私が終戦を迎えたのは、今のサハリン南樺太の国境近い三菱の炭砿町塔路で、
国民学校の高等科一年生、数え年13歳の時でした。
今にして想えば、戦争は既に終わっていたのにそんなことも知らず、不当にもソ連軍に追われて昼夜の区別無く、山野を逃げ回っておりました。
戦争が終わって漸く家に帰れたのは、戦争が終わって既に二週間も経っておりました。
その間の出来事の一つは、今となっても忘れられずに時折り想い出されるのは、炭砿の坑口に避難する途中ことでした。
いよいよソ連兵が上陸して来るということで、それまでの少年隊を解散して避難場所の坑口に向かっておりました。
当時炭砿住宅街の奥にある坑口は避難場所の一つだったので、友人たち数人で其処へ向かう途中でした。
突然現れたソ連軍の戦闘機に追われたのです。機銃の弾が、私たちがとっさに身を隠したじゃが芋畑に、ばらばらと撃ちこめられました。
その後も避難中に死んだ方も多く、避難場所は違っておりましたが、私の同級生や先輩のお父さんなどが犠牲になりました。
その時には戦争はもう既に終わっていた筈なのに、ソ連軍はただ単に面白がって追い回し死に追いやったのです。
港の警備に徴用された私の父は、遂に戻って来ませんでした。未だに行方不明の侭です。ですから骨箱の中は空っぽの侭です。
そしてある日のこと、突然私たちは着の身着のままで、生まれた故郷樺太を追われたのです。
引揚げ後の生活は、周りの人々は優しく助けてくれましたが、裸一貫で引き揚げて来た私たちの生活はとても辛かったです。
今にして思えば、ソ連が不法に介入さえしなかったらば、父は行方不明にならず、また母やシベリヤ抑留された長兄などは、もっともっと長生きしたであろうと思います。
そんな訳で、戦争が憎いと言うよりも、私は敗戦間際に条約を無視して参戦して来たソ連軍がとても憎いし、この年になった今でもその恨みは消えません。
終戦記念の日は、樺太で受けた無念さは再び蘇えり、私にはとにかく辛い辛い一日でした
生まれです。偶々フレップでマスフレップを検索して
貴殿のブログを見る機会が有りコメントを入れました。
毎年8月になると敗戦からロスケから受けた数々の
非道な体験は忘れる事は出来ません。私も20日朝
真岡の艦砲射撃に遭遇し豊原まで逃走し、住んでいる
所に帰れと珍内に22年5月迄抑留されました。貴殿も
数々の悲しい体験をされました。ロスケ憎しです。
又ブログには綺麗な花を撮って居るのを拝見、私も
花と富士山を撮りブログに載せています.では又。
とても懐かしさを覚えました。
また貴方様のロスケ表現には、まざまざと当時の辛い日々を想い出しました。
早速く貴方様をご訪問後挨拶致したく思いましたが、未だにパソコン処理は
未熟なので、それは果たせませんでした。
ご迷惑かも知れませんが、出来ましたら宜しくお願い致します。
この度は本当に有難うございました。
http//domino177634.cocolog-nifty.com/blog/
直ぐにお礼をしなければならなかったのですが、今日は市立病院の予約日でほぼ一日係でしたので、お礼が遅くなりました。
ゆっくりお伺いさせて頂きます。
本当に有難うございました。