この度日本全土で猛威を振るった18号台風は、風台風とも云うべきでその暴風は各地で史上最大を記録した。中でも広島での最大瞬間風速が60.2メートルにのなった強風は、世界遺産で国の重要文化財でもある厳島の能楽堂を一瞬のうちに破壊し、全国で死者28人行方不明者15人負傷者800人余の多きに達した。
台風には余り縁の無い北海道であるが、今回の18号台風には昨年の10号以来の甚大な被害を受けた。北海道南部と札幌市地域特に日本海側が酷く、積丹半島では10メートル余の高波に因って、国道が160メートルも流され村が孤立化した。更に死者7人不明者2人負傷者は121人にも上り、は50年前の「洞爺丸台風」再来かとの記事にもなった。私はこの新聞記事に50年前に起きた、青函連絡船洞爺丸の遭難事件を想い出していた。
時は、昭和29年(1954年)9月26日のことである。西日本の各地で大暴れした台風は日本海に出て北上、いずれ温帯低気圧となる筈だったが、北海道に近付くに連れて猛烈に発達した。その時の情報収集の甘さが、僅か半年前に天皇皇后を乗せた事の有る新鋭船洞爺丸は他の青函船5隻と共に遭難し、函館湾七重浜の沖で座礁転覆して死者約1.150人を出す大惨事となった。そしてその翌日の新聞の死者と行方不明者の一欄記事に私の名前が載った。
何故かというと、当時私は三菱の炭砿に勤務する傍ら夜学(定時制高校)に通学していた。その学生証明書を、本社主催のバレーボール(9人制)大会に参加のために上京する選手に貸したのです。私の名前で学割を利用したので、私の名前が死亡蘭記事に載った訳です。当時私がバレー部の補欠部員であった事で頼まれ、図らずもその不正利用に手を貸し事になり、名前が広く知られる羽目になったのです。しかしその時補欠部員で有った事が幸いして、今此処でこのブログを書いて居られる訳なのですが・・。
死者の一欄記事が全国紙に載ったために、親戚友人などの問い合わせの対応が大変だった。その記事はその後直ぐに訂正されたが何よりも驚いたことは、時の日本社会党の浅沼稲二郎委員長から丁重なるお悔やみ状を戴いた事である。更に修学旅行で関西旅行中のやはり夜学生の友人、樺太小学校時代の同級生(稚内)が帰路途中にわざわざ七重浜で私の死体を探し回ったが、探しあぐねて家に寄って呉れた。本人が無事に元気で居る事を知りお互い抱き合って喜んだ。その後何回か開かれたクラス会では必ず話題に上った。
この遭難では周りの多くの友人知人が犠牲になった。特に日頃から私に目を掛けてくれた職場の先輩の死は、偶然にも出発の直前路上で出会っていただけに、私には大きく応えた。手を高々と振りながら去って行った先輩の姿が最後であり、今なお何かの折に鮮明に甦って来ます。
二日経った今日も新聞ニュースで今なお発表される被害状況に、50年前の洞爺丸台風を重ねて想い返して居ります。
台風には余り縁の無い北海道であるが、今回の18号台風には昨年の10号以来の甚大な被害を受けた。北海道南部と札幌市地域特に日本海側が酷く、積丹半島では10メートル余の高波に因って、国道が160メートルも流され村が孤立化した。更に死者7人不明者2人負傷者は121人にも上り、は50年前の「洞爺丸台風」再来かとの記事にもなった。私はこの新聞記事に50年前に起きた、青函連絡船洞爺丸の遭難事件を想い出していた。
時は、昭和29年(1954年)9月26日のことである。西日本の各地で大暴れした台風は日本海に出て北上、いずれ温帯低気圧となる筈だったが、北海道に近付くに連れて猛烈に発達した。その時の情報収集の甘さが、僅か半年前に天皇皇后を乗せた事の有る新鋭船洞爺丸は他の青函船5隻と共に遭難し、函館湾七重浜の沖で座礁転覆して死者約1.150人を出す大惨事となった。そしてその翌日の新聞の死者と行方不明者の一欄記事に私の名前が載った。
何故かというと、当時私は三菱の炭砿に勤務する傍ら夜学(定時制高校)に通学していた。その学生証明書を、本社主催のバレーボール(9人制)大会に参加のために上京する選手に貸したのです。私の名前で学割を利用したので、私の名前が死亡蘭記事に載った訳です。当時私がバレー部の補欠部員であった事で頼まれ、図らずもその不正利用に手を貸し事になり、名前が広く知られる羽目になったのです。しかしその時補欠部員で有った事が幸いして、今此処でこのブログを書いて居られる訳なのですが・・。
死者の一欄記事が全国紙に載ったために、親戚友人などの問い合わせの対応が大変だった。その記事はその後直ぐに訂正されたが何よりも驚いたことは、時の日本社会党の浅沼稲二郎委員長から丁重なるお悔やみ状を戴いた事である。更に修学旅行で関西旅行中のやはり夜学生の友人、樺太小学校時代の同級生(稚内)が帰路途中にわざわざ七重浜で私の死体を探し回ったが、探しあぐねて家に寄って呉れた。本人が無事に元気で居る事を知りお互い抱き合って喜んだ。その後何回か開かれたクラス会では必ず話題に上った。
この遭難では周りの多くの友人知人が犠牲になった。特に日頃から私に目を掛けてくれた職場の先輩の死は、偶然にも出発の直前路上で出会っていただけに、私には大きく応えた。手を高々と振りながら去って行った先輩の姿が最後であり、今なお何かの折に鮮明に甦って来ます。
二日経った今日も新聞ニュースで今なお発表される被害状況に、50年前の洞爺丸台風を重ねて想い返して居ります。
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