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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

玄関に吊るす正月飾り

2022年11月10日 07時41分46秒 | もらいもの・おくりもの
飾りたかった赤い実の千両は、ヒヨに喰われて全滅。

代打、ではないが我が家には万両もあった。

今年初めてになる白い花を咲かせた万両。

見ごろは7月22日だった。

花は萎み、青い実に姿を替えた日は10月23日。

冬が近づくにつれ赤くなった。

そうして、我が家の正月飾りに色を添えてくれた。

しめ縄は取材先でもらったもの。

蜜柑にウラジロは地産地消店「よってって」で購入したもの。

3役揃ったところで玄関を飾ってくれた。

(R2.12.31 SB805SH撮影)

正月前に先走りの今夜のご馳走は・・

2022年11月09日 07時13分42秒 | だんらん
この日の最後の取材地は天理市の仁興町。

場を離れ、車を走らせているうちにヘッドライトを点灯する時間帯に遭遇する。

朝早く出かけた民俗行事の取材は、きっちり夕方までかかった。

帰宅してすぐさま体温を高めるための入浴。

今夜は、せめて、熱々ふーふーの鍋を喰いたい。

そう思ったが、具材は用意できていない。

こんやのおかずは蛸、と伝えられた。

そう、都祁白石の辻村商店に立ち寄った際、これ旨そうやから、正月のご馳走にもらって帰るわ、といって買ってきた1500円の茹で蛸。

なんせ、でかい蛸。

冷蔵庫にあった椎茸はバター醤油焼き。



これ、旨いわとパクパク食べだした家人たち。

歓んでくれたらいいのさ。

(R2.12.30 SB805SH撮影)

上仁興・四社神社の正月飾りにカラスのモチ

2022年11月08日 08時02分49秒 | 天理市へ
写真家のKさんに教えてもらった村行事のカラスのモチ。

場所は、天理市の上仁興四社神社に見たことがある、という。

早いうちに行かねば、カラスのモチが、それこそカラスの餌食になってしまう。

急いでいかねばと、思う気持ちが胸躍る。

都祁白石から南之庄。

福住手前に遭遇した倒木処理。

天理ダムに向かう前の苣原を経て、ようやく到着した天理市の仁興町。

先に拝見した下仁興。

村の入り口に勧請縄を掛けていた。



さらに車を移動した上仁興の入り口にも勧請縄を掛けていた。

平成18年、19年、22年、23年、24年に行事取材していた仁興(にごう)地域。

知ったところは行きやすい。

初めて上仁興の年中行事お拝見した年は、平成18年12月8日。

村の行事の(八日講の)勧請縄掛け

下仁興もされている勧請縄掛け。

尤も行事名は神綱掛式

カンジョウナワかけを、神々しい詠み字にされたのであろう。

そのことはともかく、上仁興、下仁興の両地区とも一年に2度も、同じ場所に勧請縄を掛ける。

上仁興は12月8日に、年明けの1月7日

両日とも、綱に掛ける房に括る木々の葉は松葉。

下仁興も年末の12月8日であるが、翌年は2月9日

掛ける葉は、12月は上仁興同様の松葉に対して2月はシキミ(※樒)の葉をかける。

下仁興、上仁興の順に拝見した両地区の勧請縄。

コロナ禍であっても、なかっても掛けなくてはならない村を守る勧請縄。

以前にもブログなどで発信してきたように、下流から遡上してくる悪いもの、疫病などが村に入らぬよう、願いを込めて村の入り口に掛ける。

今年も、例年同様に掛けられた勧請縄。

その下を潜るのが申しわけなく頭を下げて、上の地に向かう。

そのときに気づいた、正月を迎える印し。



作業場の一角。

さりげなく飾っていた輪〆のしめ縄。

ウラジロもしているし、赤い実の南天も。



上仁興の集落は、そこよりもうすぐ。

歩いても数分のところに村の掲示板がある。



うち一枚の伝言は、12月の村行事を報せる掲示物。

毎年されてきた亥の子座は、神事ごとの”三献の儀”を取りやめ、自由参拝に。

全国的に、どこの地区もそうせざるを得なかったコロナ禍の対応。

”三献の儀”の場は、四社神社の拝殿内。

狭い場に人が寄り合う集会は極力避けたのだろう。

平成19年12月9日に拝見した亥の子座の行事など、秋まつりも同じような対応されたと思う。

掲示板から歩いてすぐ、四社神社がある。



手を合わそうとした、その場にあったたくさんの御供餅。



門松を立てた左右の石燈籠の屋根、火袋付近に。

前述した写真家のKさんの話によれば、これらの餅がカラスのモチである。



乾いた餅のようだから、今日に搗いて供えたんものではないだろうが、相当数の餅があったから貴重な映像記録になった。

(R2.12.30 EOS7D/SB805SH撮影)

