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蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院という法興寺は、元興寺とも呼ばれていますが、その後身が、現在の飛鳥寺です。かつての寺域は南北290m、東西200~250mという広大なものだったようです(明日香村の説明文)

法興寺は、蘇我氏の氏寺として6世紀末7世紀初頭にかけて造営された日本最古の本格的仏教寺院で、日本書紀には587年に蘇我馬子が建立を発願したとあります。東門

その造営のために百済から造寺の専門家が招聘され、(多数の日本人職人を指導しながら)592年に仏堂と歩廊とを起工、596年には法興寺を造り竟(おわ)りぬと日本書紀にあります。飛鳥寺本堂はかつての中金堂の位置にあります。

また仏像制作にも百済の専門家が呼ばれ、「鞍作鳥」をはじめとする日本仏師を助けてブロンズ製の本尊、釈迦三尊像を完成しています。本堂の南側、正面は塔の中心部を示す石

日本初の天皇勅願寺は、639年に造営開始された大官大寺ですが、蘇我宗家滅亡後の飛鳥寺も645年には天皇家の統制下に入ったようです。その645年に暗殺された蘇我入鹿の首塚という石塔が飛鳥寺西門跡の外にありました。

当時の飛鳥寺は、百済から多数の僧が招かれた仏教教育センターとなっていたようで、法相宗の祖、義淵もここで修業して後に岡寺に入っています。南側農地の先に回廊が接続された中門、さらに南門があったようです。

天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされていましたが、都が平城京へ移ると法興寺も移転(今の奈良市元興寺)、飛鳥の法興寺は本元興寺と呼ばれて残ったようです。

しかし、鎌倉時代初期の1196年の火災で焼失した後の衰退は著しく、本居宣長1772年に飛鳥寺を訪ねた際には「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったそうです。

昭和3132年(19561957年)の発掘調査の結果、当初の法興寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍が出土、中国南朝の伽藍配置を模したものと考えられています。

今の本堂は、江戸末期の1825年に再建されたものですが、現在の本堂の場所は馬子の建てた法興寺中金堂の跡地で、本尊の飛鳥大仏は飛鳥時代と同じ場所に安置されていることが判明しています。

参考文献:古代東アジアの仏教と王権 鈴木靖民編

つづく



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