写真は雲南・昆陽の鄭和公園内の博物館にある鄭和が建立した鄭和の父を顕彰する碑。「字、哈只(ハッジ)、姓、馬氏」と書かれている。
【清・雍正八年に雲南へ】
まず、シルクキャンディーのこの村でのはじまりが、なぜ300年前といわれているのかというと、この村で一番の名刹といわれる回族寺院の拖姑清真寺の由来記にあるようです。
1730年(雍正八年)に清朝武官の蔡家地(サイジャディ)の馬姓の祖先である馬鱗燦公、馬鱗熾公が戦功によって、拖姑村にやってきて、上記の回族寺院を建てたのです。ここまで明確に時代考証のできる資料は珍しく、その時からある食べ物、とどこかで確証を得たのか、300年前、と確定したのでしょう。
というと、この食べ物はこの地で創作されたものでなければ、清の雍正帝の時代に清朝武官の暮らす地に伝わっていたと考えられます。
【「族譜」を読む】
そこで、まず、彼らの出自を考えてみます。
馬姓は、中国では回族がよく持つ姓です。鄭和の本名も「馬和」です。
蔡家地はサイジャチとも読めるので、もしや、元の時代に雲南を治めるためにやってきた、あの中央アジア出身の、あのサイジャチかと思ったのですが、違うようです。
蔡家地馬姓には代々伝わる「族譜」(中国の人は血筋の系統を書いたこの文書をとても大切にしています。華僑が世界中にネットワークをたやすく構築できるのも、この族譜をもとに結束を固めていることも一因です。)が伝わっていました。それによると
「唐代に西域より山西省太原に移り住んだ貴族の武人の出で、元朝後期に陝西省固原柳樹巷に移り住み、明の洪武16年に西天竺の天経8巻を解釈したことで、皇帝に喜ばれて太師の称号を賜り、その後、1625年(明天啓二年)に貴州省に貿易でやってきた。同族に雲南昭通の蔡家地馬姓などがいる」とのこと。
ここで注目したいのが「陝西省固原柳樹巷」。これも何度かこのブログで指摘していますが、雲南各地に移住した人々が出身地として異口同音にいう地名です。雲南に居住する前の地として、フィールドワークをしていると、本当によく出てくる名称です。私も聞きました。
上田信著『海と帝国』によると、おそらく、雲南に屯田させられる時に集合場所とされた場所なのだろう、ということ。元朝後期から雲南への移住のために目をつけられていた一族だったのかもしれません。
(つづく)