マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

旧都祁白石町・白石行者の春の大祭

2019年08月10日 09時09分35秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
名阪国道を走る。

行事取材に必ずといっていいほど立ち寄る針テラス。

食事もそうだがトイレも助けてくれる休憩地点。

とれしゃき市場もよく入店する。

そこを離れて走る国道369号線。

少し南下したところにある信号は白石。

角に辻村商店がある。

その傍に建つお堂は融通念仏宗派の興善寺。

ふと目にした左手に赤い幟旗が何本かあった。

これはなにかの行事であるのか。

左に折れたら幟旗が何本も。

誘われるままに車を進めていけば小高い丘がある。

そこには満開の桜が咲いているし、吹き流しのような五色の幟も見られた。

何台かの車が連なって停めていたが、余裕はないようだ。

もう少し登ったら更なる高台があった。

登る階段上に僧侶の姿が見えた。

丁度、法要をしているような時間帯だった。

参拝らしき人も見えるが、停める場所が見つからない。

行けるとこまでと思ってそろそろ走る。

まるで小高い丘の周囲を移動しているように思った。

ここはなんだろうか。

ぐるりと回って国道に戻ったら興善寺駐車場に臨時駐車場の表示があった。



それには「白石行者 春の大祭」を記していた。

丘にあったのは白石行者。

この日は関係者が集まる春の大祭とわかったが、直接の聞取りや取材をしている時間がなく、遠目で大祭の舞台を撮っていた。

(H30. 4. 8 EOS7D撮影)

吐山・雪原のとんど組み

2019年07月02日 09時51分49秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
天理から入った西名阪国道を行く。

ほぼ登り切ったところにある福住IC。

そこからは地道を走りながら周りに見える雪景色を楽しみながらドライブする。

尤も速度は減速気味。

スタッドレスタイヤの能力を発揮する地道にウキウキ感よりも怖さが先にある。

いつなんどきに、アクシデントが発生するとも限らない冬の道。

安全運転に徹してハンドルを握る。

道なりに走っていった三差路は旧都祁村の吐山。

ここより右に折れて走る国道369号線。

向かう先は宇陀市榛原萩原・小鹿野であるが、ふと目に入った積雪にとんど組み。

設営地は奈良市であるが、旧都祁村の吐山町。

下部神社を少し過ぎた辺りにあったとんど組み。

小鹿野の大トンド取材を終えて復路に見るその姿。

明日は14日。

小正月15日の朝にとんど焼きをするのか、それとも明日の夕刻であるのか・・。

日程を尋ねたいが、だれ一人として歩いていない吐山の雪原。

車を国道369号線に停めるわけにいかないから側道に入る。

幅の広い側道があったからそこに停めて拝見する雪原に立てたように見えるとんど組み。



時間帯は午後5時前。

いつまた雪が降るかもしれないどんよりした雲行き。

しばし見惚れて撮っていたが、冷たい空気に耐えられないから、車に戻ってエンジンをかけた。

(H30. 1.13 EOS40D撮影)

旧都祁村・友田のサシナエ

2018年05月23日 09時35分06秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
奈良県の東山中・山間部は多様で多彩な民俗行事が行われてきた。

私の調査範囲内であるが、近年になってからは急激に変容しているように思えて仕方がない。

天理市福住に山田町。

旧都祁村のから山添村の峰寺、室津、北野、大塩、箕輪を巡ってきた。

帰り道はどの道にするかは、その日の気分次第。

針テラスには入らず針の信号から名阪国道沿いの地道を走る。

天理市の福住から平坦に下ろうと思って走っていた旧都祁村の友田。

走る車の窓から見えたサシナエ作業。

停車して田んぼを見渡せば二人の男女がサシナエをしている最中だった。

時間帯は午後4時前。

日が暮れる時間までに済ませておきたいサシナエ作業であろう。

もしよろしければと声をかけて撮らせてもらったH夫妻がしている作業風景である。



ここはタニシが多いという田圃である。

水が綺麗な田圃だからタニシが住んでいる。

田圃に水を張ったら見つかるというタニシである。



寒かろうがこうしてサシナエ作業をする夫妻が住む家は小高い丘にある。

濠の上にあるからその苗字になったようだ。

ここら辺りは牛の貸し借りもあった。

牛はこの地から平坦に向けて下っていったというから福住の地であろう。

御田(おんだ)は都祁友田の水分(みくまり)神社。

一年の五穀豊穣を祈る2月26日の祈年祭に松苗を奉るようだが、今はどうなんだろうか。

こうした話をしながら黙々とサシナエ作業をされる二人。



日が暮れるまで、まだまだ。

終わりそうにもないのでご挨拶して場を離れた。

(H29. 5. 5 EOS40D撮影)

旧都祁荻の奇妙な鉄塔

2017年08月07日 09時03分44秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
・・遠く広がる世界に何を想う・・。

奈良市茗荷町から室生の下笠間に向かって車を走らせていた。

古びた鉄塔が目に入った。

その下にある何かが気になった。

辺りは冬の空。

どんよりしているが空気は清廉だ。

冷たい風は吹き抜ける。

立ち止った地は旧都祁の荻(おぎ)。

懐かしい風景が目の前にある。

それが鉄塔だった。

周囲には建物もあるが、私の目には荒野のように思えた。



鉄塔の下には構造物がある。

屋根付きの赤い郵便ポストのように見えた。

近づいて見ればなんとなく器械を保護しているような箱であった。

畑の周囲に電線を張り巡らしている。

いわゆる電柵である。

一定時刻になれば通電される動物除けの仕組み。

それはわかったが鉄塔の役目は何であろうか。

(H28.12. 1 EOS40D撮影)

