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未熟なカメラマン さてものひとりごと

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江戸時代・世界一周を体験した男たち 若宮丸漂流民の物語

2012-09-02 08:48:41 | 歴史

華鴒大塚美術館庭園のムクゲ 本文とは関係ありません。

歴史ロマン 津太夫
江戸時代・世界一周を体験した男たち 若宮丸漂流民の物語

高田屋嘉兵衛、大黒屋光太夫、ラクスマン、レザノフなど江戸時代にロシアとの関係で日本史の教科書に登場する人物の名前ですが、津田夫など若宮丸漂流民のことを知る人は少ないのではないでしょうか。光太夫などと同じく、漂流民となりアリューシャン列島に流れつき、同じような運命をたどりますが、特筆すべきは、津田夫など3名が結果的に、世界一周を日本人として初めて体験したことです。

寛政5年(1793年)11月27日、若宮丸は、船頭平兵衛ら16人を乗せ、仙台藩江戸屋敷に米と木材を届けるため石巻港を出発しました。(余談ですが、この年の初め、仙台沖で大規模な地震と津波が発生したという記録が残っていますが、石巻はどうだったのでしょうか。)しかし、福島県沖で南西の強風と強い波に遭遇してしまいます。舵を破壊され海水が入り込み、米を半分以上も海に投げ捨て、ついに帆柱も切断、大黒屋光太夫の神昌丸と同じく、船は洋上を漂うだけの漂流物になってしまいます。このような中、船頭の平兵衛が過労で倒れ津田夫が代りに陣頭指揮をとることになります。
こうして洋上を漂うこと7カ月、ついにアリューシャン列島の孤島に辿り着きます。
この長い半年以上の漂流中、誰一人死者を出さなかったのは極めて珍しいことでした。
この島は、光太夫らが漂着したアムチトカ島よりさらに東のウナラスカ島あたりと思われます。
そして、一行は、島で出会った、現地人に厚いもてなしを受け、体力を回復していきます。そしてロシア人に出会い、彼らの基地に連れて行ってもらい、その後、アトカ島で1年滞在の後、毛皮商人の船でオホーツクへ移動します。彼らは途中、光太夫たちが漂着したアムチトカ島にも寄っています。光太夫のことは事前に知っていたようで、帰国後、儀平はそのときのことを「懐かしく思えて涙が流れた」といっています。同じ日本人が漂流した島ときいて郷愁にかられたのでしょうか。
いずれにしても、この地での滞在期間が1年余りで少なかったことが幸いしました。ちなみに光太夫のアムチトカ島では、4年間の滞在を余儀なくされ6名の仲間を失っています。

オホーツクに到着すると、総督府のあるイルクーツクに向かうよう言い渡されます。地方の役所では、何も判断できないということでしょう。やはり前回の光太夫のこともあり、ロシアの国策として、「日本人を送還することによって、交易開始のきっかけとしたい」という政治的・経済的な狙いは当然あったのでしょう。それにしても、オホーツクから南下すれば千島列島、択捉、根室と祖国まではすぐそこなのに、逆に内陸に向かうということを聞いて津太夫たちの落胆ぶりがわかるような気がします。
イルクーツクまでの距離、何と2600キロ以上、黒太夫の時と同じく、極寒のヤクーツクを経由しイルクーツクへの旅は困難を極めました。15人が3班に分かれて、移動することになりました。(つづく)

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江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語(最終章)

2012-08-19 10:26:32 | 歴史

岡山県笠岡湾干拓地のヒマワリ畑

歴史ロマン 大黒屋光太夫 
江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語(最終章)

(前回までのこと)
サンクトペテルブルグで皇帝・エカテリーナ2世に謁見し日本への帰国が認められます。アダム・ラクスマンが遣日使節に任命され、オホーツクから根室に向かいました。
(つづき)

遣日使節団には、船を仕立て38名の乗員を確保するという多大な出費を伴いました。8月21日にカムチャッカを出発し、9月26日に根室半島の厚岸(あっけし)に至っています。ここで光太夫たちは、実に10年ぶりに母国の土を踏むことになります。万感込み上げるものがあったでしょう。ラクスマンは、ここで越冬小屋の建設を申し入れます。季節は冬に向かっており、まもなく辺りは氷で覆われ身動きできなくなり、長期戦を予想してのことです。
早飛脚が松前から幕府に飛びます。それでも届くまでに2週間を要します。つまり、お伺いをたてその返事が来るまで1カ月を要するということですから大変です。時の老中は、寛政の改革で有名な松平定信で、田沼意次と代わったばかりでした。「手荒くしないように、失礼のないように」と指示を出しています。そして11月の初め、蝦夷地派遣団の編成が決まります。冬の根室は寒く、生鮮食料品の確保が難しくなって壊血病が蔓延し、何と漂流民の小市が47歳で亡くなってしまいます。やっと故国に帰れたのに、今までの苦労はなんだったのでしょう。その無念さを想うと気の毒でなりません。

