野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



この季節、温室の中に咲く花を見ようと思って鶴見緑地公園の中にある咲くやこの花館に行ってみました。・・・入り口には春の七草を、それぞれ鉢植えにして展示。味のあるひらがな墨書でした。

金屏風の前には、午の文字がくりぬかれた丸太が置かれていました。

上の写真金屏風の前、左の黄色いツバキは中国原産の金花茶でしょう。ちょうど開花していました。

温室に入るとランが花盛りでしたが、中にヒスイカズラのような薄いブルーの花がありました。

珍しかったので、ちょっと拡大してみましょう。鉢にはラシュナリア・ウィディフロラ(ユリ科)南アフリカ原産とありました。

その下に置かれていたのは、同じ南アフリカ原産ユリ科のマッソニア・ロンギペスです。

ベトナム原産、海棠椿のツボミ。ベトナムには中国の金花茶とは違う黄色い椿もあるようです。

赤いパウダーパフ

白いパウダーパフ(ボリビア原産マメ科のカリアンドラ・ハエマトケファラ)



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大阪市住之江区役所と羽曳野市役所を直線で結んだ線は、二上山山頂に延びていて、その線上付近では冬至に近い時期であれば二上山から昇る日の出を見ることができます。・・・コスモタワー展望台から見た二上山、左が雄岳、凹み(馬の背)の右が雌岳

大和から見れば、夕陽が沈む二上山は、西方浄土につながる聖なる山とされています。・・・二上山の雄岳にある大津皇子陵

聖なる二上山の西側に築かれたのが古市古墳群で、最初の写真、二上山の手前に小さな島のようにそれが写っています。・・・雌岳山頂は、広場となっています。

初日の出ではありませんが、これから大阪市内南部から見える二上山からの日の出写真を紹介しましょう。・・・空気の透明度は良くありませんが、雌岳山頂からの日の出です。

このくらいズームアップすると、二上山からの日の出ということが判ります。

朝日は、二上山から離れてゆきました。

さて、別の日に別の場所からも二上山を撮ってみました。この場所からは、送電鉄塔と送電線の背後に二上山が見え、雄岳左側から太陽が昇るようです。

二上山雄岳の山頂部に朝日がさしかかります。この日の空気の透明度は悪く、二上山であることがやっと判る程度でした。

雄岳山頂部にきた朝日です。送電鉄塔が無ければもっとドラマチックな写真になったと思います。・・・大阪市内で二上山からの朝日が撮影できる場所は少ないようです。



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玉手山は古墳群があることで知られていますが、玉手山公園の北、安福寺の山門を入ってすぐ、参道の両側に古墳時代の横穴群が計35基確認されています。

横穴の説明書によれば、出土した土器などから、6世紀半ばから7世紀はじめにかけて造られたものだそうです。

中には岩盤をくりぬいた棺の入った穴もあるので、墓地として使われていたものだそうです。古墳を造るほどの財力は無いけれど、横穴墓地を築造できるレベルの人が入ったのでしょうね。・・・反対側の斜面にもあります。

この安福寺には、明治時代に玉手山3号古墳から出土した石棺の蓋があることでも有名です。・・・安福寺の築地塀、右奥の手水舎に石棺が置かれています。

この石棺蓋は、竹を割ったような形から割竹形石棺蓋と呼ばれています。・・・手水舎の中の石棺はかつては手水鉢として使われていたようです。

国の重要文化財となっている石棺蓋の石材は、香川県鷲ノ山産の凝灰岩で、縁に線刻がありました。・・・1600年くらい前のものですが、永く土中にあり、出土後もあまり風雨に曝されていないので保存状態は良く、線刻も見ることができます。

玉手山古墳群は、石川に沿った東側の丘陵地に14もの古墳があります。・・・安福寺の山門

山門の内側から見た本堂

奥は玉手山頂上付近まで墓地となっていました。



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柏原市にある玉手山の一帯は、古墳時代前期(4世紀)の古墳群で、大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上に合計14基の前方後円墳と数基の円墳が、南北に連なって築造されている(柏原市HPより)・・・ということで玉手山に近い近鉄河内国分駅

