柏原市にある玉手山の一帯は、古墳時代前期(4世紀)の古墳群で、大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上に合計14基の前方後円墳と数基の円墳が、南北に連なって築造されている(柏原市HPより)・・・ということで玉手山に近い近鉄河内国分駅
直木孝次郎の「日本古代国家の成立」には、<4世紀末から5世紀初頭に河内方面に新しい勢力が出現して天皇家の先祖となった>・・・古墳群のある玉手山(西側)へは、国分駅からすぐに急な坂となります。
「日本古代国家の成立」には<やがてこの勢力は、外から大和の地に入り、古い三輪政権を滅ぼした>と書いています。・・・玉手山古墳の西側、石川対岸には古市古墳群が見えます。
古い三輪政権を滅ぼした大王は、大和に本拠を置いて自分の墓だけを故郷の河内に営んだという説もあります。・・・住宅の先が玉手山1号古墳(前方後円墳、墳長110メートル~120メートル)
直木説は応神王朝を新しい政権の始まりと考えているそうです。・・・玉手山1号古墳の後円部
5世紀以降の朝廷で勢力を持っていた大伴氏、物部氏、中臣氏はいずれも河内を本拠地とする一族として知られています。・・・玉手山一帯は、大坂夏の陣(1615年)の古戦場でもありました。玉手山1号古墳前にある大阪夏の陣の小松山古戦場跡の石碑。
玉手山古墳群の位置を地図で見てみると、石川と大和川が合流し、灌漑用水として河内に向かうポイントとなる高台となっています。・・・玉手山1号古墳に隣接する墓地となった高台は、玉手山2号古墳の後円部のようです。
玉手山古墳群は、大伴氏、物部氏、中臣氏など河内を本拠地とする首長達の墓地だった可能性があります。・・・玉手山は、大阪夏の陣で豊臣方の後藤又兵衛が布陣した場所として知られています。
玉手山1号古墳の後円部の頂上には、大坂夏の陣で後藤又兵衛軍と戦い討ち死にした、徳川方の武将・奥田三郎右衛門(南都奉行とありました)の墓がありました。
参考文献:大阪の前方後円墳 古市古墳群の成立前夜から河内王朝論と古墳の展開 北野耕平著