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未熟なカメラマン さてものひとりごと

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高田屋嘉兵衛と大黒屋光太夫

2012-07-10 22:43:25 | 歴史

兵庫県洲本市五色町 高田屋嘉兵衛公園 日露友好の像

先日、淡路島の高田屋嘉兵衛の記念館を訪ねました。しかし、彼の名前こそ知っていましたが、ロシアに関わりを持った人ぐらいの知識しかなく、また、私自身が、大黒屋光太夫とも混同している部分も多くあって、これは顕彰会の人に失礼だなと思い、改めて両者のことについての史実確認と顕彰をしてみたいと思いました。
これが、卒論のテーマだったら、どんなに楽しかったことだろう、と思いながらネットで資料を抽出し、詳しく読み直してみました。その後、調べて行くうち、同じようにロシアに抑留され稀有の体験をした若宮丸の人々のこと、そしてさらに時代は下って、アメリカに渡ったジョン万次郎のことにも連鎖的に興味が湧いてきました。

≪時代の背景について≫
日本
江戸幕府による鎖国が行われており、海外とは、中国、オランダのみ通商が行われていた、松平定信は、ロシアのとの通商を始めてもよいと思っていたが、失脚。結果的にアメリカのペリー来航まで開国がのびてしまった。
ロシア
ロシア皇帝は、日本との通商を始めたく、漂流民を日本語学校の教師にし、きたるべき時に備えて準備をすすめていた。漂流民を日本へ返すという大義名分のもとに日本に来航し、通商を求めるがガードが固く断念。

まず、高田屋嘉兵衛(たかたやかへい)ですが、淡路島の出身で水主から船頭となり、その後、幕府に協力して北方航路を開拓し、その後は函館に活動拠点を移して町の発展や漁場の開拓に大いに尽力しました。嘉兵衛が北方で活躍していたころ、通商交渉のもつれに端を発した双方の誤解から、ロシア船のゴローニン艦長が幕府警備隊に捕らえられる事件がおこりました。副艦長リコルドは、艦長の消息を聞き出そうと偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえ、カムチャッカへ連行抑留してしまいます。

囚われの嘉兵衛とリコルドは同じ部屋で寝起きし、「一冬中に二人だけの言葉をつくって」交渉、この両者の信頼関係が、遂にゴローニン釈放に至る両国の和解を成し遂げました。彼の尊敬すべきところは、函館の街が焼けてしまったとき、私財をなげうって修復に努め、また第一線から身を引いて故郷に帰ってからも、町の復興に尽力したことです。その前向きの姿勢と行動力を、小説「菜の花の沖」を書いた作家、司馬遼太郎も「いつの時代においても第一線で活躍できる人」と評しています。ただ、それまでの苦労が体をむしばんでいたのでしょうか、59歳という若さで亡くなっています。
ただ、ひとつ残念だったのが、家業を継いだ弟の金兵衛が、密貿易の疑いで財産を没収されてしまったことです。
 ところでゴローニン艦長は、国後島で捕虜となり、松前で2年間、牢獄で抑留生活を送りましたが、その時に観察した日本人論を「日本幽囚記」として発表しています。日本人を見る彼の目は暖かく、日本人はまず平和を愛好する国民であると述べ、その高い教育水準、過度ともいえる礼儀正しさなどについて、賛嘆を惜しんでいません。後にこの本を読んだトルストイやドストエフスキー、ニコライ神父にも日本への関心を喚起したといわれています。
現在、函館市には函館高田屋嘉兵衛資料館が開設され、函館山の麓には高田屋嘉兵衛の銅像が建ち、護るように函館市内を見下ろしています。
(“漂流民・大黒屋光太夫と彼を支えた人たち”につづく)