上深川・大仏供養の題目立

2017年06月06日 08時37分18秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
毎年の10月12日の宵宮に古式ゆかしく題目立(だいもくたて)を奉納する奈良市旧都祁村の大字上深川。

氏神さんを祀る八柱神社に向かって奉納する。

例祭は10月13日。

かつては旧暦の九月九日であった。

宵宮の行事に奉納芸能として題目立が行われるのである。

八柱神社には座講・氏神講・オトナ講と呼ばれる家筋からなる22軒の宮座があった。

題目立は数え年17歳になった青年男子をナツケ(名付け)と呼ぶ座入り(村入り)した家筋の長男が奉納していた。

やがて、宮座は村座に改正された。

明治21年ごろのことである。

村座に改められ村人のすべてが座につくようになって現在に至る。

題目立の起源は明らかでないが、上深川に残る最も古い記録は演目「大仏供養」の詞書中の一冊「番帳并立所」のあとがきにある。

「豈享保拾八癸丑年(1733)二月吉旦、古本之三通者及百九年見へ兼亦ハ堅かなにて読にくきとて御ん望故今ひらかなにて直置申候御稽古のためともならハ浮身の本望と住(任)悪筆書写ものなり野洲(下野)沙門教智寛海当村於元薬寺書之者也」である。

八柱神社下境内に建つ元薬寺(がんやくじ)の当時の僧侶である教智寛海が書き記した文である。

享保十八年より百九年前は寛永元年(1624)。

古本が三通あったということだ。

僧の教智寛海は難読のかたかな書きをひらがなに書き改めたということである。

上深川に残る題目立は三曲。「大仏供養」、「厳島」、「石橋山」を伝承しているが、今から四十数年前からは「大仏供養」、「厳島」の2曲を演じるようになっている。

史料によれば毎年交互に替わるとあるようだが、実際はそうでなく例年が「厳島」。

神社の造営(ぞーく)事業の前後のある年に「大仏供養」をしていると聞いた。

この件は今夏の7月3日に元薬寺で行われたゲー行事の際に聞いた。

今年の宵宮の題目立は久しぶりに「大仏供養」をされると知って訪れた。

前後といえば造営(ぞーく)事業であるが、直近は平成26年の4月26日である。

お伊勢さんのように20年に一度の造営(ぞーく)事業ではなく18年の廻りである。

造営(ぞーく)事業をされる3年前の平成23年に奉納された曲が「大仏供養」だった。

つまり、平成22年までは毎年が「厳島」だった。

翌年の平成23年が「大仏供養」。

24年、25年、26年(※造営)、27年の期間は「厳島」。

そして今年の平成28年が「大仏供養」であった。

平成18年3月に奈良地域伝統文化保存協議会が発刊した『都祁上深川・八柱神社の祭礼と芸能』によれば造営(ぞーく)事業があれば、その年から3年続いて「厳島」を奉納するとある。

奈良市のHPにも掲載されているが、ほぼ同文のような口調で書いてあったが実際は違っていた。

実は平成23年の際に以前に「大仏供養」を演じた年を聞いていた。

それは平成4年、6年であった。

造営事業は平成8年。

つまりそのときの状況によって固定でもなんでもなく村が決断されての事業年であったのだ。

こうしてみれば次回に「大仏供養」を演じられるのは15、6年後になることだろう。

そうであれば私が生きている可能性は低い。

この年の私の年齢は65歳。

仮に15年を想定したとしても80歳。

難しい年齢である。

「厳島」を演じる人数は8人。

ところが「大仏供養」は9人。

演じる台本も長編で2時間以上もかかる。

練習もさることながら演者の人数も確保しなければならない。

ずっと昔は隔年であったが、少子化の関係もあって現在は前述した期間を開けて演じている。

大仏供養に登場する人物役は(源)頼朝、梶原平蔵、はたけやま(畠山)、和田の吉盛、ほうせう(北条)、泉の小次郎、井原佐衛門、佐々木四郎、(平)景清の9人。

曲目は、とふ(どう)音に頼朝と梶原の入句を入れて三十八番まである。

ちなみに登場する語りの数が一番多いのは、8曲のはたけやま。

次が景清の7曲。

その次は5曲の泉の小次郎。

3曲は梶原平蔵、和田の吉盛、ほうせう、井原佐衛門。頼朝と佐々木四郎は2曲だ。

ベテランは何度も登場するが、入りたての若者は数曲。

とはいっても頼朝や梶原平蔵の台詞がとにかく長い。

短い台詞の3倍もある。

佐々木四郎もそうである。

はたけやまと景清は曲数も多いし長丁場の語り。

青年男子の立ち振る舞いを導く明かりが灯った。

火を点けた一本のローソクをもつ長老の「ミチビキ」が先導する。



八柱神社下に設えた舞台に向かって先導する。

写真を見ればわかるが、楽屋である元薬寺の出入口ではなく縁から出発したのである。



菰敷きの道は神聖な道であるだけに跨ぐことはあってはならない。

後続についた3人は白衣浄衣姿。

3人は舞台を見下ろす場に座って縁者の出番を役名で呼びだし役の「番帳さし」である。

舞台へ入場する道中に謡われる「ミチビキ」唄がある。

「わがちように 弓矢の大将はたれたれぞ よんのげにもさりさり 頼朝兵衛殿に まさる弓とりなかりけり ようそんのう」である。

演者は所定の位置につく。



長老は奉燃八王子大明神と記された燈籠にみちびきの火を遷す。

氏神さんに向かって拝礼すれば、すぐさま番帳さしの呼び出し第一声の「一番、頼朝」。「わーれーはこれー せぇーいーわーてーんのうのー じゅぅだーいーなーりー・・・」と長丁場の演目が始まった。