直木孝次郎の「日本古代国家の成立」には、<4世紀末から5世紀初頭に河内方面に新しい勢力が出現して天皇家の先祖となった>・・・古墳群のある玉手山(西側)へは、国分駅からすぐに急な坂となります。

「日本古代国家の成立」には<やがてこの勢力は、外から大和の地に入り、古い三輪政権を滅ぼした>と書いています。・・・玉手山古墳の西側、石川対岸には古市古墳群が見えます。

古い三輪政権を滅ぼした大王は、大和に本拠を置いて自分の墓だけを故郷の河内に営んだという説もあります。・・・住宅の先が玉手山1号古墳(前方後円墳、墳長110メートル~120メートル)

直木説は応神王朝を新しい政権の始まりと考えているそうです。・・・玉手山1号古墳の後円部

5世紀以降の朝廷で勢力を持っていた大伴氏、物部氏、中臣氏はいずれも河内を本拠地とする一族として知られています。・・・玉手山一帯は、大坂夏の陣(1615年)の古戦場でもありました。玉手山1号古墳前にある大阪夏の陣の小松山古戦場跡の石碑。

玉手山古墳群の位置を地図で見てみると、石川と大和川が合流し、灌漑用水として河内に向かうポイントとなる高台となっています。・・・玉手山1号古墳に隣接する墓地となった高台は、玉手山2号古墳の後円部のようです。

玉手山古墳群は、大伴氏、物部氏、中臣氏など河内を本拠地とする首長達の墓地だった可能性があります。・・・玉手山は、大阪夏の陣で豊臣方の後藤又兵衛が布陣した場所として知られています。

玉手山1号古墳の後円部の頂上には、大坂夏の陣で後藤又兵衛軍と戦い討ち死にした、徳川方の武将・奥田三郎右衛門(南都奉行とありました)の墓がありました。

参考文献:大阪の前方後円墳 古市古墳群の成立前夜から河内王朝論と古墳の展開 北野耕平著

 



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昨日の記事からの続きです。今宮戎拝殿左側で縁起物を笹につけて貰い、そのまま拝殿の奥に進みます。

拝殿のすぐ左側でも縁起物を笹につけていました。・・・最近では外国人の福娘(右から3人目)もいるようですね。

その奥にも外国人の福娘(左から2人目)がいました。・・・こちらは着なれないせいか巫女の白衣がちょっとはだけていますね。

拝殿奥左側は、南花街戎講の縁起物売り場です。・・・こちらは活気がありました。

今宮戎の本殿裏側にきました。・・・本殿にいる戎っさんは耳が遠いので、裏側に置かれた太鼓を手で敲いて再度願い事をすると良いそうです。

本殿を左から裏側に回り、おかえり専用口から外に出ます。・・・外には金ぴかの戎っさんが所せましと置かれています。

出口を左に曲がると広田神社が見えてきます。・・・広田神社への参道も露店が一杯でした。

広田神社です。西宮にある広田神社は広大ですが、こちらはこじんまりとした神社でした。

そこから南海電車横の道路に出てみると、両側に露店がぎっしり軒を並べていました。・・・今宮戎の戎っさんは、露店商の皆さんにとって有難いイベントなのでしょうね。



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1月9日の夕方、今宮戎神社の宵戎に行ってきました。大阪の年初を彩るその風景を紹介しましょう。・・・地下鉄大国町駅から今宮戎神社までの歩道上には提灯が置かれ、雰囲気を盛り上げていました。

大国町駅の東、南海電車の今宮戎駅の向こうが目指す今宮戎神社です。

今宮戎神社からのかえり道となる南海電車の高架に沿って、難波駅近くまでずらっと露店が店開きしていました。・・・凄い数です。

こちらは今宮戎神社正面鳥居前に出店したきらびやかな露店です。・・・これほど金ぴかの露店はなかな無いでしょうね。

この日は宵戎だったせいで、まだ人出は多くありません。・・・それでも今宮戎神社の拝殿前はそこそこ賑わっています。

拝殿の両側では、神社の若い男性が無料の笹を配っていました。

笹配りの男性は、次々と笹の小笹を手渡そうとしますが、馴れた参拝者は、枝ぶりの良い笹が出るまでじっと待っています。

枝ぶりの良い笹を受け取った参拝者は、福娘のいる縁起物授かり所に向かいます。

ここで縁起物を購入して笹につけて貰い、最後に福娘と握手することで福が授かるという手順となっていました。・・・握手を忘れ、後から握手を求めているあわて者もいました。

