藤田東湖、大川周明あたりに興味がもてた。久しぶりに井上哲次郎や内村鑑三、新渡戸稲造の思想の片鱗に触れもした。

また、水戸といえば「大日本史」の編纂事業でのちに藩を疲弊させた天下の副将軍二代目水戸黄門が著名である。中納言に任官した者のことを中国では「黄門」と呼ぶ慣わしがある。水戸藩主で中納言であればみんな水戸黄門なのである。

したがって江戸時代を通じて水戸黄門は7人いた、かの黄門様は2代目なのであるとテレビでいっていたと小島はいう。例えばこのように思想を語る表現が実に気さくなのである。

文部科学省科学研究費補助金を受けてこの軽さ。この明快さ。我が国のアカデミズムもようやく雪解けの季節なのであろうか。経歴によると小島毅はわたしよりひとまわり年少の東京大学大学院人文科学研究科の助教授である。