苣原・コロナ禍の年中行事は・・

2022年11月07日 22時22分15秒 | 天理市へ
強風に煽られる冷たい風の日。

途中に立ち寄って確認した天理市苣原(ちしゃはら)。

なにかと年中行事を撮らせてもらった地域である。

確認したかったのは、このコロナ禍の状況である。

村の掲示板に記している年中行事。

神社やお寺さんの行事でなく、講とか地域集会もある。

拝見した日程は、1月末までの行事日程である。記載のタイミングは、月末と月半ば。

地域は回覧も廻されているが、日々見ることもあるらしく、重宝している掲示板。

これほど緻密にされている地域は、多くない。

1月1日の元日はともかく、気にしていた年中行事に5日のケイチンがある。

場は元西福寺とされる大念寺本堂。

参集する人らは宮本さん。

平成21年1月5日の取材に平成25年も訪れていた。

以前は11日だったが、今は9日にしているオコナイ(※担昇)は、苣原惣社九頭神社で行われる。

この行事も、また宮本衆とも呼ばれる宮座十一人衆の方たち。

寺行事のケイチンも神社行事のオコナイも、一年の初めに村の安寧を願って祈願する初祈祷行事。

日程は、離れているが神仏習合の行事である。

成人の日の祭日はとんど焼き。

23日は日待講の行事をされているそうだが、未だに取材の日程機会がとれていない。

(R2.12.30 SB805SH撮影)

都祁南之庄・国津神社のデキのいいドウガイ

2022年11月06日 07時38分11秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
都祁白石にかつてされていたカラスのモチ。