コメント (3)
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吉岡銅山跡から鯉が窪湿原へ

2010-09-02 21:08:13 | 歴史

ひろばの雑草

目的地の吉岡銅山跡に着き、とりあえずほっとしました。少々膝がガクガクしています。目の前には学校の運動場にも匹敵するような広塲があり、桜でしょうか、若い木が等間隔に植栽されています。これから数年後の桜の咲く頃には、ファミリーで大いに賑わうことでしょう!しかし、残念なことに今は雑草が生い茂っていました。それも半端ではありません。家族から、ヘビが出るので無理をしないようしっかり念を押されて家を出た私ですが、折角来たので、それでも少し冒険しないわけにはいきません。「選鉱場」、「精錬所」「沈殿池」「煙道」など、しっかり足元をみながら進みました。崩れかけたレンガ造りの建物や坑道の入口(木の蓋がありましたが、朽ちていました)。沈殿池の縁に登ってみると、中にきれいなスイセンがたくさん咲いていました。ただ、いまひとつ全体像がつかめず、この遺構がどういうものでいつまで使われていたものか、当時、どのような施設がありどのような役割をしていたのか、図で紹介してあるとよかったと思いました。これからだんだんと整備されるのでしょうね!ただハイキング感覚で来る分にはいいでしょうが、車では、途中交わすところがないので、そういう意味では大変です。最初の立派な案内板を見ると、気になって来る人も結構多いのではないでしょうか!いずれにしても、完全に閉山となった昭和47年当時の遺構でしょう!この吹屋・吉岡銅山に、あの住友、三菱の二大財閥が大きく関わっていたことがとても興味深いところです。


レンガ造りの建物

 ひと通り見て帰るとき、注意事項が書かれた看板が目にとまりました。「茂みには決して入らないように!マムシが待っています」とありました。よかった、会わなくてと、山道を帰りましたが、「行きは、よいよい、帰りは怖い」この季節の急な坂道、何と遠く感じたことか。体は汗でびっしょりです。カメラさえもとても重く感じます。
マムシといえば、井原市内美星町の青空市場でいつか見た「マムシあります」の提げ札のことを思い出しました。なんと生きたマムシをビンに入れて売っているのでした。
(知識)
マムシは夜行性で、冬眠前後の冬と、こどもを生む7月頃の雌、以外は日向には出てこないようです。特に湿気のあるところを好みます。池、たんぼ近くの深い茂みでひっそりしているところに足を踏み入れると大変なことになります。

そんなことを思い出しながらゆっくり山道を登っていきますが、もう息も絶え絶え、足腰にもこたえます。すると突然、前方に蛇が!一瞬、ドキッとしましたがマムシではないようでした。
やっと車まで戻り、次の目的地、鯉が窪湿原を目指します。道順はナビ任せ。最短コースを選択すると県道50号線とありました。道はだんだん細くなり、対向車が来たらどうしようと思うようなところも何箇所かありましたが、反面人家があるようなところはゆったり2車線になっていて、しばらくこの繰り返しでした。そしてやっと次の目的地、鯉が窪湿原に到着しました。(つづく)

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遊女たちの悲しい物語があった

2009-09-27 00:18:40 | 歴史



 先日、広島県は大崎下島の御手洗(みたらい)を訪ねました。ここは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。今までは三原か竹原からフェリーを利用するしかなかったのですが、橋が架って車で直接行くことができるようになりました。そのせいか、当日は多くの観光客で賑わっていました。
 ところで写真の年配の方、名前を宮本さんとおっしゃるのですが、ミニおちょろ舟の実演販売をされています。ところでこのおちょろ舟というのは何でしょう!少し調べてみることにしました。

 おちょろ舟とは、風待ち・潮待ちのために停泊している船の乗組員を相手にする女たちを乗せた小舟だそうです。名前の由来は船の間をちょろちょろ行く舟から、とか、お女郎舟がなまってできたともいわれています。