場を清めるような謡いぶりに耳を澄ませば奉納されていく特徴ある謡いの声が聞こえる。

一番の頼朝、二番の梶原平蔵、三番のはたけやま(畠山)だけでも15分かかる長回しの台詞に息をひそめる。

同じく白衣浄衣姿の神主は社殿前で耳を澄ませていた。

社務所の前に並べたお供えの数々。



大多数は献酒であるが、米一俵もある。

それは村の営農組合が奉納した奈良のお米である。

独特の謡いに特徴がある題目立。

例えば一番・頼朝の「・・・こーとーことくもーーようし そうーろうえやー やっ」である。

詞章は「・・・ことくもーーようし そうーろうえやー」であるが、最後に「やっ」と気合を込めた声があるのだ。



二番・梶原平蔵の「・・・じゅうーろーくーまん はーせんきーにーて そうろうなりぃ いっ」も最後に「いっ」がある。

つまり詞章の最後にその台詞の最後の詞と同じ同音を用いて気合の入った詞が付加されるのである。

その在り方は役目の終わりを示す詞なのであろうか。

「いっ」と詞があって次の三番・はたけやまが謡っていた。



4番は和田の吉盛、5番・ほうせう(北条)、6番・泉の小次郎、7番・とふ(どう)音。

8番・ほうせう(北条)、9番・梶原平蔵、10番・井原佐衛門、11番・はたけやま(畠山)、12番・佐々木四郎、13番・はたけやま(畠山)、14番・泉の小次郎、15番・頼朝、16番・泉の小次郎、17番・和田の吉盛、18番・はたけやま(畠山)、19番・泉の小次郎、20番・梶原平蔵、21番・はたけやま(畠山)、22番・井原佐衛門、23番・佐々木四郎、24番・景清、25番・はたけやま(畠山)、26番・景清、27番・は和田の吉盛、28番・景清、29番・はたけやま(畠山)、30番・景清、31番・ほうせう(北条)、32番・景清、33番・はたけやま(畠山)、34番・景清、35番・泉の小次郎、36番・井原佐衛門、37番・景清。



延々と謡い続ける大仏供養は既に2時間も経っていたころだ。

37番に続いて演じられるふしょ舞。

「そーよーやーよろこびに そーよーやーよろこびに よろこびに またよろこびをかさぬれば もんどに やりきに やりこどんど」の目出度い台詞の「よろこび歌」に合わせて所作をする。

37番までは延々と「静」かなる所作だった。

動きといえば口だけだ。

真正面を見据えて謡う演者たち。

それが、唯一動きがあるふしょ舞に転じる。

扇を手にした和田の吉盛が舞台に移動する。

手を広げて動き出す。



持った扇を広げて上方に差し出す。

上体も反らして顔は天に届くような所作を繰り返す。

そして38番の景清、梶原平蔵の二人が謡う入句で終えて退場する。

祝言の唱和は全員唱和の「・・・あっぱれーめんでー たーかりけるはー とうしやのみよにてー とどめたーり」。

戻っていくときも長老が翳すローソク1本。

入場と同様に「ミチビキ」を謡いながら元薬寺に戻っていった。



宵宮はこのあとの直会に移る。

演者を慰労する場でもある。

長丁場の演目をやりきった青年男子たちはスマホに熱中する時代。



室町時代から続く伝統行事をこの年も繋いだ一員でもある。

演目の「石橋山」は百年前の明治時代以降演じられていない。

演じた人もいなくなり、それを知る人もない幻の曲になっている。

(H28.10.12 EOS40D撮影)

小倉町観音寺の十七夜の観音講会式

2017年05月14日 08時08分25秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
奈良市の旧都祁村の小倉町に着いた時間帯は午前10時過ぎだった。