多数の応募者の中から選抜されているせいか福娘の皆さんは美人揃いの上、それぞれ愛嬌がありますね。

つづく



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近鉄南大阪線の駒ヶ谷駅で下り、チョーヤ梅酒の前を通過すると飛鳥奈良時代の国道1号線とも言える竹内街道に出ます。

竹内街道を東に歩くと、そこに杜本神社があります。参道の手前の案内板によれば、平安時代初期、百済永継(女性、桓武天皇の女嬬で皇子良岑安世の母親)とその祖先(飛鳥部氏)を祀る神社だったと書いてあります。

平安時代の藤原家は、藤原内麻呂(756~812年、従二位右大臣)の二男、藤原冬嗣(775~826年、正二位左大臣)から始まる藤原北家が最も栄えますが、内麻呂の妻で冬嗣の生母は、桓武天皇の皇子、良岑安世(785~830年)と同じ百済永継です。・・・杜本神社の参道です。

藤原内麻呂の父、藤原真楯(715~766年、正三位大納言)は北家の祖・藤原房前(681~737年、正三位参議)の三男ですが、兄(房前二男、内麻呂の伯父、冬嗣の大伯父)藤原永手(714~771年、正一位左大臣)の墓が何故か杜本神社拝殿の横に現存しています。・・・その墓標

藤原北家の嫡流・生前正一位まで出世した藤原永手の三男、藤原雄依は、桓武天皇時代に順調に出世しますが、785年に起こった藤原種継暗殺事件に連座して隠岐に配流となっています。・・・正面突き当り左右の道が竹内街道

20年後に許されて帰京、806年の桓武天皇崩御に当たって従四位上の地位を回復していますが、従兄弟の内麻呂(父永手の弟・藤原真楯の嫡男)との(朝廷内での)差は決定的となり、藤原北家嫡流は内麻呂・冬嗣の系統に移っています。・・・境内にある金剛輪寺跡の説明

隠岐に配流され帰京した人として小野篁(802~853年、配流期間838~840年)は知っていましたが、785年から805年までの20年間も隠岐で流人生活を送り、無事に帰京した藤原雄依のことは知りませんでした。・・・鳥居と参道

娘順子と仁明天皇の間に文徳天皇(827~858年)が生まれ、天皇家の外祖父となった冬嗣は、母親の百済永継とその先祖を祀る神社として杜本神社を整備したのでしょう。・・・杜本神社の拝殿と摂社

杜本神社は、旧河内国にある比較的小さな神社ですが、藤原北家と所縁があるせいか、延喜式神名帳に記載された名神大社となっています。



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去年の正月、二上山の山頂から見た古市古墳群を紹介しましたが、今年はもっと近くにある展望台から見た写真を紹介しましょう。・・・二上山から右の山(寺山)の先に古市古墳群が見えています。

さて、ビニールシートで覆われたぶどう畑の先に見える羽曳野市の住宅街の中、その中に点々と浮かぶ緑の島が古市古墳群です。・・・この日は快晴でしたが、黄砂かPM2.5の影響か、空気の透明度が良くありません。

上の写真、右から左へ順に紹介しましょう。まず右側の古墳は、古市古墳群よりも古い玉手山古墳群(4世紀頃)です。こちらは天皇古墳として比定されなかったせいか、不動産開発でかなり破壊されています。

玉手山古墳群の左は、石川沿いの古市古墳群で最北端にある允恭天皇陵(市野山古墳、墳丘長227m、5世紀半ば)

仲津媛陵(仲津山陵、290m、誉田山古墳よりもやや古い5世紀初め)・・・背後に梅田の高層ビル群がかすかに見えています。1600年前の古墳と近代超高層ビルが同じ写真の中に入るのが大阪の魅力です。