 近世中期以降の瀬戸内海は、北国の物資を大坂へと輸送する際の、物流の大動脈にあたっていました(西回り航路)。造船・航海技術の進展によって大型化した輸送用の帆船(北前船)は、日数をかけて海岸沿いを航行する「地乗り」ではなく、瀬戸内海の中央を倍近い速さで走り抜ける「沖乗り」の航路を次第に取るようになりました。このような時代の流れのなかで御手洗(大崎下島)や木江など、沖乗り航路にとって便利な地点に新たに港湾が整備されたのです。

 御手洗には、1600年の中ごろ人家が建ち始め、1700年代に入ると、若胡屋などが次々と茶屋として公認になりました。(若胡屋だけで多い時は100人も遊女がいたそうです)四国、九州の大名の参勤交代、北前船の寄港などで湊がますます繁盛しました。この頃から格式と教養を身につけた遊女「おいらん」が必要になり、おいらんとおちょろ舟の娼妓へ分化したようです。すなわち、おちょろ舟に乗るのは器量のない女たち。でもおちょろ舟の娼妓はよくつくしたそうです。顔なじみになると煮炊き、洗濯から次の寄港までに必要なものを用意してやったとか。

 しかしながら、明治中期以降の機械船普及に伴い、停泊地とされなくなったこれらの港は次第に衰退への道を歩みますが、このおちょろ舟も1958年の売春防止法施行とともに消滅したそうです。早く家に帰れという島の巡査に「だんなさん、そんなこと言われても、私には帰るところがないんです。」「家が貧乏で仕方なしにこういうところに売られてきたんですけん、家へ帰ってもどうしようもないんです。めしはくえんのです。」
 当時の日本の貧しさ、政治の貧困、親の哀しみを背負って、身を捨てて懸命に生きた遊女たちの物語がありました。

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あのシーボルトも登った太子殿への山道

2009-07-06 00:35:23 | 歴史


 4日の土曜日、久しぶりに鞆を訪ねました。青空が広がる比較的良い天気でしたので、医王寺から鞆の町並みを写真に撮ろうと思いました。対潮楼からの眺めも素晴らしいのですが、医王寺から見る鞆の浦も素晴らしいものです。おそらく鞆一番の眺望だと思うのですが、さらにこの医王寺からはるか山道を登った先にある太子殿からの眺めは、まさに絶景。はるか仙酔島まで一望できます。
 医王寺には、太子殿登り口の案内板がありますが、所要時間とか何段とか一切説明がありませんので、初めての方はきっとそのきつさに参ってしまうことでしょう!急勾配の延々と続く石段。その石段にはNOがふられています。写真は最後の石段でNO.583です。さすがにここまで来ると息がきれそうです。
 実は、その昔あのオランダ商館の医師・シーボルトも1826年(文政9年)に植物や岩石の調査のためこの山道を登ったことが記録に残っています(江戸参府紀行)。同じように息を切らしながら登り、その絶景に溜息をついたことでしょう!

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何と篤姫が我が家の前を通ったかも??

2009-03-11 23:46:20 | 歴史

(H21.3.7撮影)

 ほんとに久しぶりの投稿となりました。継続は力なり、といいますが、なんでも続けるというのは難しいことですね。
 せめて一週間に一度は掲載していかねばと反省している次第です。

 ところで先日、矢掛町横谷の梅を見に行った帰り、天気もよかったので宿場町矢掛の古い町並みを見て帰ることにしました。すると、通りにはご覧のような句が書かれた色紙が各戸の軒先に掛けられていました。
 写真の句は「篤姫も揺られて上った宿場町」となっています。
 これは昨年の秋、篤姫が江戸に向かう途中、矢掛宿の本陣石井家(国の重要文化財)に泊まったとされる記述が宿帳から発見されたということ背景にうたわれているものです。この石井家に30名、矢掛宿には総勢200人が宿泊したそうです。
鹿児島から江戸までの諸経費はいったい総額どのくらいかかったのか、気になるところです。

 ということは、旧山陽道に面している我が家の前を当然ながら、あの篤姫様も通って行かれたということにもなります。
 ドラマはもうとっくに終わっていますが、何となく改めて親近感が湧いてきた感じがします。

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