この日は朝早くから観音堂に集まってきた男性たちが村の人から寄進された野菜に向き合って苦戦していた。

今年のお供えはどういう形にすればいいのやら、向き合い思案する。

出来あがりの姿を思い描いてパーツを集める。

パーツは寄進された野菜。

野菜そのままの形を利用し組み立てるお供えの造形物。

一人で何体も作っていく。

完成すれば木台に並べる。

大きなものから小さなものまで、いろんな形が並んだ。

出来上がりの形は思い思いの姿。

なんとなくメルヘンちっくな造形物に笑みが漏れる。



可愛らしい、面白い、優しい、奇妙なものもあれば子供や女子受けするトトロもいる。

その横には愛を確かめ合う姿もある。

毎年、作られる野菜の造形物は二つとない。

育ての親が云うにはもっと嫌らしいものを造っていたそうだ。

先代の意思を継いだ嫌らしい形。

今年も数体がそれに近いものもこしらえたという。

お供えは正面にずらりと並べた野菜造りのものもあるが、内陣左側に並べたものもある。



折敷一枚、一枚に盛ったものは決まりがある材料はダイコン葉とカボチャである。

ダイコン葉は軸ごと切って数本を束にしている。

カボチャは薄めの半月切り。

底面を切って立てる。

盛った折敷は底板で繋がっている七つの板皿。

10枚並べて計70皿。

数は何を意味しているのかわかっていないが、かつてはこれに赤飯も盛られていたというだけに御膳であろう。

これらはこの日の十七夜の御膳御供。



観音寺の年中行事は多い。

一月六日は初祈祷(※)。

三月十七日は春季観音講。

六月十六日は田の虫送り(※)。

八月二日の下向、墓掃除や十五日の施餓鬼(※)もある。

九月中旬は大般若百万遍に十七日の秋季観音講。

十一月十四日の十夜に十二月三十日の正月準備。

一年の廻りの他、十一面観世音菩薩を本尊として真言宗豊山派を広め、儀式行事を行い、信者さん教化育成のために、毎月の21日は大師講のお勤めがある。

これら年中行事を務めるのは6人(丸山、西区、東区、中区、南出、北出の六垣内代表者)の檀家総代と二人の責任役員である。

時間ともなれば村の人らも参集されて三巻の般若心経を唱える。

導師は一段前の野菜御供棚向こう側に座っていた。

平成20年に訪れたときは木魚を叩いていたが、この日は見られなかった。

小倉町の観音寺に野菜作りをしていると聞いたのは平成20年6月4日だった。

小倉町ではなく同じ旧都祁村内になる小山戸である。

都祁山口神社で行われたおんだ祭の写真をお礼に渡そうと伺ったⅠ総代家。

おられた奥さんと奈良の祭りや行事の話題に盛り上がった。

その前年である平成19年9月15日に取材した地域行事に天理市福住の上入田・不動寺に野菜造りの御膳があったことを伝えていた、そのときだ。

それと同じかどうかわからないが、奥さんが生まれ育った地にもよう似たものがあると話してくれた。

これは是非とも拝見したい。

そう思って予め訪ねた小倉町の観音寺。

普段のお寺は無住寺であるが、会式法要の場合は真言宗豊山派の僧侶が来られるという。

小山戸住民が話した件を尋ねたら9月17日だという。

そして訪れた日が平成20年9月17日

寺行事を主宰していた責任役員の承諾を得て取材させてもらった。

これには驚いたものだった。

この日の行事に村の小学生がやってきた。

出来あがった御供を見つめるタンドセルを背負った小学校帰りの子どもたちの姿。

寺役をしていたお爺ちゃんとともに記念の写真を撮っていた。

微笑ましいその姿は淡交社から発刊した著書の『奈良大和路の年中行事』に飾らせてもらった。

お寺の行事に野菜で作った造形物をお供えする。

隣村の相河の観音寺会式にも見られる。

他の地域にもしているのではと思って探してみれば多々ある収穫の恵みに感謝する行事だ。

小倉町も上入田も9月の同時期。

寄進の作物をもって造形物を作る。

形式の大小はあるものの神社行事に野菜作りの何某を供える地域も多い。

ちなみに小倉町のこの日の本来は「会式」。



その夜は「イセキの盆踊り」があったという。

「イセキ」は「会式」が訛った表現だ。

奈良県内各地で聞かれる「イセキ」は「イシェキ」とか「イシキ」の呼び名の地域もあるが、そのすべては「会式」である。

小倉町は8月中旬のお盆に月末の風の祈祷にこの日の観音講会式が最後だという。

その夜が〆に「イセキの盆踊り」をしていたが今は見られない。

(H28. 9.17 EOS40D撮影)

上深川の富士垢離

2017年04月01日 10時09分43秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
かつて都祁上深川で行われていた富士垢離行事があった。