応神天皇陵(誉田山古墳、425m、5世紀初め)この古墳以降、埴輪の製法が須恵器と同じ新しい製法となっています。・・・右端後方にあべのハルカス

仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳、242m、5世紀後半)この古墳から埴輪の製法が簡素化されはじめているそうです。

中央は墓山古墳(225m、5世紀前半)、右奥は河内長野市の河内大塚山古墳(雄略天皇陵説があるそうです、335m、6世紀後半)

右(鉄橋の正面)が日本武尊白鳥陵(前の山古墳、200m、5世紀後半)、その左上が峯ケ塚古墳(96m、6世紀初め)、高層マンションの左が安閑天皇陵(高屋築山古墳、122m、6世紀初め)、その左上が清寧天皇陵(白髪古墳、112m、6世紀前半)

 中国では紀元前1世紀の司馬遷をはじめとした歴史家が詳細な歴史を残していますが、古墳時代(6世紀半ば)以前の日本に歴史が残っていないのが残念です。被葬者は誰なのでしょうか。



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昨年大阪港から見えた朝日の太陽柱(日の出、日の入り時に見ることができる現象。かなり頻繁に発生しているようですが、見える時間が短いので意外と気がつかないようです)

大阪港から見えた夕方の太陽柱(こちらはやっとそれと判るくらいに薄い光でした)

大阪港から見えた反薄明光線(この180度反対側に同じ形をした夕陽の薄明光線があるはず)

大阪港から見た満月の出(日没直後、西の雲にはまだ夕陽が当たっていましたが、高安山の上空にポッカリと出てきました)

こちらは朝日ですが、東の空がやや曇っているせいで太陽はオレンジ色に見えています。

飛行機から見えたブロッケン現象(飛行機の影を中心に虹ができるはずですが・・・)

中之島周辺のビルに朝日が当たっているものの、中之島公園西側の背景には黒い雲が。

静かな淀川の水面に反射する青空

晩秋に訪れた大隅半島の青空と川底の1枚岩(花瀬公園という名勝地です)



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正月休み中なので、昨年下期に撮影した写真から花と昆虫の写真をいくつかを紹介しましょう。・・・長居植物園のコスモスとオオスカシバ(大透翅)

アゲハチョウ

 堂々としたツマグロヒョウモンのオス

 ツマグロヒョウモンのメスはオスよりもかなり小ぶりですね。

此の花咲くや館前の池に咲くスイレン

此の花咲くや館のパウダーパフ

長居植物園のアゲハチョウ

万博記念公園のイロハモミジ

万博記念公園の紅葉。近くに紅葉狩りの穴場があることを知りました。



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昨日の記事の続きです。2014年大阪市消防出初式は、好天に恵まれたせいか観客も多く、参加した消防隊員には気合が入っていました。

本部前の整列

隊旗退場

消防ヘリによる救助訓練

レスキュー隊による救助訓練

消防車による放水訓練の準備

参加した消防艇「まいしま」

消防艇のカラー放水

放水訓練終了



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大阪市の消防出初式が本日(1月5日)ATC前であると聞いたので、さっそく見に行ってきました。

ITM棟の前がメイン会場のようです。

そこでO’s棟前からITMに向かって歩いてみました。海側に、ずらりと消防車が勢ぞろいしています。

消防車の横には消防隊員も勢ぞろい、出初式のクライマックス、一斉放水イベントに参加するようです。

沖の方から出初式に参加する消防艇も入場しています。

ITM棟前のメイン会場では、来賓のスピーチが、ながながと続いていました。

スピーチの途中、消防艇が放水の試運転を始めていました。・・・消防隊員諸君は熱心に耳を傾けているようです。

大阪市消防局が誇る消防ヘリも参加しています。

大阪市のトップは、スピーチにも力が入っていて、どうやらこういうイベントは大好きなようです。

つづく



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正月休み中なので、特集として昨年下期に撮影した写真から月の写真をいくつかを紹介しましょう。最初は初日の出にちなんで大阪港の朝日