翌年の春、氷が解けると、使節団を乗せたエカテリーナ号は、松前に移動します。交渉は3度にわたってこの地で行われました。
第1回の会談では、ラクスマンより、まず第1の目的は、漂流民を引き渡すということ、次に通商を望んでいることなど、親善を目的とした遣日使節であることを伝えます。そして2回目の会談では、幕府方より、異国との通商はすべて長崎で行われている。長崎入港の信牌(しんぱい)を次回の会談時に与えられる、と伝えられました。そして3回目の会談は、和やかに行われました。長崎入港の信牌が渡され、すみやかに帰国するよう告げられます。ラクスマンは、今後の交渉を次の使節団にまかせることにし、松前を出航、9月8日にオホーツクに帰還しています。ただ、他の説では、信牌を持って長崎に向かうように告げられたにも関わらず、帰ってしまったとも云われています。
18世紀初め、日本は、オランダと清国のみ長崎で貿易を行っていましたが、日本からの輸出品は少なく、大幅な入超となっていました。そこで新井白石は、清国に対し年間30隻と定め、誓約した者だけに発行した許可証が信牌でした。

1793年7月23日、光太夫と磯吉が松前から江戸に向かいました。2漂民は旗本格となり、11代将軍家斉に謁見を許されました。このとき、光太夫は金メダル、磯吉は銀メダルを胸にかけロシアの正装に身を包み、まさに紅毛人のようで、とてもこの国の人には見えなかったようです。
その後、聴き取りがありましたが、光太夫の口述は、非常に詳しく、その観察力の鋭さと記憶力の確かさは、驚くべきものがあったと云われています。
そして二人は江戸に留め置かれ、ロシア情報の独占と信牌を持ったロシア船の長崎来航に備えることになります。そしてその10年後故郷に戻り一時滞在を許されています。伊勢神宮を訪れ、非命に倒れた仲間たちの鎮魂の祈りを捧げています。   
故郷の家族ですが、光太夫には、次姉のみが生存し大黒屋は絶家していましたが、磯吉の家族は、母、兄、姉、妹が元気でいたそうです。また、他の説では、妻は光太夫が死んだものと思い再婚していた、とも云われています。
江戸に戻った光太夫は、妻を娶り子どもをもうけています。そして、1828年4月15日に光太夫は78歳で、磯吉は、1838年11月15日75歳で波乱の生涯を終えています。あの高田屋嘉兵衛は、光太夫の前年の1827年に59歳でなくなっています。
(おわり)
次回は、江戸時代に日本人で初めて世界一周を体験した津田夫ら若宮丸漂流民のお話です。
参考文献:岩波書店 山下恒夫著 新書「大黒屋光太夫」、ウイキペディア

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江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語

2012-08-06 23:44:37 | 歴史

人気のたこ焼き店 大阪道頓堀 本文とは関係ありません。

歴史ロマン 大黒屋光太夫 
江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語

(前回までのこと)
淡路島の高田屋嘉兵衛記念館を訪ねたことがきっかけで、江戸時代にロシアへの漂流民となった人たちのことをいろいろ調べています。前回は、大黒屋光太夫が、アムチカ島(アムチトカ島とも)へ漂流し、その後シベリアを横断し、イルクーツクに到着、キリル・ラクスマンに出会うまでを書いています。
(つづき)
当時の大黒屋光太夫を見たロシア人の記録に、「光太夫は他の日本人と比べてその態度と身なりは明らかに違っていた」とあり、誰もが彼を日本の大商人と思っていたようです。ロシアへの漂流民ですが、記録に残っているものでは光太夫たちが5回目だったようです。それ以前には、大阪商人の息子・伝兵衛(デンベイ)、薩摩の権佐(ゴンザ)、南部藩の多賀丸難民などがいました。「ただ日本に帰りたい」というその夢もかなわず、止む無くロシア正教に改宗しロシア人となり、多くが日本語学校の教師になって彼の地に骨をうずめています。そして誰一人、日本に帰ってきた者はいませんでした。
光太夫は、イルクーツクで、訪ねてきた多賀丸漂流民の子どもたちと会っています。そしてその中の1名が、光太夫が日本に帰るときのエカテリーナ号に乗船し、ロシア側の通訳をしています。
当時のロシアでは、日本という国の詳細な情報が入らず、漂流民はまさに日本の情報源そのものでした。日本が資源豊かな国であることを知り、是非、通商を始めたいと思っていました。ロシアの初代皇帝ピョートル大帝以降、シベリアの総督府や知事、出先機関に日本人がいたら是非連れてくるよう指示をだしていたのです。