体験事例を話してくれた西隣村に住む南之庄のYさん。昭和14年生まれの83歳。

南之庄の年中行事取材の折りに、何かと教えてくださった。

年中行事にいちばんの笑顔で集落を巡っていたYさんの好印象

今も記憶に残っている年初めの正月八日に行われていた国津神社の蛇送り。

平成19年1月8日のこのときのYさんは、村の総代長だった。

村の一年に安寧を願う初祈祷行事

強い風が吹く日だったが、気象状況をもろともせず、笑顔で村の全戸を巡っていた。

さまざまな年中行事の中でも足腰がものを言う岳のぼり。

都介野岳(つげのだけ)の山頂に登り、南之庄の田畑を潤す水の神さんに参拝する。

平成22年に続いて、平成23年4月15日も同行した岳のぼり。

県内事例が少ない岳のぼりを2度も体験したありがたさ。

今の私には到底、挑戦できようのない身体になってしまっただけに、いい思い出になった行事である。

Yさんと、そのような思い出話をしていたら、今日の午前中に飾り付けを終えた国津神社のしめ縄のことを伝えてくれた。

そうか、今朝にされたんだ。

国津神社のしめ縄は、県内事例が少ない、特に大和高原地域にまず見ることのない簾型のしめ縄である。

あるとき、その名称をドウガイと聞いていた簾型しめ縄。

「今年のしめ縄は、えーでき具合になったから、見といてや」と、いわれて帰路に拝見した。

国津神社のしめ縄は、これまで何度も拝見してきた。

平成31年1月6日、一昨年に拝見していたドウガイしめ縄。平成18年12月30日に拝見したときの様相に変化があった。

門松の状態、位置も異なるし、簾の状況も違う。

大きな違いは、簾の密度もあるが、架ける場がまったく違っていた。

そのことを意識しながら、国津神社に向かった。

この日の気象は荒れていた。

強風が吹きまくるし、風も冷たい。

じっと立っているだけでも、その冷たさ、強さに身体が負けそう。

やむなく携帯電話のカメラ撮りに絞って車に駆け込んだ。

位置は、平成31年1月の状況とほぼ同じであるが、簾の密度が高く、Yさんがいう通りの、えーデキだった。

強風と寒さに耐えられず、南之庄を離れた。

帰路のコースは、福住廻りに天理ダム経由で平たんに下りる。

その途中にあった強風下の倒木。

農免道路を西に向かって走行していたそのときだ。

福住の南田辺りの地。

農免道路北側に繁る木々が、強風に煽られて、揺れに揺れている。

走行していた道路のあちこちに倒木の残骸が散らばっている。

自生している樹木がバキバキ折れた道路状態は3カ所にもおよぶ。

危険を感じて、轍がついているそこを狙って走る。

速度も緩めて走っていたそのときだ。

多くの樹木が倒れる寸前状態に遭遇した。

車を停めた瞬間にどさっと落ちた倒木。

バザードランプを点滅して車を停めた。

反対側から走ってきた車も停まった。

直ちにやることは、倒木した樹木を道端に移し、車が通行できるように一時的な緊急措置をするしかない。

身体も強い風に煽られながら、除去作業をはじめた。

停止した対向車の人も。

また、その他、数人も手伝ってくれた。

おおかたが、除去できたので走行可能と判断し、停止していた車も、みな走り出した。

強風下の対応に感謝するが、今後もこの状態は続くだろう。

(R2.12.30 SB805SH撮影)

突風に煽られ倒れていた佐紀町西畑の簾型しめ縄

2022年11月05日 07時43分58秒 | 奈良市へ
山陵町(みささぎちょう)の山上八幡神社の砂モチ習俗に合流した橿考研所属・発掘調査が専門のYさんが、コメントを送ってくれた。

「砂モチが見られる近くの神社。4社のうち佐紀町西畑の佐紀神社は、昨日の12月29日に。
佐紀町の釣殿神社と山陵町の山上八幡神社は、本日の30日に砂モチが置かれた。置く方法、成形の有無、置く範囲。おそらく時代の変化を経たうえでの、現在の有り様だと思われるが、近接しているのに、驚くほど特徴が違っていて、見ていて楽しい。私にどのような形で未来に伝えることができるか分からないけど、今はとにかく自分の目と耳で、残っているものを確かめていきたい。」、伝えていた。

私が返答したコメントは、「取材、お疲れさまでした。」

「2事例でも、3事例であっても興奮する砂モチのあり方。現在は、こうであっても昔に遡れば・・。記録のない時代からずっと地域が続けてきた口承伝承もありますが、もっと多くの事例も併せて地理的な面での考察。今日、長老がぽそっと云われた思い。“当社は、それほど古いものでなく、近くの神社から受けた分霊を祀っている」と・・。

「時代経過もありそうだし、ある時期の氏子が、こうしようとかの一言で、そのときからこれまでとは違う文化を継承するようになったとものと思料します。」

「そうそう、伝えてくれた西畑の簾型しめ縄の風倒」である。

鳥居正面からとらえた映像では、簾型しめ縄は、午後にかけるつもりの状態。何かが不足したのか、午後に作業を、としているのだろう、と思っていたが、裏側に廻ってみたしめ縄。支柱にしていた笹竹もろとも倒れていた。



「突風に煽られて倒れたようですが、心棒の造り、構造は、私の目から見ても、軟弱でした。たまたま駐車場に停めようとした夫妻。西畑のものではないですが、お寺さんに風倒状況を伝えて、氏子さんに連絡していただきますから、ご安心ください、ということでした。」と、コメントを入れた。

(R2.12.30 EOS7D/SB805SH撮影)

佐紀中町・門外釣殿神社の砂モチ終えて据えた前掛けしめ縄

2022年11月04日 07時19分38秒 | 奈良市へ
山陵町(みささぎちょう)の山上八幡神社の砂モチ習俗に合流した橿考研所属・発掘調査が専門のYさんとともに、隣のご近所といえるほど近い距離にある2地区の正月迎えのあり方を拝見したく立ち寄った。

平成26年12月31日訪問して以来、久しぶりの門外釣殿神社の所在地は佐紀中町。

時間帯は、正午時間の午後12時20分。

門松を立て、砂モチを済ませていた。

最後に簾型しめ縄を飾りつけているところに伺った。

門外釣殿神社の史料『釣殿神社行事概要』に、「前掛け」の表記がある簾型しめ縄。

宮さんの前に掛けるからその名にされたのか、存じていないが、平成28年12月15日にたまたま通りがかったときに目に入った筵敷きダイコン干しをされていた当主が話してくれた前掛けしめ縄の名称は、「ゾウガイ」だった。