当時、営んでいた人たちは富士講。

今でもそうであるが講中は5人。

うちお一人は若い時の映像が残されている。

映像は動画である。

記録された映像を所蔵しているのは奈良県立民俗博物館である。

そこで拝見したときの感動は今でも忘れない。

当時30歳代だったOさんは逞しい筋肉姿。

小川のような深江川に浸かって水垢離の行をしていた。

時を隔ててお会いしたOさんに初めて会ったのはずいぶん前だ。

平成16年に訪れた上深川。

八柱神社下の境内である。

そこに建つお堂は元薬寺。

ここで初祈祷の乱声柳のオコナイをしているから・・と云われて取材させてもらった。

それから幾度となく上深川の年中行事を取材させてもらった。

いつしか気になっていた富士垢離について尋ねてみた。

実は先代たちが亡くなったことから長い期間を中断していた。

県立民俗博物館で映像を拝見したとかお話しているうちに復活話になっていた。

機は熟して復活したときの営みを記録させていただいた。

平成22年に復活した富士垢離はそれからも続けていたと聞いたのは前月に行われた「ゲー」の行事のときである。

本来ならば8月24日に行われるのであるが、講中の事情もあって数日早いこの日になった。

あれから5年も経った。

年齢は講中それぞれが5歳ずつ繰り上がったわけではない。

70歳だったOさんは75歳。

長老のKさんは82歳であったが、引退されて息子さんに継いだ。

今回で3回目の体験があるから心もち慣れている。

実は父親が引退されるまでの時期。

20年ほど前にも体験したそうだ。

それは新聞社の依頼。

その関係があって参加したことがあると云う。

同年齢のNさんは膝を痛めて杖をついてはいるもののお元気な姿をみせてくれた。

あれから5年も経ったから88歳。

垢離場まで行くには無理があるから車利用で現地に向かう。

78歳だったⅠさんも前年に引退されて息子さんが継いだ。

講中はもう一人。

当時65歳だったAさんは70歳。

事情で出かけるはめになったから垢離取りの作法は参加できない。

引退はあるものの、代々を継いできた講中は前年の平成27年に本家本元の浅間神社に参って富士山も登ったそうだ。

若い二人に替わったこともあって段取りなども引き継がれて任しているという。

二人は相談しながらも深江川に運んでいく注連縄を作っていく。

張り方もあれば幣の付け方などもある。

記録された写真ではなかなかわかり難い部分である。

記録写真は平成22年8月24日に撮ったもの。

アルバム化した写真はさんが持ってきた。

年に一度の行事は細かい部分の記憶が曖昧になるようだ。

注連縄ができたかどうかが気になるNさんは八柱神社境内に置いてあった注連縄を点検していた。

ふと漏らした言葉は注連縄の竹は土に挿すから先は尖がらした方が挿しやすい・・・。



注連縄が出来上がれば白装束姿になる。

下着は越中ふんどし。

頭に鉢巻きを巻く。

締め帯も締めた。

履物以外の一切が白づくめ。

その履物は藁草履である。

深江川に足を浸けて垢離をする。

川に下りる際も、道中もずっと履き続ける藁草履である。



行の無事を祈願するに氏神さんに参る。

そして向かった先は深江川。

2月7日の初祈祷の際に架けられる勧請縄がある。

架ける地はカンジョウバ。

垢離をする場はそこより先になるヒガシカンジョウの地だ。

神社、寺本堂がある地より下っていく。



作り上げた注連縄を抱える役目もあれば、三方にのせた神酒とオセンマイ(洗米)を抱える役目もある。

お若い二人がその役につく。

5年前は初めて垢離をするAさんやⅠさんだった。

ずいぶんと若返り若返ったような感がある。

ただ、柄杓と数珠は個人所有。

人に頼むことなく我が自身が持っている。

垢離を終えてから拝見した柄杓と数珠は年代物。



それぞれが先代から継承してきた垢離取りの道具である。

ちなみに左よりⅠ家、O家、K家の持ち物である。

Ⅰ家、O家の数珠は八つ珠。

K家の数珠は算盤のようにも見える数珠珠である。

O家の柄杓に墨書がある。

文字は「せいひち」。

3代前のおじいさんの名であると云う。

それにしてもだ。

徒歩でカンジョバへ行く白装束の姿をみれば、あーそうか、ではなく、なんである。

村の人も初めて見る姿に驚かれた婦人がそう云った。

ヘイ刈り(稲田の雑草取り)をしていたときに気がついた婦人はその場できょとんとしていた。

上深川に富士講の存在を知る人は多くない。

多くないこともあるし、年に一度の垢離の行に遭遇することもない。

滅多に見ることもないから話題にも上らない。

そういうことだと思う。

ヒガシカンジョウの地に着いたら注連縄を立てる。

そこより離れた位置にも竹を立てる。

白衣を脱いでふんどし姿になる。



その白衣を架ける竹の竿架けであった。

深江川の土手を下りて祭壇を設える。

お神酒とオセンマイ(洗米)を祭壇に置く。

その方角は富士山がある位置である。

その方角に向かって一列に並ぶ。



手を合わせて富士山に向かって拝礼する。

水垢離はじめにお神酒を注いでオセンマイを川に浸して洗う。

そして東の方角に向かって並ぶ。

注連縄の遥か先が富士の山。

つまりはその先の富士山に向かって水垢離をするのである。

代々継いできた数珠を左手に持って数える。

「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」と数えて柄杓で掬った川の水を頭からかけるような作法をする。



低頭姿勢で「やー」のときに水を落とす。

富士垢離の儀式に数珠珠は八つ。

それはひと節ごとにある。

次の節の数珠を数えて、またもや「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」の「やー」で水をかける。

これを8回繰り返す。



再びお神酒を注いでオセンマイを川で洗う。

数珠を指でくって「ひー、ふー、みー・・・」。

これも8回繰り返す。

合計で108を数える。



かつては初めの64回の一垢離を終えてから、元薬寺本堂に戻ってオコモリの会食をしていた。いわゆる「籠り」である。

ゆっくりと昼寝の休息をとってから再び川に出かけて水垢離をしていた。

やがては効率化。

二垢離を一度で済ますようになった。



こうした作法を対岸から見続けていたNさんの顔が綻んでいた。

稔った稲穂は黄色くなってきた。

垢離を済ませば帰路につく。



架けていた白衣を再び身に着ける。

青空が眩しい上深川。

爽やかに流れる風に汗もかかない。

今回の取材にカメラマンが5人。

私が案内した人もおればたまたまこの日だと信じてやってきた人も。

富士講を調査している人は予めに尋ねていた。

実はそれぞれが知人、友人であった。

皆もあがっていきなと云われて講中のヨバレの席につく。

ありがたいことである。



「ゲー」のときもよばれた盛り合わせオードブルは旧都祁白石の「たけよし」。

豪勢な盛りに箸をつけるのは気が引ける。

それなら巻き寿司でもと・・。



夏は暑いからと持ってこられたビン詰めトマトジュースの原料はトマトベリー。



2年前から針テラスで販売するようになったが、栽培しているのはOさんの娘さん。

「ゲー」のときも来てはった。

ありがたくいただきますに美味しいを連発した。

この場を借りて厚く御礼申し上げます。

(H28. 8.21 EOS40D撮影)

