岡山県笠岡湾干拓地のヒマワリ畑
歴史ロマン 大黒屋光太夫
江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語(最終章)
(前回までのこと)
サンクトペテルブルグで皇帝・エカテリーナ2世に謁見し日本への帰国が認められます。アダム・ラクスマンが遣日使節に任命され、オホーツクから根室に向かいました。
(つづき)
遣日使節団には、船を仕立て38名の乗員を確保するという多大な出費を伴いました。8月21日にカムチャッカを出発し、9月26日に根室半島の厚岸(あっけし)に至っています。ここで光太夫たちは、実に10年ぶりに母国の土を踏むことになります。万感込み上げるものがあったでしょう。ラクスマンは、ここで越冬小屋の建設を申し入れます。季節は冬に向かっており、まもなく辺りは氷で覆われ身動きできなくなり、長期戦を予想してのことです。
早飛脚が松前から幕府に飛びます。それでも届くまでに2週間を要します。つまり、お伺いをたてその返事が来るまで1カ月を要するということですから大変です。時の老中は、寛政の改革で有名な松平定信で、田沼意次と代わったばかりでした。「手荒くしないように、失礼のないように」と指示を出しています。そして11月の初め、蝦夷地派遣団の編成が決まります。冬の根室は寒く、生鮮食料品の確保が難しくなって壊血病が蔓延し、何と漂流民の小市が47歳で亡くなってしまいます。やっと故国に帰れたのに、今までの苦労はなんだったのでしょう。その無念さを想うと気の毒でなりません。
翌年の春、氷が解けると、使節団を乗せたエカテリーナ号は、松前に移動します。交渉は3度にわたってこの地で行われました。
第1回の会談では、ラクスマンより、まず第1の目的は、漂流民を引き渡すということ、次に通商を望んでいることなど、親善を目的とした遣日使節であることを伝えます。そして2回目の会談では、幕府方より、異国との通商はすべて長崎で行われている。長崎入港の信牌(しんぱい)を次回の会談時に与えられる、と伝えられました。そして3回目の会談は、和やかに行われました。長崎入港の信牌が渡され、すみやかに帰国するよう告げられます。ラクスマンは、今後の交渉を次の使節団にまかせることにし、松前を出航、9月8日にオホーツクに帰還しています。ただ、他の説では、信牌を持って長崎に向かうように告げられたにも関わらず、帰ってしまったとも云われています。
18世紀初め、日本は、オランダと清国のみ長崎で貿易を行っていましたが、日本からの輸出品は少なく、大幅な入超となっていました。そこで新井白石は、清国に対し年間30隻と定め、誓約した者だけに発行した許可証が信牌でした。
1793年7月23日、光太夫と磯吉が松前から江戸に向かいました。2漂民は旗本格となり、11代将軍家斉に謁見を許されました。このとき、光太夫は金メダル、磯吉は銀メダルを胸にかけロシアの正装に身を包み、まさに紅毛人のようで、とてもこの国の人には見えなかったようです。
その後、聴き取りがありましたが、光太夫の口述は、非常に詳しく、その観察力の鋭さと記憶力の確かさは、驚くべきものがあったと云われています。
そして二人は江戸に留め置かれ、ロシア情報の独占と信牌を持ったロシア船の長崎来航に備えることになります。そしてその10年後故郷に戻り一時滞在を許されています。伊勢神宮を訪れ、非命に倒れた仲間たちの鎮魂の祈りを捧げています。
故郷の家族ですが、光太夫には、次姉のみが生存し大黒屋は絶家していましたが、磯吉の家族は、母、兄、姉、妹が元気でいたそうです。また、他の説では、妻は光太夫が死んだものと思い再婚していた、とも云われています。
江戸に戻った光太夫は、妻を娶り子どもをもうけています。そして、1828年4月15日に光太夫は78歳で、磯吉は、1838年11月15日75歳で波乱の生涯を終えています。あの高田屋嘉兵衛は、光太夫の前年の1827年に59歳でなくなっています。
(おわり)
次回は、江戸時代に日本人で初めて世界一周を体験した津田夫ら若宮丸漂流民のお話です。
参考文献:岩波書店 山下恒夫著 新書「大黒屋光太夫」、ウイキペディア
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