旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

手紙

2007年08月31日 15時41分12秒 | Weblog
鈴木大拙は「今日の禅は、漢民族の間で成立したものゆえ、漢民族に特有の性格がそのなかに織り込まれている。」と述べています。また、禅(宗)ほどではないにせよ、仏典が漢語訳されてゆく過程で、その解釈にかなり中国的な思想が入り込んでいったことが推測されます。

当たり前と言えば当たり前なのですが、ある時期、中国で仏教が隆盛を極めた要因は統治者や民衆の側に仏教を受け入れる文化的土壌があった、または、仏典の漢訳が進むにつれて仏教の布教が進んだ点にあったのじゃないでしょうか。

禅宗系の坊さんってすこぶる横柄じゃないですか。極めて中国的ですよね。それに、宗派を問わず、一般にお坊さんって偉そう(えらっそうと読んでください。)じゃないですか。ある種の権威の表現なのでしょうね。中国、半島経由でわれわれが読む漢訳仏典って、かなりの漢字の知識がないと読めません。

わたしは真宗の安芸門徒の家に生まれました、浄土3部経が聖典なのですが、いまだに、この三部経が何を語っているのかよく解りません。親鸞の「教行信証」なんてもっと解り難い。あの経典は漢文で書かれています。最近、その口語訳を読みました。意外や明快。漢文であの著作をものにした凡夫を連発する開祖親鸞って当時ではかなりのインテリだったのですね。

一方、原始仏典と呼ばれる経典群。中村元さんの翻訳で読んでいます。これが実に明快なのです。漢訳の仏典と比べると天と地ほどの差があります。この原始仏典のうち岩波文庫にはいっているものをワイド版で読んでいます。特に最近「ブッダ最後の旅」がこころを癒してくれるのは年のせいというものなのでしょう。

原始仏典によると、ブッダの臨終のことばは「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修業を完成しなさい。」でした。○○さんほど早足ではありません。和訳で「大学・中庸」をようやく読み終えました。「抜本閉塞論」を何度もおさらいしてから「伝習録」をやはり口語訳で読み進んでいます。

江戸時代の封建制度や明治以降の天皇制のバックボーンとなった儒教について学び始めたばかりの初学者ですから、とても仏教と儒教の対立軸について言及することはできません。資格もありません。これからもいろいろ教えてください。勉強になります。