マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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別所町の史跡巡り

2012年10月07日 07時01分10秒 | 奈良市(東部)へ
別所の山や田地は別所宗治一族の財産。

息子の名は半衛門でその息子を幾千代だと云う。

かつての殿さんを偲んで営んだ二日酒は殿さんの供養である。

殿さん三代の墓地が今もあると案内された山の中。



鬱蒼とした林の中に佇む墓石は四柱。

暗がりの中では文字は見えない。

右端の墓石には「慶長十九年(1614)三月二十日 清西禅定門」とある。

その左横には「○○宗治 七月二日 真○治三年正門」だ。

その左横は「明暦二年(1656)十二月七日」。

左端の墓石は「万治元年(1658)」。

永禄年間(1558~1570)に辰市の役で活躍した山田道安の弟一族の墓だとされるが、慶長十九年(1614)、寛永七年(1630)、明暦二年(1656)であるだけに時代関係は整合しない。

山田道安は順貞(天正元年・1573年没),順清(永禄十二年・1569年没),順知の三代に亘って「道安」の号を用いたとされる。

どの人物が別所と関係するか。

考えられるに別所の殿さんは山田道安に仕える与力の一人ではなかろうか。

「和州衆徒国民郷土記」によれば「別所監物 別所宮内少輔」の名があるそうだ。

永禄十年(1567)作の「別所郷ヨサメ帳」には「別所対馬守宗久」の名があり、墓地がある地の山に築いた別所城の城主だとされる。

もしかとすればだが、宗治は山田氏一族の分かれになる別所宗久の後継一族ではないだろうか。

ただ、そうであっても墓石に刻まれた時代年記とは大幅な誤差が生じる。

村の伝えによれば別所の殿さん一族は兵庫県の三木に移ったという。

三木の別所は名高い別所長治。

百年後の寛文元年(1661)に書き記された覚え書によれば、別所の殿さんの始祖は山田庄主の次男だったとされる。

その人物は山田庄から分かれて別所に移った。

書き遺した人物は別所半右衛門で宗久の末裔。

百年間の期間でなんらかの誤証が生じたのではないだろうか。

一族が残した財産は別所の山や田地。

杣ノ川の峠を越えた山は念仏山と呼ぶ。

そこにも田んぼがあるという。

そこへは行かなかったが村の墓地へ参った。



そこは別所の旧墓地があるあんのんやま(安ノ山)。

5体並ぶ石塔群がある。中央の石塔には「○○(あんじゅ?)山 実○大僧正 寛永七年(1630)」と読みとれたが関係は判らない。



最後に案内された地は地蔵尊。

ヤマザクラやムロノキ(ヒノキかも)の大樹下に安置されておる地蔵尊は「ぬくんど地蔵」と呼ばれている。

前月の24日は地蔵さんを掃除していたという。

ぬくんど地蔵は足を守ってくれる地蔵さん。

ここは田原の里から抜ける伊瀬街道。

お伊勢さんに参る際に拝んだ地蔵さんに草鞋を置く。

無事に歩き続けるようにと願った願掛けだ。



この旧街道は車で通り抜けることはできない。

数年前から始まったトンネル工事は中之庄町に抜ける。

ここら辺りは砂地。

ところが田原の里は堅い岩盤だと話す茗荷のO主人。

冬場になれば急坂の水間峠を越えるトンネルは出入り口が積雪で凍ってしまうらしい。

それを避ける道造りだ。

それはともかくこの日の朝は七日盆の井戸浚えをしていたという。

お大師さんも行者さんも祀っているという。

標高485メートルの山々に囲まれた別所の地は涼しい。

心地よい風が吹いていく。

地区には数軒の茅葺き家がみられる。

O家もそうだ。

話によれば茗荷町に居住するM家もあるというし、隣村の水間町にも点在する。

かつて別所には子供の涅槃講があった。

秋の涅槃だったそうだ。

イノカミさん(おそらく亥の子であろう)を祀って藁製のサンダや農作業に使われる道具を模したモノを作っていた。

その道具は奈良県立民俗博物館での「日々のくらし―子育ての民俗―」企画展(平成22年9月18日~11月23日)などで展示されたこともある。

そのときのメモを残しておいた。

それによれば「別所町には秋のねはんがある。旧暦の10月亥の日でイノコ祭りとも。オガラで作った模擬ミニ農具、サントクやカリヤもある。サンダワラをサントク(三本足の藁製五徳)に乗せていた。ホウダイはイノコ神に供える」であった。

(H24. 8. 5 EOS40D撮影)


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