門外釣殿神社の氏子のOさん。

かつては、神社役を務めたこともあるOさんは、昭和9年生まれ。

地元に長年暮らしてきた地域の歴史・文化を伝えてきたはずだが、貴重な俗称までは継承されなかったようだ。

そのゾウガイしめ縄は、正面からでは見えない位置に掛けている。

割り拝殿に掛けているのだが、真ん前に建てている年代を感じる朱塗りの鳥居の陰に隠れているために見えない。

鳥居をくぐって参拝。



後ろにふり向いて、初めて気づくゾウガイしめ縄の最後の作業が飾りつけ。

「ニコニコ、仲睦まじく」の名で呼ばれる10個の柿を連なる吊るし柿。



葉付きのダイダイに奉書に包んだ栗、カタ炭、塩を紅白水引で括って取り付けた。

それから撮らせてもらった砂モチ。

今日の日差しはキツイ。



神社の木々の陰とのコントラストギャップ状態の砂モチはとらえ難い。

尤も、砂モチをされてから数時間の経過に乾燥がはじまっていたから、余計に形がわかりにくなった。

突然の取材にお礼を伝えて、あらためて拝見した門松。

神社役の人たちの背丈より高い。

鳥居の高さとほぼ同じ。



こんなに大きな門松だったのか、と帰り際の気づき。

あらためて、過去データを振り返り見たその高さは、この日に見た高さの半分程度。

『釣殿神社行事概要』の規定に変化があったのではないだろうか。

(R2.12.30 EOS7D撮影)

