旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

森達也著「スプーン… 超能力者の日常と憂鬱」

2005年10月25日 23時41分13秒 | Weblog

超常現象について曖昧にしていたツケがまわってきた。サイババに続いてユリ・ゲラーの世界につまずきそうだ。森達也は例のスプーン曲げ少年たちのその後を追っている。

念力でスプーンが曲がるものかどうか?

スプーンが曲がろうが曲がるまいが、そんなことはどうでもいいことじゃないか?要はその念力とやらが社会的な効用を持ちうるかどうかだ。念力でスプーンを曲げることができるのなら、なぜその力を社会に貢献するために使用しない?それをやろうとしないから手品だと言われるのだ。周知のように元スプーン曲げの少年たちは、その力を科学的に解明することに極めて消極的だ。状況証拠からいうとクロ、単なる手品だといえなくもない。あっと驚くようなタネがあるにちがいない。

一方、量子力学によればスプーン曲げは可能であるというので、なにかしら心がときめく。山は険しいが、ボーアやアインシュタイン物理学の概要くらいは掴んでおきたいものだ。もっとも、サイババやユリ・ゲラー、スプーン投げの奇跡を信じかかったことがある私自身に対する自戒の意味も込めて。

そうそう、この森達也さんも広島県は呉市の出身でした。 

パンタ笛吹著「裸のサイババ」

2005年10月25日 23時39分41秒 | Weblog
その昔、「理性のゆらぎ」ほか青山圭秀のサイババ3部作を読んだことがある。かの京都大学理学部を出た理学修士で医学博士の青山さんが、もっともらしいことを言うものだから文科系のこちらとしてはつい信じてしまいそうになる。意外に権威には弱いのだ。

野坂昭如風の表現でいうと、
「それにしても宝石や貴金属・時計の物質化にビブーディという灰撒き、終いには目の前にいながらにして他の場所に同時出現するというおどろおどろしさ、さながら究極のテレポートの噂。及びもつかない学者先生たちですらサイババを礼賛、小生のような凡俗ならばこそ、ひょっとしてという気分になってしまうという次第。

なにやら手品師のようなあり難い神様のような不可思議さと風貌に怖気づいて、サイババの噂に触れず近づかず、幸か不幸かうまく忘れかけていたものの、どこやらの偉い学者が量子力学的見地からすると超能力というものは十分にありえるなどといい出すご時世。そこで小生、かの山本義隆大先生が翻訳されたというニールス・ボーアの難解な量子力学の論文集に挑むも挫折、思えば生来物理音痴のていたらく。当初より量子力学の理解は無理というもの。」(うまく野坂風に仕上がった、パチパチ。)
という言い草にでもなろうか、わたしは半信半疑であった。

笛吹は明快にサイババの奇跡に疑問を投げかける。そして、サイババの元側近たちの証言として奇跡はやはり手品じゃないかと推定する。さらに困ったことにサイババがホモセクシャルであり、3万人に及ぶ青少年が彼の性の犠牲になったことを元側近たちの多くが語っている。(もちろん、ホモセクシャルが悪いというのではない。宗教的権威をかざして関係を迫るサイババが問題なのだ。)

サイババの偶像は、笛吹らの著作や他のサイババを告発する団体によって既に地べたに引き摺り下ろされかかっている。それでも、地上には5千万人に及ぶサイババの信者がいる。その中でもっとも気前よく寄付をするのはその殆どが日本人らしい。サイババを告発している団体はこの気前がいい金主に困っているそうだ。

人騒がせな青山圭秀さんのコメントが欲しい。ちなみに青山は受験の名門、広島学院高校の卒業である。


朝倉喬司著「ヤクザ・風俗・都市」 ③ 芸能人

2005年10月25日 23時20分29秒 | Weblog

『各地を巡回する漂白の芸能民と大夫元=勧進元の関係を近代に持ち込んだのが、地方興行を通じた芸能人とヤクザのつながりである。地方の住民にとっては、遠方から巡ってくる芸能者と人々との劇的な落差こそが芸能の力の源であった。映画産業勃興当時の日本映画界も、当初はこの領域、つまり、一般社会にとっては「異質な地域」に基盤を置いた。
ところが、60年代には近代市民社会の代弁者である新聞社を拠り所とするテレビが商業基盤を固めるに至り、芸能界も変容した。市民社会に固有の平準化によって、芸能人と大衆との落差が急速にに切り詰められて行ったので、芸能人はテレビ空間において小さな落差をめまぐるしく自作してゆかざるをえない状態に陥った。』