さて光太夫は、イルクーツクでキリル・ラクスマンに支援してもらいながら帰国嘆願書を総督府に何度か提出していましたが、返事は、ロシアに帰化し日本語の教師になれというものでした。その状況に、キリル・ラクスマンは直接、皇帝に直訴するしかないと光太夫に告げ、共に帝都に出向くよう促しました。形としては、赴任先のイルクーツクでの研究の成果を科学アカデミーに報告するため帝都に赴くキリル・ラクスマンに帯同するというものでした。このとき、仲間をイルクーツクに残して、光太夫が漂流民を代表して一人で向かったのか、それとも全員で向かったのか諸説ありますが、ここでは、全員で向かったという説をとります。帝都・サンクトペテルブルグまでの距離、実に6000キロ。日本の北海道から九州までの距離は2000キロですから、気の遠くなる距離です。

このキリル・ラクスマンの存在と、時の皇帝が、エカテリーナ2世だったということが、運を大きく導いてくれました。カテリーナ2世は、ロシア皇帝の中で最も長い間、皇帝を勤めた温情のある、そして有能な女帝でした。何とかエカテリーナ2世に謁見できた光太夫は、何としても帰国したいという思いを伝えます。ラクスマンからも、漂流民を返すことが、日本との通商を始める一番の近道と、皇帝に申し入れたのでした。皇帝からの申し渡しがあるまで、漂流民は国賓の待遇でした。一流のホテルに泊まり、町を見て歩きます。あまりの華やかさに、驚き感動したことでしょう。漂流中、彼らの一番の幸せのひと時だったに違いありません。そして申し渡しがありました。日本に帰るか、ロシアに残るか、希望をきかれます。これには、光太夫他、3名が日本へ帰ることを希望し、2人がロシアに残ることを決意しました。皇帝は、キリル・ラクスマンの二男のアダム・ラクスマンをロシア使節に任命します。(日本史の教科書に登場するあのラクスマンです)
こうして、すでに改宗した2名(新蔵、庄蔵)がロシアに残りますが、新蔵は、後にやってくる津田夫をはじめとする若宮丸の漂流民の世話をすることになります。帰国組と残留組との最後の別れは、相当つらいものだったでしょう。オホーツクで船と船員が準備され、そして出航、根室に向かいます。ついに帰国の夢が実現することになります。(つづく)

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歴史ロマン 大黒屋光太夫と彼らを支えた人たち その2

2012-07-25 20:33:55 | 歴史

我が家のオリーブと青い空 本文とは関係ありません。

(前回のつづき:アムチカ島を脱出し、キリル・ラクスマンに出会う)
アムチカ島からロシア人と共に脱出した光太夫たちは、日本に帰りたい一心で、帰国嘆願書を届けるために、いわれるまま、カムチャッカからオホーツク、そしてヤクーツクへとソリで向かうわけですが、彼らを一番苦しめたのが極限の寒さと、壊血病ではなかったでしょうか。
アムチカ島では、漂流で痛めた体が寒さに耐えきれず6人の命をすでに失っていますし、ヤクーツクを出発するころには、さらに5人減って6人(諸説あり)となっています。特に、このヤクーツクは北半球で最も気温が低いところと云われ、厳寒期にはマイナス50度以上になりますし、夏には30度以上になることもあるそうですから、年間を通しての寒暖の差は、80度にもなります。冬季には、新鮮な食糧が手に入らないため、壊血病で命を無くす者が多発しました。

ビタミンCを含まない食事を約60~90日間続けると、体内のビタミンCの蓄積総量が許容限度以下になり、出血性の障害をもたらす壊血病を発症すると言われていますが、このビタミンCと壊血病の関係があきらかになったのは、1932年のことです。ただ、新鮮な野菜や果物、特にかんきつ類を摂取すると発症が少なくなるというのは、当時でもわかっていたようですが、ただでさえ極寒の地での冬場の食料の確保は大変だったようで、飢饉の年には大勢の餓死者を出したといわれています。