山陵町・・山上八幡神社の正月迎えの砂モチ

2022年11月03日 07時09分03秒 | 奈良市へ
30日の晦日。

民俗取材の行先は、奈良市山陵町(みささぎちょう)の山上八幡神社の砂モチ。

写真家のKさんが事前に聞いた話によれば、「これが最後か」の詞に、釣られてカンジョウ縄かけ取材計画していた京都・加茂町の銭司行は諦めた。

山上八幡神社の砂モチは以前も拝見しているのだが、どのような作業をされて、砂モチ形成をしているのか、見るのは初めてだった。

山上八幡神社は、幾度も訪れて年中行事を拝見していただけに「よう来てくれた、久しぶりやのう・・」、のご挨拶。



朝8時から正月飾りの作業をしていた神社役の六人衆。

割り拝殿内に左右2基の門松をつくっていた。

寒い朝だけに防寒服を着ていた。

しめ縄は業者発注にしたが、門松つくりは手作業。

松・竹・梅の三役も揃えている。

これらの枝を飾る順位は、背の高い木枝お後方に据える、と話していた。

中央に据えた3本の孟宗竹。

高さそれぞれ違えて、正面に向ける面は綺麗に切った斜め切り。

杉皮付きの杉板で囲った門松の土台。

崩れないよう黒紐できっちり締めた土台に砂を盛っている。

かつては、竹を組んでつくった土台であったが、杉板に切り替えた。

竹組の時代は、毎年新しくつくっていたから青竹だった。

毎年の作業に、竹の伐採作業もある。

そんなこんなで、当面は作り直しが無要の杉板に換えられた。

作業労力の負担軽減を考慮された六人衆の決断である。

できあがった門松は、運搬車に積んで所定の位置に運ぶ。



鳥居の前、参道両側に据えた、次の作業が砂モチ。

砂モチをする場は、拝殿前の境内一面。

等間隔に砂モチを置く箇所を決める。

そのために必要な道具はメジャー。

置く間隔は50cm。

いやいや、そうやなくて30cmや、疑義の声があがった。

六人衆がもつ規定資料に書いてあるはずや、という。

図面を確認してみれば、30cm。

測り直して、あらためて筋をつけていく。

さて、砂モチに置く砂は、2種類の真砂土。

赤土に白い土。

どちらの色土から置いていくのだろうか。

これも規定があり、図面に示している赤土の●、白土の〇印に置く順を確認する。



その開始の基点は、拝殿側から見て、右位置の角に赤土。

その次に白土。

開始地点が決まれば、交互にこの配置を繰り返す。



その紋様はまるでオセロのように見えるが、どうも違う。

和柄紋様の鹿の子紋に近い格子状に黒、白、黒、白が交互に配置される。



手分けして砂モチ作業を進める六人衆。

およそ砂モチ作業を終えたら、次はしめ縄飾り。



数年前までは板しめ縄の名で呼ぶ簾型のしめ縄をかけていたが、手つくりはやめ、京都の業者に手配するよう切り替えた。

先行きが不透明な座だけに、苦しい選択をされたのである。

これまで引退した先輩方がつくってくれた材は神社に遺る。

1人、2人は交替しながら役に就く六人衆。

いつまでもこの体制を続けるには無理がある。

若い人が神社役に加わってくれるのが尤もな体制になるのだが・・。

数年、いや数年後は、さてどうなることやら。

現状維持を続けられるのも4~5年までか、と沈痛な思いで作業してきた正月飾り

これまでの板しめ縄から、太くなったしめ縄に移ったが、中央に飾り付ける葉付きのダイダイにユズリハ。



紅白の水引で括った奉書包みはカタスミに”ニコニコ仲睦まじく”といわれている縁起物の串柿も飾る。

拝殿のしめ縄以外に、細縄のしめ飾りはあ、うんお表現する狛犬とか、境内のご神木にかける。

また、社殿左手に大きく育った太い幹のご神木は、中太のしめ縄を飾る。

作業が終るころに見つかった一輪の花。

雨が降っていたこの日に咲いた四季桜。

毎年に咲いているようだ。

ほぼ終わりころに合流できた写真家のKさん。

そして、一昨年、昨年から県内の砂モチを調査している橿考研所属の発掘調査専門のYさんも合流した。

Yさんからの砂モチ情報は、田原本町西代の八坂神社。

また、Kさんからは、かつて度々調査していた天理市長滝町にカラスのモチを見つけたと、連絡が入った。

また、天理市の上仁興の四社神社の灯籠に正月の餅を想定する白餅が数個、供えていた。

情報としてであるが、奈良市中山町の八幡神社に砂モチがあった、という。

県外を離れ、京都南部・木津川市の市坂にもあったそうだ。

なお、2件の民俗事例は、貴重な情報。

西代は1月3日に、長滝は1月2日に現地入り調査した。

(R2.12.30 SB805SH撮影)
(R2.12.30 EOS7D撮影)