倉立の虫祈祷札

2017年01月15日 07時10分32秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
上深川のゲー行事を取材して帰路につく。

名阪国道に入ろうとした辻に石碑がある。

小倉倉立である。

そこに立てていた竹にお札を挟んでいた。

この光景はたびたび目撃するが虫送りに立てた祈祷札に違いないと思っている。

風雨に見舞われた祈祷札は無残にも落下していた。

大半は破損していたが若干残っていた文字でどこのお札か判る。

お札は版のような印刷物。

文字は「密林山 文年三□□ 天照皇大神 保食大神 害虫祈祷・・」。

害虫祈祷の文字から判定できる虫送りの祈祷札である。

「密林山」は旧都祁村小倉に建つ真言宗豊山派の密林山西道院観音寺である。

虫送りの際には僧侶が来られて虫祈祷の法要をされる。

そのお札はここまでやってきて立てた。

やってきたのは松明送りの団体ではなく役員さんである。

小倉の虫送りにお札を立てる処は村境の4カ所。

2カ所は松明で虫を送るが残りの2カ所はここと同じように役員さんが立てる。

(H28. 7. 3 EOS40D撮影)

都祁上深川元薬寺のゲー

2017年01月14日 09時38分13秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
平成17年に取材した「ゲー」の行事。

2年後の平成19年も訪れて取材した。

それ以来であるから実に9年ぶり。

そのときに聞いていた本来の行事日は夏至から11日数えた日の半夏生。

さらに翌日になると聞いていた。

いつからその日から集まりやすい第一日曜日に移行されたのか聞いていないが、とにかく今は7月の第一日曜日。

今年は3日がそうであるが、この日に伺ったかつての行事日は3日だったという。

この年はまさに昔しと同じ日に合致した当たりの年だと云うが、今年の半夏生の翌日は7月2日である。

過去、何度か聞いた記憶にあるのは2日だった。

行事が行われる場は元薬寺(がんやくじ)。

集まってくる人は37歳になれば仲間入りできるという氏神講とも呼ばれる宮座講の人たちである。

講中はこれを普段、オトナ講と呼んでいる。

オトナ講を継いでいくのは長男だけ。

仲間入りのことを「オトナナリ(成り)」と呼ぶ。

そのオトナ講の座入り行事は対象者があれば11月の日曜日に行われるようだ。

かつては30軒もあったオトナ講は22軒。

昭和20年ころのことである。

その後も減って今では15軒のようだ。

ユネスコ世界遺産に登録された国指定の重要無形民俗文化財である「題目立」はその宮座講から派生したものだと聞いている。

宮座講は上深川の村が生まれたときに組織されたというからおよそ460年前。

400年以上も連綿と継承されてきた「題目立」は宮座講の家の17歳の男子が演じてきた。

「題目立」を奉納する日の昼ごろ。

「名付け」が行われ、奉納した以降に「オトナ入り」で認められ、一人前の大人として扱われたのである。

なお、戦時中の若者は戦地にいた。

村には若いもんがいなかったが、オトナたちが「題目立」を守って継承してきたと話す。

かつてのこの日の寄り合いは昼も夜もカシワのすき焼きがあった。

カシワと呼ぶのは鶏のヒネ肉である。

若いもんはそう呼ぶ人はいないかも知れない。

酢のもんとかエンドマメの玉子とじ、シイタケ煮に魚など7品はトウヤ(史料によればドウゲとも)負担で講中を接待する。

人数が多いだけに接待をするには姉弟や親族まで応援してもらって務めていたと云う。

宮座講の決算はこの日と12月の年2回。

12月は春日大社の春日若宮おん祭りまでに行われるサンジョ(算用)がある。

サンジョは決算を意味する。

県内事例に「サンジョ」と呼ぶ地域は多い。

そのサンジョに帳面がある。

昔しは講所有の田んぼや山があった。

小作に貸し出ししていた田んぼ。

年貢に育てた米がある。

その米をもってくる行事を「米コナシ」と呼んでいた。

それらも含めて決算する。

その記録が「算用帳」であり、納めている講箱に「嘉永五年(1852)」の年号がある。

ちなみにオトナ講は60歳になれば定年する。

講を定年するのではなく、トウヤと呼ばれる当番役の定年である。

つまり60歳以上になればそのほとんどの人がヨバレるだけであるが、現在の定年齢は65歳である。

その定年の人とオトナ成りした人の二人が世話して接待しいてきたが、今では年齢順にしているようだ。

現在は55戸の上深川。

講中全員で21人。

この日に集まったのは14人。

平成17年、19年に取材したときよりも若干少ないように思えた。

ゲーの儀式に供えるものがある。

まずは八柱神社拝殿に供える御供メシである。

ゲーは仏事の行事であるが氏神さんに食べてもらおうということだ。

元薬寺の本尊は薬師如来立像。

無住であるが、古儀真言宗である。

江戸時代は東大寺戒壇院の末寺であった。

無住が続いた寺であるが、江戸時代の住僧記録によれば延宝七年(1679)に円了房、享保七年(1723)に性専房、享保十八年(1734)に教智坊、明和二年(1765)には貫線房が居住していたとされる。

本尊の両脇にアオイの木を入れた鉢を並べる。

作業はそれだけでなく九つの銅杯に一枚ずつのシキビの葉を入れていく。

「そうそう、そういう具合だったと前回取材(平成17年)の映像を思い出す。が、である。講中の一人が云った。葉っぱは一枚ずつだったけ。いやいや端っこは軸付きの4枚葉やったという。それなら4枚葉は四隅すべてにするんやったかな・・・。」