ところで、ここまで見るとロシア人は漂流民に概ね寛大であったということがわかります。アムチカ島では、漂流民を拒むことなく受け入れて、行動を共にし、船で脱出していますし、ヤクーツクからイルクーツクまで行動を共にしてくれたホトケーヴィチ(ホッケイチ)も命の恩人ではなかったでしょうか。何よりも一番の功績は、あのキリル・ラクスマンを紹介してくれたことです。
イルクーツクは、バイカル湖西岸内陸にあたり、このころ、中国、朝鮮、満州などの人々が交易に訪れる繁華な土地でした。そして光太夫たちはラクスマンに会うわけですが、彼がいなかったら、光太夫たちは永遠に日本に帰ることができなかったでしょう。
過去、多賀丸の漂流民、それ以前にも大阪廻船や薩摩廻船の漂流民がいたことを聞かされますが、これら多くの漂流民が、望郷の念に抱かれながらも、帰るすべも無く帰化し、この地で亡くなっています。ただ一人として日本に帰ったものはいなかったのです。

ちなみに、記録に残っている最初の日本人漂流民は、伝兵衛という人で、カムチャッカに流れ着き、ヤフーツクへ移って、その後モスクワでピョートル1世に拝謁し、1705年、サントペテルブルグの日本語学校の教師を命じられています。漂流の時期は、光太夫よりも85年も前のことです。

ラクスマンは、フィンランド出身の自然科学者で、光太夫よりも14歳年長でした。彼のかつての師が長崎に留学していたので、日本に特別の興味を持っていたといわれています。地質の研究が認められて帝都・サントぺテルブルグ科学アカデミーの会員となり女帝エカテリーナ2世や政府高官との知遇を得ていました。
(そして、遂に帰国へ と続く)



三重県亀山市関宿で見たムクゲ 本文とは関係ありません。
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“漂流民・大黒屋光太夫と彼を支えた人たち”その1

2012-07-14 21:30:42 | 歴史

岡山後楽園 本文とは関係ありません。

先日の「高田屋嘉兵衛と大黒屋光太夫」の続編です。 
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の廻船の船頭でした。1782年、嵐のため江戸に向かう廻船が漂流し、アリューシャン列島のアムチカ島に漂着。その後ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルグで女帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から9年半後の1792年に根室港入りして帰国するというすさまじい体験をしました。

帰国した時の彼の肖像画が残っています。髪は三つ編みにして後ろに垂らしそれを黒い絹布で包んでいます。首にはエカテリーナ2世からいただいた金メダルをかけています。この金メダルは格別の勲功のある平民に贈られるもので、賜ったのはロシア本国でもたった二人しかいなかったそうです。洋服はロシアから持ち帰ってきたもので銀モール製のコートとお揃いのズボンをはいています。これを見た日本人には、さぞ異様な姿に映ったことでしょう!顔の印象としては、垂れ目、大きな鼻、特徴的な眉毛だったそうです。

高田屋嘉兵衛との大きな違いは、彼がロシアへの漂流民だということです。当時、日本は鎖国をしていましたので外洋に乗り出せるような大きな船の建造を認めていませんでした。嘉兵衛よりも18歳も年長であり、遭難した時期(高田屋嘉兵衛は抑留された時期)も、30年も前のことです。暴風雨に会い、舵をなくし、止む無く帆柱を切断した船は、洋上の木の葉でしかありません。あとは、海流の流れるままに、ということで実に8カ月の間、漂流しつづけ、やっとアリューシャン列島の小島にたどり着いています。どうしてそのように長く洋上で生きていることができたのか。実は、江戸に届けるために多くの米(140俵ほど)を積んでいたのです。雨水を貯め、16人の船員が、少しずつ、少しずつ食べてしのいだのでしょう。しかし米を炊きつける練炭がなくなり、生米を食べるしかなくなって、ついに壊血病になって一名が亡くなっています。
毎日、毎日見る同じ海、同じ顔ぶれ、揺れる船の上の狭い空間で過ごす日々は、精神的にも極限状態ではなかったでしょうか。この間、特に船内で事件らしきものが何もおきなかったのは、船頭・光太夫のリーダーシップによるところが大きかったのでしょう。

島(アムチカ島)は、高い山のない平坦な島で、樹木はなく岩山だけの島でした。島には先住民のアレフトとロシア人の狩猟団がいました。その年のうち、寒さと弱った体力により、さらに4人の仲間を失います。2年後にロシアからの迎えの船が来ましたが、皆の見ている前で、接岸に失敗し大破してしまいます。そしてさらに2年後、協力して船を修復し、やっと島を出ることができました。乗船者は、ロシア人25名、日本人9名と、光太夫が日本から連れてきた猫一匹です。この島で暮らした4年間でロシア語をマスターしたといわれています。(つづく)  



岡山後楽園のハスの花 本文とは関係ありません。
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