マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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阿知賀瀬ノ上垣内光明寺カキの観音さん

2015年04月21日 07時40分06秒 | 下市町へ
盆入りの7日に弘法井戸を洗って井戸替えをしていた阿知賀の瀬ノ上垣内。

戸数は45戸であるが、井戸替えに般若心経を唱えるのは周辺の16戸。

そのうちの何軒かは観音講の講中。

毎月17日は十七夜講のお勤めもあれば、大祭りと称する年2回の村行事もある。

一つは7月24日の地蔵さん。

安永造立地蔵石仏を光明寺本堂内に納めて法要をされる。

9月18日はカキの観音さんと呼ぶ行事である。

実った柿を本尊に供えることからそのような名がついたようだ。

講中が話していた行事に興味をもったのは云うまでもない。

カキの観音さんの場は平成16年に建て替えた光明寺会館。

下市町瀬ノ上会館とも呼ばれる場である。

日が暮れた時間ともなれば当番の人たちが会館に詰め寄る。

講中の承諾を得て会館にあがらせてもらった。

そこは金箔が眩い本尊を安置していた。

会館を建て替えたときに塗り替えた本尊である。

講中のKさんが話すかつてのカキ(柿)の観音さんの様相。

ご本尊さんを安置している場に幕を張っていた。

柱と柱の間にぐぐっと曲げた太い真竹を設えた。

力いっぱい、二人がかりでアーチ型のように曲げた。

等間隔に穴を開けて心棒を通してローソクを取り付ける。

その数は11本。

仏事は奇数だという本数である。

三段の祭壇に各家が持ち寄る御供を置いていた。

戦後は64、5軒もあった瀬ノ上垣内。

子供がたくさんいた時代である。

お勤めが終わったら、青年団がコジュウタに入れた御供を子供に配っていた。

そのころの子供の人数は65人。

まるでガキがざわめくような感じで、手を差し出して立ちあがる子供にモチを配ったと話す。

現在ではそのような様相ではないが、本尊である聖観音菩薩坐像(伝室町時代作)や左脇侍の阿弥陀如来立像の前には椀に盛った御膳を供える。

水引で括ったシイタケ、コーヤドーフ、オクラ、ニンジンは立て御膳。

洗い米やトウロクマメの椀に麩を入れた汁椀もある。

御供は搗きたてのモチ盛りもある。

傍らにはコジュウタに詰め込んだモチもある。

今年のモチは1斗も搗いたとW婦人が話す。

正面祭壇に置かれた御供の形態は特殊である。

銀色の板に輪ゴムで止めた煎餅のようなお菓子もある。

その横に立てていたハナモチ。

ケトや菊など美しい花盛りの中に串でさしたモチもある。

これをハナモチと呼んでいる。

これらを挿しているのは麦藁を束ねた「ホデ」。

「明治丗年丑八月 願主光明寺 住職」の文字墨書があった木の桶に立てていた。

この形は先月の8月24日に拝見した吉野町丹治の地蔵盆の御供台と同じだった。

瀬ノ上垣内より3kmぐらい離れる両地域で同じ形態の御供桶があったのだ。

桶の民俗文化は地域分布も調べなくてはならなくなったのである。

この日のカキの観音さんには「柿」が見当たらない。

この件についてもKさんが話してくださった。

かつてはほとんどの家が柿を供えていた。

自宅で実った柿であろう。

今ではまず見ることがなくなった柿はトチワラガキと呼ぶ柿だった。

この柿はとても甘かった。

赤くなろうとしていた柿は供えるのだが、先に子供が食べてしまったぐらいに美味しかったと話す。

時間ともなれば大勢の村人がやってくる。

赤ちゃんや子供連れの母親が多い。



男性二人が本尊前に座って導師を勤める。

木魚を叩いて法要をする間もやってくる人もいる。

総勢40人余りの人数に膨れ上がった。

はしゃぐ子供の声で法要の念仏は聞こえなくなる。

光明寺は浄土宗。唱える勤行も浄土宗である。

およそ5分間のお念仏を経て般若心経になった。

大慌てで大数珠を広間に広げる講中。

これより始まるのは子供たちが参加する数珠繰りだ。

数珠繰りには数取りは見られない。



五巻の般若心経を唱える間はずっと繰っていく。

木魚を打つリズムはどちらかと云えば早い。

数珠もそうしているように見える。

数珠の房がくれば頭をさげる講中。

五巻の般若心経は8分間。ずっと繰っていた。

その後も法要を続ける導師。

木魚を打つ長丁場のお念仏は30分。



すぐさま打ち鉦に替えて「ないまいだぶ なんまいだぶ」を唱えて法要を終えた。

Kさんの話によれば観音さん、阿弥陀さん、地蔵さんの三仏を唱えたようだ。

法要を終えれば御供下げ。



コジュウタに盛ったモチやお菓子を参拝者に配っていく。

何人もの講中は慌ただしく動き回る。

参拝者は帰られてお堂を奇麗にかたづける講中。

椅子を運んで広間を掃除機で清掃する。

ハナモチやお花も取り外して御供桶も仕舞う。



その間に拝見した伏し鉦には「天下一出羽大掾宗味」の刻印があった。

県内各地でこれまで拝見した鉦に「天下一」の称号がある。

刻印より年代が明白な鉦に大和郡山市額田部町・地福寺の「天下一宗味」の六斎鉦は慶安二年(1649)。

奈良市八島町の「天下一二郎五郎」六斎鉦は寛永十八年(1641)がある。

「天下一」の称号は織田信長が手工芸者の生産高揚を促進する目的に公的政策として与えたものである。

その後、「天下一」の乱用を防ぐために、天和二年(1682年)に「天下一」称号の使用禁止令が出されたのである。

そうした歴史から想定するに、瀬ノ上垣内の光明寺にあった伏し鉦は天和二年(1682年)以前の作と考えられる。

額田部町・地福寺の六斎鉦は「宗味作」。白土町にある六斎鉦の一つに貞享五年(1688)・室町住出羽大掾宗味作の刻印がある。

同一人物の製作と考えて、光明寺の鉦は慶安二年(1649)後~貞享五年(1688)辺りの作であろうか。

(H26. 9.18 EOS40D撮影)


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