講中の記憶は一年前。

細かな部分で思い出せないところがある。

行事の用具を調製する際に交わされる言葉。

どこの村へ行っても同じような台詞がでる。

ここにある写真を見たら対角線上の二隅だけだとわかった。

その写真はどこかで見たことがある・・・。

平成17年、19年に取材した一連の写真はアルバムに入れて届けた。

こういうこともあると思って家に保管していたアルバムを持ってきたというのはこの年のトウヤにあたるOさんだった。

アルバムはゲーだけでなく他にも持ってきていた。

2月に行われる初祈祷に柳のオコナイや8月の風祈祷、12月の注連縄掛けなどだ。

アルバムはもう一つある。

富士垢離である。

深江川のカンジョウ場に注連縄を立てて水垢離をする姿は富士講の人たちである。

平成21年に復活した講中の行事である。

懐かしい写真に惚れ惚れして云った。

今年も決まった日にするのですか・・・、であるが、今年は講中の都合もあって数日前に決めたそうだ。

久しぶりの再取材をお願いしたのは云うまでもない。

話しはシキビを入れた銅杯に戻そう。

その銅杯は9杯。

盆板に並べる。

それを6枚揃えるから銅杯の数は9×6の54杯である。

その数が何を意味するのか、講中も存じないし、古文書記録にもないようだ。

調えた銅杯は盆板ごとご本尊の前に供える。



ローソクに火を灯して皆は席につく。

今回の導師はOさん。

講中は周りを囲むように座る。



キンを打ってお念仏。

十三仏、一心頂礼、光明真言を唱える。

こうして1回目のお念仏を終えた。

これから始まるのは「座」である。

座敷に出した低床タイプの机に並べた「座」に出る食事は仕出し料理屋さんに頼んだ豪華な盛りのオードブル(一盛り一万円)。

トウヤの接待料理はトウヤ家負担。

ゆっくり食べていきと云われて「座」につかせてもらった。

ありがたいことである。



豪華な盛り付けに圧倒されたオードブルはどれをいただいても美味しい。

どれをと云っても遠慮しながら、である。

食べた範囲内であるが、まちがいなくどれもこれも美味しかった。

頼んだ料理屋さんは天理市福住町にある料理・寿司などがメインの辻村食料品店「つじむら」。

覚えておこう。「座」の会食はオードブルだけでなく手造り料理もある。



一つは豆腐の汁椀。

もう一つは自家製の漬物盛りだ。



しかも、である。

しばらくすればデザートも運ばれる「座」の会食。



なにかと思えばお店に出かけて買ってきたアイスクリーム。

夏はやっぱり、これだなぁと皆が云う。

お腹が膨れたらしばらくはヒンネをする。

ヒンネは昼寝が訛った言葉。

奈良ではときおりヒンネが出てくるのが嬉しい。

この時間帯は合間。

2回目のゲーまでは時間がある。



その間に氏神講が所有する講箱や納められていた『氏神講貸金並上納勘定帳』を拝見する。

大正十一年十一月二十四日、大正十三年十一月二十八日、大正十四年十二月二十日までは一老と宿(ヤド)の名がある。

昭和十一年十二月末は宿(ヤド)の名がある。

また、明治四十三年三月二十四日から昭和三十一年三月まで記帳した『氏神講中緒上納並等用造用帳 講中』綴りもある。

明治十三年新三月・・日の『氏神講中緒上納並等用造用帳』には宿(ヤド)の名がある。

これらを納めていた講箱裏面に「嘉永五年(1852)子十一月 □惣算用帳入」が墨書されていたのだ。

西暦年の「1852」文字は最近になって付記されたものである。

午後3時半過ぎ。

2回目のゲーが始まった。

1回目と同じようにシキビの葉を盛る銅杯。

盆板に9杯の銅杯を並べる。

その盆板は6枚。

盆板すべてが揃ったらご本尊下の祭壇に並べる。

ローソクに火を灯して席につく。

2回目の導師は若い人に替わった。



こういう具合に経験する回数を増やして継承してきたのだろう。

講中は周りを囲むように座った。

キンを打ってお念仏。

まずはご真言である。

オンパラ・・語りかけるような調子で唱えた。

こうして一連のゲー行事を終えたら用具などの後片付け。

材の古さで気になっていたのがシキビを入れていた金属製の銅杯容器である。

年代を示すものはなかったが、平らな木製の盆板と呼ぶ台にあった。

2本の細長い木材は脚である。

脚があるのが裏面。

そこに文字があった。



墨書の文字は「元薬寺 延宝二念(1674)卯月廿七日」であった。

今から344年前の元薬寺什物である。

この盆板はずいぶんまえに新調された。

ところが一枚だけに脚の部分が壊れた。

仕方なく二枚は古い台を使ったということだ。

講中とともに蔵内を調べてみれば古い台がもう一枚あったが、墨書はなかった。

たまたまであるが、貴重な発見に繋がったのである。

上深川の歴史を語る史料は大切に保管してくださいと伝えて引き上げた。

なお、この文の執筆にあたっては奈良地域伝統文化保存協議会が平成18年3月30日に発刊した非売品の『都祁上深川・八柱神社の祭礼と芸能』を参照したことを付記しておく。

(H28. 7. 3 EOS40D撮影)