明日香畑の民俗譚・上畑のカラスのモチ調査

2022年11月02日 07時41分21秒 | 明日香村へ
次に訪れた地は、すぐ近くにある上畑。

ここでお会いできた昭和20年生まれの73歳。

Yさんは、大和牛を育牛し、販売する畜産業を営んでいる。

冬野の民俗取材に度々通っていたこの山道。

通る度に見ていたサイロがそうだったんだ。

牛が食べる飼料

乾し藁・草を貯蔵するサイロとわかった。

藁を食べる牛。

落とした糞は、畑の肥料になる。

まさに循環型社会形成のひとつの手段。

現在、育牛している大和牛は、50頭。

なにかと忙しいようだ。

ここら辺りは標高がある地域。

積雪時は、例えジープのような四輪駆動車でも上り下りが無理だ、という高地集落。

チェーンを装着してもスリップする急な坂道。

冬場の暮らしが難儀する、という。

かつての牛は、農耕における役牛。

耕運機が導入されるとともに、民家に飼っていた役牛が消えた。

大きな文化の転換期であった昭和30年~40年代。

一斉にではなく、徐々に、徐々に浸透していった昭和の時代だった。

住まいは建てて300年にもなる茅葺家。

トタンで屋根を覆った昭和35年。

後年に葺き替えをするために茅葺屋根の劣化を防ぎ持続年数を保つ役目。

そのようにされているお家。

奈良県内によくみられるお家のあり方だ。

今後のことは読めないが、柱を立てる際、大きな石で敷設した土台(※礎石)。

大きな地震があっても、これだけは壊れないだろう、と・・・

カラスのモチなら、お爺さんがしていた、という。

子供のころにしていたカラスのモチは、「12月30日に搗く正月の餅のうち、三ついただいて、カラスにやんねん」と、畑地に撒いていたそうだ。

「カラスがおんのか、ようわからんかった」子どものころの視線。

お家の裏にある畑。それも、50年前のことらしい。

今も、蘇る当時の記憶映像。

話を聞いていた私も映像が浮かんできそう。

親や爺さん、ばあさんらから聞いていたカラスのモチは、遠い昔のようになった。

そういえば、毎年搗いていた正月の餅は、杵搗きに石臼だった。

豆腐もつくっていた石臼だった。

その餅搗きに派生してつくるドヤモチ。

粳米を混ぜてつくったドヤ餅は、カラスでなく飼い牛にあげていたそうだ。

ここ上畑も3軒になった集落。



上畑のウチミヤは、旧木花咲夜姫命を祀る八幡神社。

と、いうのも元々は上畑の山のてっぺんに鎮座していた、という富士神社だった。

こちらの集落に移したという八幡神社を探してみたが見つからなかった。

明日香村、それぞれの地に鎮座する神社のマツリに出仕される飛鳥宮司が、冬野と同じように御湯の神事をされることだろう。

取材から数年後である。

令和3年8月26日、テレビ大阪が放送した番組「ナゼそこ?明日香村、標高600mの廃墟集落にたった一人で暮らす未確認日本人~秘境人数珠つなぎの旅!」。制作、配信は東京テレビ。

放送中に気づいた奥明日香・入谷(にゅうだに)集落を映していた「奈良の山奥・・・築100年の古民家に住む91歳・・」。

入谷の収録後に、出演者のMさんの息子さんが話す。

かつての入谷の住民数は60人。

現在は23、4人に。

調査データによれば昭和55年は87人。

過疎化とともに減少した令和3年6月時点が23人。

42年間に1/4の人数になった入谷集落。

後世に残すため、空き家になった古民家を仲間とともに修繕・修復作業をしている。



そして、紹介してくれた隣村の畑集落。

隣村といっても標高はさらに標高の高い位置にある畑集落。

ひと山越える山岳地を撮影隊に伝えていた。

たどり着いた畑に、事前連絡を入れていたY夫婦に出会った。

そのときのYさんは、飼い牛に餌をやろうとしていた。



撮影隊は、予期もしていなかった悲しい家族の出来事を伝えられた

(R2.12.29 SB805SH撮影)
(R2.12.29 EOS7D撮影)

明日香畑の民俗譚・下畑のカラスのモチ調査

2022年11月01日 07時54分16秒 | 明日香村へ
田原本町の村屋坐弥冨都比売神社社家の餅搗きを拝見した次の目的地は、明日香村の畑(※はた)。

『飛鳥調査報告書(昭和62年3月発刊)』に記載していた“カラスのモチ”の調査である。

結論から言えば、報告書発刊前のもっと前までは、やっていた、ということだった。

”民俗調査会”が、調査・報告された畑の“カラスのモチ”行事。

「大字畑のカラスモチ(※鏡餅をとった残りモチ)は、12個(※閏年は13個)を翌日に、「※鳥来い、モチやるわ、ギンナン三つとかえことしょ」と、田畑で声を揚げる。大字上居は「※カラス来い、モチやるわ 十二のモチは、お前に一つ、自分に二つ、ゴンゲンさんに三つ、ツレ(※宙で)取ったら皆やるわ」と、叫び、一升枡に12個(※閏年は13個)入れて、やりに行った(※執筆者要約文)」

畑は、下畑に上畑がある。

調査地区は2地区。

先に立ちよった下畑で出会った85歳のSさん。

耳が遠く、聞き取り難しだったが、カラスのモチから思い出された足で踏んだギッコン、バッタン動く農具。

粉ひきをしていたというカラウス(※唐臼)。

その道具で、餅を搗いていた、という話題提供。

それもあったが、よくよく聞けばカラウスもあったが、カラサオ(※唐竿)もあった。

カラサオは、刈り取った稲を籾落としする脱穀用の農具。



昔は、薬草を栽培していたが、今は野菜。

“バリキ“と呼んでいた馬の力で荷を曳く。

明治時代初期のころは養蚕もしていたとか・・

わしら、学校あがりの中学3年から二十歳になるまで、世話をしていた、と話してくれた。

13軒もあった下畑は、現在2軒。

かつての宮座の営みはともかく、夕方の午後4時に参るだけになったようだ。

2軒の廻りであれば、一昨年の9月に訪れた、畑より上の地になる冬野も、現在は2軒の村である。

年交代にトーヤ務め。

毎年の交替に神社の祭りをしていたから下畑も同じ体制では、と思った。



『飛鳥調査報告書』によれば、下畑のウチミヤは春日神社。

垣内ごとに3組の宮講によって営まれていたようだ。

その後の何時かわからないが、下畑と上畑が分かれ、それぞれに宮講の成立があった可能性も拭えない。

あくまで推測の域であるが・・・

(R2.12.29 SB805SH撮影)
(R2.12.29 EOS7D撮影)