小林町には右座と左座がある。
それぞれに24人、25人の凡そ半数に分かれている。
それは1軒に一人ではなく、座入りされた人数であるから1軒に一人、或いは二人。
ともすれば三人もあるらしい。
座入りは15歳になったときに認められる男性で、両座の一老、二老、三老がついて儀式をするそうだ。
秋祭りの宵宮はマツリのトーヤ(当屋)家で餅を搗いていた。
それは千本杵で搗いた。
長老が伊勢音頭を謡うさなかに若い者が千本杵で餅を搗いていたという。
かつては当屋家だったが現在は公民館。
そこでは竹を立てて注連縄を張っている。
長老が亡くなってからはゴクツキの唄が聞けなくなったそうだ。
搗いたモチは小さくちぎってヤナギの木の枝にくっつけた。
話によればモチバナのように思えるが、それはお渡りの際に用いるそうだ。
また、モチはサケの人と交換するらしい。
想像するにはどうやら三献の儀のことだと思われる。
翁の面は顎髭があり白毛だそうだ。
この日の午前中にマツリの当屋(トーヤ)が簾型の注連縄を作って杵築神社に掛けられた。

樫の木のヨコ槌などは先代から伝えられている道具がある。
槌は一本の樫の木で作られている年季がいったワラウチ道具。
稲藁の埃を取るイネコキの道具もある。

これらを用いて綱を作ったという
燈籠などにも注連縄があるが、それらにもウラジロやユズリハなどが見られる。
ユズリハの葉は丸くしておく。
ウラジロは手に入りやすいが、ユズリハは見つけることが難しくなったという。
そのユズリハは家の注連縄にも掛けられる。
正月の朝に丸く皿のようにしたユズリハに炊いた米を五粒ほど乗せるらしい。

家で行われている「カンマツリ」だというようだ。
正月元旦の早朝起きたときに当主がそこへ乗せるのだとHさんは話す。
それは正月の三が日間、毎朝されるという。
この風習は番条町の酒造り家でも同じことをされている。
「歳神さんに食べてもらうのじゃ」と言って神棚にメシを供えるような感じで3、4粒供えるという話しを思い出した。
番条町ではこれを「神祭り」と呼んでいた。
「神祭り」が「カンマツリ」と訛ったのであろう。
そんな話をしていれば声を聞きつけた村人が一人、二人と集まってきた。

村の人が「注連縄を見に神社へ行こう」と声があがって一同は神社へ向かった。
掛けられた注連縄を見て喜ばれる。
杵築神社には奉納された絵馬がたくさん残っている。
その絵馬のなかには「童頭」とか「童首」の文字が見える。

左座一老さんの話によれば小学六年生が童頭(童首)となって奉納された絵馬であるという。
童頭が小学校を卒業する記念に奉納された絵馬であるという絵馬は昭和13年。
昭和6年や昭和23年の年代記銘が見られる絵馬は童首である。
下の方には子供の名前がたくさん記されているが女児の名がほとんどである。
それらは小学六年生から一年生までだそうで、童頭を祝って名を連記されたのであろう。
なお、昭和23年の絵馬はHさんの二つ上の子供たちが奉納したものだと話す。

當邑名で奉納された絵馬には天保四年(1833年)や安政四年(1857年)も見られる杵築神社では正月早々の元日朝に境内でとんどをするという。
そのときには境内内にある新福寺では住職がお経を唱えるという。
正月行事と思えるのだが話の様子ではそうでもないようだ。
(H23.12.28 EOS40D撮影)
それぞれに24人、25人の凡そ半数に分かれている。
それは1軒に一人ではなく、座入りされた人数であるから1軒に一人、或いは二人。
ともすれば三人もあるらしい。
座入りは15歳になったときに認められる男性で、両座の一老、二老、三老がついて儀式をするそうだ。
秋祭りの宵宮はマツリのトーヤ(当屋)家で餅を搗いていた。
それは千本杵で搗いた。
長老が伊勢音頭を謡うさなかに若い者が千本杵で餅を搗いていたという。
かつては当屋家だったが現在は公民館。
そこでは竹を立てて注連縄を張っている。
長老が亡くなってからはゴクツキの唄が聞けなくなったそうだ。
搗いたモチは小さくちぎってヤナギの木の枝にくっつけた。
話によればモチバナのように思えるが、それはお渡りの際に用いるそうだ。
また、モチはサケの人と交換するらしい。
想像するにはどうやら三献の儀のことだと思われる。
翁の面は顎髭があり白毛だそうだ。
この日の午前中にマツリの当屋(トーヤ)が簾型の注連縄を作って杵築神社に掛けられた。

樫の木のヨコ槌などは先代から伝えられている道具がある。
槌は一本の樫の木で作られている年季がいったワラウチ道具。
稲藁の埃を取るイネコキの道具もある。

これらを用いて綱を作ったという
燈籠などにも注連縄があるが、それらにもウラジロやユズリハなどが見られる。
ユズリハの葉は丸くしておく。
ウラジロは手に入りやすいが、ユズリハは見つけることが難しくなったという。
そのユズリハは家の注連縄にも掛けられる。
正月の朝に丸く皿のようにしたユズリハに炊いた米を五粒ほど乗せるらしい。

家で行われている「カンマツリ」だというようだ。
正月元旦の早朝起きたときに当主がそこへ乗せるのだとHさんは話す。
それは正月の三が日間、毎朝されるという。
この風習は番条町の酒造り家でも同じことをされている。
「歳神さんに食べてもらうのじゃ」と言って神棚にメシを供えるような感じで3、4粒供えるという話しを思い出した。
番条町ではこれを「神祭り」と呼んでいた。
「神祭り」が「カンマツリ」と訛ったのであろう。
そんな話をしていれば声を聞きつけた村人が一人、二人と集まってきた。

村の人が「注連縄を見に神社へ行こう」と声があがって一同は神社へ向かった。
掛けられた注連縄を見て喜ばれる。
杵築神社には奉納された絵馬がたくさん残っている。
その絵馬のなかには「童頭」とか「童首」の文字が見える。

左座一老さんの話によれば小学六年生が童頭(童首)となって奉納された絵馬であるという。
童頭が小学校を卒業する記念に奉納された絵馬であるという絵馬は昭和13年。
昭和6年や昭和23年の年代記銘が見られる絵馬は童首である。
下の方には子供の名前がたくさん記されているが女児の名がほとんどである。
それらは小学六年生から一年生までだそうで、童頭を祝って名を連記されたのであろう。
なお、昭和23年の絵馬はHさんの二つ上の子供たちが奉納したものだと話す。

當邑名で奉納された絵馬には天保四年(1833年)や安政四年(1857年)も見られる杵築神社では正月早々の元日朝に境内でとんどをするという。
そのときには境内内にある新福寺では住職がお経を唱えるという。
正月行事と思えるのだが話の様子ではそうでもないようだ。
(H23.12.28 EOS40D撮影)