都祁小山戸山口神社の夏神楽

2017年01月12日 09時33分10秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
かつてはその日にボタモチ食べていたと聞いていた森神さんに参る「おせんどう」。

「おせんどう」とは一体、何である、だ。

数々の県内行事や風習を拝見してきたが同じ名称の行事はどこにもなかった。

特有の表現なのかどうかもわからないが、森神さんに拝礼し神社に戻る。

これを繰り返すこと3回。

森神さんから戻る際には一人の社守さんの背中に葉付きの樫の枝木を掛ける。

それそのもの行為も県内事例に見当たらない特殊な作法である。

昔から繰り返す・・とはいってもいつ始まったのかわかっていないが、一種のお百度参りの形式のようにも思える。

お百度参りは民間信仰のひとつ。

ひゃっぺん廻れば願いが叶うと信じられた行為である。

一度だけの参拝でなく、何度も何度も参拝をすれば心願が成就するということであるが、京都で盛んな千度参る(お千度詣で、或はお千度参り)というような習俗でもなさそうな「おせんどう」。

その名の作法は奈良市都祁小山戸の山口神社で行われている。

かつては7月1日であったが、いつしか第一日曜日に移された。

その日に行われる行事名は「夏神楽」。

大字友田水分神社の宮司が作法する神楽舞である。

一般的には巫女さんが舞う神楽舞であるが、そうではない。

鈴を鳴らすことには違いないが、男性神職による神楽舞である。

ここ旧都祁村界隈では大字友田水分神社の宮司が作法する神楽舞が各地域にある。

私が知る範囲内であるが、友田を筆頭に南之庄、藺生、針、甲岡がある。

いずれも友田の宮司が舞う神楽がある夏祭りである。

旧都祁村以外にも同一名称の夏神楽がある。

宇陀市室生小原の八幡神社や山添村大塩の旧観音寺であるが神楽を舞うことはないと聞いている。

さて、小山戸山口神社の夏神楽である。

まずは、村の楽人4人が拝殿の席につく。

そうして始まった楽奏。

誰一人いない境内に雅の楽が鳴り響く。

宮司以下、宮守、自治会長らは手水で清めて参進する。

神事は祓えの儀、献饌、祝詞奏上・・・。

次に行われるのが神楽舞である。



宮守が太鼓を打つ。

トン、カッカと間を空けて、トン、トン、トン打つ太鼓に合わせて鈴を鳴らしながら左や右に回転しながら所作をする。

いわゆる夏を乗り切る祓いのように思える夏神楽である。

それを終えたら宮司を残して宮守さんとか自治会長らは境内に下りる。

宮守さんは奉った葉付きの樫の枝木を手にして下りてきた。

宮守は3人。

先頭を行く二人の宮守は笏をもつ。

もう一人の宮守が樫の枝木をもつ。

後続についたのはオーコで担ぐ太鼓打ちであるが、平成19年に拝見したときの太鼓打ちは二人の宮守だった。

いつなのかわからないが役目が替わったのであろう。

礼服姿の氏子たちの足元をみていただきたい。

靴ではなく白い鼻緒の草鞋である。

これは神事のなかの一つの作法なのである。



「おせんどう、おせんどう」と声を揚げながら出発した。

太鼓はドン、ドンと二打ち。

間を空けて二打ち。

そうしながら神社を出て参道にでる。

向かう先は鳥居である。

その鳥居下には森神さんに奉る神饌が供えられていた。

平成19年に拝見したときの「おせんどう」参りでは「おせんどう、おせんどう」の詞章は発声されることなく黙々と参拝していた。

これもまた、いつのときかわからないが変化したと思われるし、逆にこの年が正統であるかもしれないし・・・。

再訪した際に尋ねておきたい事項である。

森神さんに拝礼して参道を戻る道中である。

そのときに樫の枝が動く。

宮守がもっていた樫の枝は後方についた自治会長他、役員に手渡していた。

それを戻っていく宮守の首辺りに引っかけるのである。

何人もするするから背中は葉っぱだらけになる。



引っかける架かりが悪ければすべてが落ちてしまう。

戻る道中。静止せずにそれをしなければならない行為はきちんと首にひっかけねばならないのである。

戻ってきたら本殿に向かって一同は頭を下げて拝礼する。

そうすれば再び森神さんに向けてお渡りをする。

森神さんに参る。

樫の葉をかける。

本殿に向かって拝礼する。



これを3回繰り返して終わった「おせんどう」。

肩から引っかけた樫の葉は背中一面を覆った。

その姿から想定できる背中の日除け。

つまり夏の田んぼの農作業における日焼けを表現しているのである。

確証を示す古文書はないが、そう思うのである。

ちなみに「おせんどう」の「おせんど」とは、・・・・である。

私は生まれも育ちも大阪。

親がよく言った言葉に「せんど」がある。

「せんど言うたのに・・」とか「せんど行ったわ」とか・・で使う言葉。

「せんど」とは多いという意である。

先の「せんど言うたのに・・」は「なんぼも言うたのに・・」であり、「せんど行ったわ」は「なんども行ったわ」である。

「なんぼ」や「なんど」でわかるように一般的用法では「何度も」である。

つまりは「多い」ということであるが、小山戸の「おせんどう」はそれが確証できるかどうかはもっと多くの事例を探さなくてはならない。

不思議とも思える「おせんどう」の所作を終えたら、場を神事に戻して、撤饌、拝礼で終わる。

(H28. 7. 3 EOS40D撮影)