上の写真、日の出とほぼ同じポイントから上る満月を撮影してみました。橋などのイルミネーションがあるので、こちらの方が絵になっています。

満月は、なみはや大橋の上にまで上り、月の強烈な明かりと橋などの照明が海面に反射していてなかなか綺麗でした。

こちらは大阪港大関門の西に沈む月です。日の出前ですが、もう明るくなりかけています。

かなり明るくなってきていました。この日の水平線上には珍しく雲が無く、オレンジ色となった月を最後まで見ることができました。

明石海峡大橋の右側、神戸市垂水区付近に沈む月。日の出まで少し時間があったので、黄色く輝いて見えていました。

シーサイドコスモ遊歩道から大関門赤灯台の右側に沈む三日月を撮ってみました。

こちらは、ATCのO’S棟南館前から西に沈む金星と三日月です。金星と月がこれほど接近するのは珍しいのではないかと思います。

この日天気は良く無かったのですが、三日月の地球照がはっきりと見えていました。

2013年特集につづく



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初詣で有名な伊勢神宮を年末から紹介していますが、その続きです。さて、伊勢神宮内宮(皇太神宮)には、合わせて91もの別宮、摂社、末社、所管社、別宮所管社があります。・・・正宮参詣後に荒祭宮へ向かう途中にあった御稲御倉(みしねのみくら)と外幣殿(正面)も新しくなっていました。

荒祭宮(あらまつりのみや)は、正殿と同時期に創建された内宮の第一別宮です。途中にある外幣殿(げへいでん)も新しくなっていました。

荒祭宮は、天照大神の荒御魂を祀っていて、その神霊は積極的・活動的・威力があるとされています。従って祭典も正宮に準じ、別宮のなかで最も丁重に執り行われるとか。・・・参詣者の長い行列

内宮の別宮、月読宮、月読荒祭宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮の4宮は、内宮と外宮の中間地点に並んで鎮座していますが今回は時間が無かったので参拝を省略しました。・・・荒祭宮

風が雲を運び、雨を降らし農作物の生育を助けるよう日ごとに祈るのが風日祈宮(かざひのみのみや)です。1281年の蒙古襲来の際、ここに祈願すると神風が起こって蒙古が退散したので1293年に別宮に昇格しています。

伊勢神宮への祈願例としては、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に当たって参拝したとされています。・・・神宮司庁下にある内宮所管社の子安神社(手前)と大山祇神社(奥)

西暦672年、大海人皇子(後の天武天皇、631~686年)は、壬申の乱に際して伊勢神宮に戦勝を祈願したとされています。・・・内宮所管社の大山祇神社

平安末期の1186年、平氏に焼かれた大仏殿の再建祈願に重源(1121~1206年)が、60人の東大寺僧と共に外宮から内宮という順で参詣しています。・・・宇治橋の鳥居

また西行(1118~1190年)も伊勢神宮に参詣していて、その際に<何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる>という歌を残しています。・・・・大阪への帰りは、宇治山田駅発12時48分の特急に乗り、難波到着14時45分、早朝出発すれば外宮内宮をゆっくり参詣し、15時前に戻って来ることができることが判りました。・・・・近鉄宇治山田駅の駅舎

参考文献:「伊勢神宮」 三橋健著

 



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今年の初詣も本日(1月2日)南海住吉大社駅からほど近い住吉大社に行ってきました。住吉大社前の横断歩道では結構混雑していましたが、・・・

太鼓橋前もかなり混雑していましたが、天気は晴れで、気温もそれほど寒くありません。例年と比べると暖かい方だと思います。

太鼓橋の上から本宮前の鳥居を見ると、それほどの混雑ではないようです。

本宮入り口の階段付近では、混雑がかなりバラけていました。

第四本宮前の参拝者はこの程度

さすがに第一本宮前はかなり混雑していましたが、ここでも拝殿の最前列まで近寄って参拝することができました。

帰りは第四本宮前の門から南側に出ることにしました。この左側では例年「住吉踊り」をみることができます。

この日は住吉踊りの前にその舞台の横で、お祓講獅子舞をやっていました。これもお正月の雰囲気があって良いものですね。

獅子舞のあとで善男善女がお正月のお祓いを受けていました。



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